Fragment:相川 桜Ⅴ
──Side 蒼明大学 法学部法律学科 相川 桜──
◆202X年3月8日午前7時11分
富ノ森駅前交差点
前日の夜、電話で「少し風邪っぽい」と彼女は笑っていた。
今朝、駅に向かう途中のスーパーでいちごを買った。ビタミンは風邪に効く、そう思った。
駅前の交差点に差しかかったとき、ポケットの中でスマホが震えた。
いつもの着信音──なのに、その音は鋭く耳を突き刺した。
掌に伝わる振動は、骨の奥までじんと響いた。
画面に浮かんだ番号を見て、足が止まった。
彼女のお父さんからだった。
「……桜くん……」
受話口の向こうで、嗚咽が混じった。
鼻をすする音。言葉を探す沈黙。
「……さっき……」
震える声がかすれ、潰れた。
「……■■が、息を引き取った」
言葉は届いた。届いたはずなのに、胸の中で何かがガシャリと割れた。
音が抜けた。世界の音が、全部消えた。
耳の穴に綿を詰められたみたいに、電話の向こうの声だけが遠くでぐしゃぐしゃ鳴っている。
頭がぐらりと傾いた。視界の端が波を打つ。色が落ちて、景色が垂れ下がる。
体が言うことをきかない。足がへばりついて、立っているのに立てない。
息をしようとしたら、空気が喉に突き刺さった。痛い。転びそうだった。
袋がするりと手から離れた。いちごが転がった。コロコロと。
赤が飛び跳ねた。生きているみたいだった。
舗道の小さな影に消えていく。消えていく──その瞬間に何かがもう一度、胸に沈んだ。
受話口からの嗚咽が、耳の鼓膜を叩く。声にならない音が、泡のように弾ける。
「息を」「引き取った」──単語は並んでいる。並んでいるのに、意味が落ちてこない。
意味を飲み込んだら壊れる。だから脳がフタをしている。フタの下で何かがぐちゃぐちゃになっている。
頭痛。耳鳴り。鉄の味。全部いっぺんに来る。
膝が抜けた。世界が遠のいて、そこに留まることができない。
クラクションが飛んでくる。誰かが叫ぶ。靴底のグリップが砂を蹴る音。
──走る。何のためにか分からない。走らないと、立っていられないから走る。
走る。胸が割れる。心臓が地面に叩きつけられる。
街路樹、桜の蕾がぶら下がっていた。先がほんのり紅い。来週、咲くはずの色。
どうしてそんなことを見るんだろう。なんで、こんな色を見るんだ。
俺は、声を出して泣く代わりに、ただ空気を切って走った。
◆202X年3月8日午前8時56分
都市の大学病院呼吸器科病棟
走った。気がついたら扉を勢いよく開いてた。
ぐちゃぐちゃに泣いている声が耳に飛び込んできた。彼女のお父さんだった。
顔を覆っても、嗚咽は隠せないようだった。
彼女のお母さんが振り向いた。
涙と鼻水で顔が崩れて、言葉が千切れていた。
「……■■がっ、■■が──」
俺の胸にしがみついてきて、骨がきしむほど強かった。
視界の奥に、ベッド。
彼女がいた。横たわっていた。動かない。
吸い込まれるみたいに膝をついて、顔を近づけた。
髪を撫でた。やさしく。
頬を撫でた。何度も、何度も。
冷たかった。返事はなかった。
それでも撫で続けた。触れていないと、彼女が薄れて掠れて消えて行ってしまうような気がした。
そっと、そっと撫で続けた。
時間が止まったまま、じりじり削られていく。
外のざわめきが遠くで滲んで、光がじわじわ角度を変えていく。
一瞬なのか、一生なのか。感覚が壊れて、何も掴めない。
黒衣の人が二人、いつのまにか立っていた。
担架の脚がかすかにきしんだ。
「……連れて行かないで」
声が自分のものじゃなかった。かすれて、潰れて、震えていた。
腕にすがりついた。離せなかった。
彼女のお母さんは泣いて床に崩れた。
彼女のお父さんは涙で顔を濡らしながら、俺の肩を押さえた。
「……■■は、がんばったんだ。最後までがんばったんだ」
声が震えていた。
「もう……やすませてあげよう。な。がんばったんだ……」
自分に言い聞かせているような言葉だった。
頭に入らなかった。
耳の奥で割れて、砕けて、何も形を結ばなかった。
それでも背に落ちるお父さんの涙だけが、熱くて、重くて、俺を押し潰した。
◆202X年3月8日夜
富ノ森市内斎場通夜式
香の煙が、夢の中の霧みたいに漂っていた。
目を開けているのか、閉じているのか、自分でもわからない。
白い花。白い壁。白ばかり。
その真ん中に、彼女の笑っている写真。
笑っているのに、そこにいない。
どう足掻いても映像と音が合わない映画を、延々と見せられているみたいだった。
座ったのか。立ったのか。
誰かが声をかけてきた気がする。返事をしたのかもしれない。覚えていない。
耳の奥ではまだあの着信音が鳴り続けている。現か夢か、判別できないまま。
棺の中を覗いた。
眠っている顔。冷たいのに穏やかで、悪い夢を見ているだけのようだった。
けれど、彼女の手を見て気づいてしまった。
骨と皮ばかりの腕。
俺の『大丈夫』を信じ続け、その果てがこの細さだった。
その現実だけは、夢の膜を突き破って、胸に刺さった。
周りは泣いているのに、声も涙も出なかった。
彼女のお父さんも、お母さんも泣いている。
俺の両親まで、彼女の両親と肩を寄せて泣いている。
娘じゃないのに。実の娘みたいに。みんなで泣いている。
俺だけが茫然と突っ立ち、夢の底に沈んでいた。
夢と現の境目が崩れて、世界が水の中みたいに揺れている。
その揺れの中で、ただ胸の奥が裂け続けていた。
──朝になったら、きっと目が覚めるんだ。
悪い夢だったと、汗だらけで飛び起きるんだ。
そう思い込みながら、俺は祭壇の灯りを見つめていた。
◆202X年3月9日午前
市内斎場告別式
朝になったら悪い夢だったと、飛び起きるはずだった。
そう信じていた。そうでなければ立っていられなかった。
けれど目の前に広がっていたのは、白い花と黒い服と香の煙だった。
生暖かい妄想は音もなく弾け、凍てつくような現実が代わりに顔を出す。
人が大勢いた。
小中高の同級生。恩師。親族。
みんな目を赤くして、すすり泣いていた。
俺の肩に、背に、手が置かれる。
「元気出せよ」「あんないい子がな」「……つらいよな」
声は耳に届いた。けれど意味は抜け落ちて、ただ空気の揺れとして通り過ぎていった。
焼香の列が流れていく。
立っているのか、座っているのか、自分でも分からない。
白と黒の影が、夢の膜の向こうでかすかに揺れていた。
◆202X年3月10日午後
富ノ森市内火葬場
重たい扉が開いた。
白い布に包まれた彼女が、静かに運ばれていく。
泣き崩れる声が響いた。彼女のお母さんだった。
床に崩れ落ち、名前を呼んでいた。
俺は立ち尽くしていた。
目の前にあるのに、もう彼女だと認められなかった。
認めたら全部が終わる。だからただ、ぼんやり見送るしかなかった。
最後の別れ。
棺の前に立たされた俺の手に、そっと小さな布包みが押し込まれた。
「……桜くん。これ……」
彼女のお母さんだった。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、声は震えていた。
「あの子……本当に喜んでたから。あっちでも使えるように、桜くんが……いれてあげて」
お母さんの喉から、嗚咽が漏れる。
包みを開くと、桜色のカシミア手袋が現れた。
去年のクリスマスイブ、彼女の手を温めたくて選んだものだった。
包装を解いてはにかんだ笑顔。
両手を差し入れて、「あったかい」と笑った声。
震える手で、それを棺に納めた。
けれどその手袋は、もう彼女の凍えを拭い去ることはない。
髪に触れ、やさしく撫でた。
頬に触れた。冷たかった。
手を握った。細くて軽くて、何も返してこなかった。
温めたかった手は、冷たいままだった。
何度も触れたはずなのに、そこに彼女はいない。
痛いほどの空虚だけが、掌に広がっていた。
◆
みんながお斎の席につき、箸の音を立てていた。
俺は一人で外に出た。
灰色の空に、白い煙が立ち昇っていた。
さっきまで触れていた体が、彼女だったすべてが、ゆっくりと天に昇っていく。
目で追うことしかできなかった。追っても追っても、遠ざかっていった。
背中に声をかけられた。振り向くと、彼女の両親が立っていた。
涙の痕も隠さないまま、俺に見慣れた彼女のスマホを差し出した。
「……■■が動画、残してたんだ」
お父さんの声は震えていた。
「自分がどうなるか、分かっていたのかもしれない。……もしものときのために、動画を撮っていたみたいだ。俺たちにも、桜くんにも宛てて。もう俺たちは移した。これは……桜くんに」
俺の手の中に、彼女のスマホがあった。
まだ温もりが残っている気がした。
画面を開く。再生する。
彼女の声。彼女の顔。
光の向こうで、痩せた彼女がかすかな笑みを浮かべていた。
『桜。今日も来てくれてありがとう。ほんとうに、ありがとう』
『わたしね、桜と同じ春をまた見たいんだ。だからがんばるね』
『桜が居るから頑張れるの。子供の時から、ずっと桜は私のヒーロー』
『でももし、もしも叶わなかったら……ごめん』
『泣かないで。桜が泣いたら、わたしまで泣きたくなるから』
『生まれてから今日まで、桜がずうっと隣にいた。だから、ずっと幸せだったよ』
ひとつひとつの言葉が胸に突き刺さり、体の奥で光のように焼き付いていく。
そして最後に。
画面に閉じ込められた彼女の瞳から、一筋、涙が零れた。
──さくら。
──ごめんね。
世界が音を失った。
風のざわめきも、遠くの人の声も、煙の軋む音も、全部消えた。
代わりに胸の奥で、鋭い痛みが爆ぜた。
頬を伝うものがあった。
涙は静かに落ちた。けれど一粒一粒が熱く、火のようで、肌を焦がした。
溢れるほどに、視界は歪んでいった。
味は塩ではなく、焼けた鉛の苦味が舌に広がり、喉を刺した。
鼻の奥に酸っぱい匂いが溜まり、呼吸が波打つたびに胸を締めつけた。
音もなく、しかし鮮烈に、涙は堰を切った川のように溢れ続けた。
──大丈夫。
──必ず治る。
──桜を見に行こう。
それは祈りだったはずだ。願いだったはずだ。
けれど違った。
祈りが、願いが、呪いとなって。
細い腕に石のように積み重なり、彼女の呼吸を奪った。
俺の優しさは、彼女を生かす光じゃなく、静かに締めつける鎖になっていた。
顔を上げる。雨が落ちてきた。
白い煙に混じり、灰色の世界を濁らせながら降り注ぐ。
涙と雨の境目は、もうわからなかった。
「……風吹……」
かすれた声が、勝手に口から漏れた。
この胸を裂いている痛みの名前を呼んだ。
その名を呼んでも、もう返事はなかった。
雨に濡れる桜の街路樹を見上げた。
枝先のつぼみは、硬く閉じたまま、かすかに紅を含んでいた。
花が開くのは、もう少し先。
風吹と迎えるはずだった春は、遠くにかすんで揺れていた。
雨脚は静かに強くなり、線が網になって世界を覆った。
音は水に掻き消され、匂いは土に沈み、雫は鉛の粒のように重くなった。
このまま雨に溺れてしまえたら、どんなにいいことだろうか。
俺の中──この日から、雨は止まない。
願いが、祈りが──呪いとなる。




