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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第貮章;その日、雨は止んだ──

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Fragment:相川 桜Ⅴ

──Side 蒼明大学 法学部法律学科 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年3月8日午前7時11分

富ノ森(とみのもり)駅前交差点


 前日の夜、電話で「少し風邪っぽい」と彼女は笑っていた。

 今朝、駅に向かう途中のスーパーでいちごを買った。ビタミンは風邪に効く、そう思った。


 駅前の交差点に差しかかったとき、ポケットの中でスマホが震えた。

 いつもの着信音──なのに、その音は鋭く耳を突き刺した。

 (てのひら)に伝わる振動は、骨の奥までじんと響いた。


 画面に浮かんだ番号を見て、足が止まった。

 彼女のお父さんからだった。



「……桜くん……」

 受話口の向こうで、嗚咽が混じった。

 鼻をすする音。言葉を探す沈黙。



「……さっき……」

 震える声がかすれ、潰れた。





「……■■が、息を引き取った」





 言葉は届いた。届いたはずなのに、胸の中で何かがガシャリと割れた。


 音が抜けた。世界の音が、全部消えた。


 耳の穴に綿を詰められたみたいに、電話の向こうの声だけが遠くでぐしゃぐしゃ鳴っている。


 頭がぐらりと傾いた。視界の端が波を打つ。色が落ちて、景色が垂れ下がる。

 体が言うことをきかない。足がへばりついて、立っているのに立てない。

 息をしようとしたら、空気が喉に突き刺さった。痛い。転びそうだった。


 袋がするりと手から離れた。いちごが転がった。コロコロと。

 赤が飛び跳ねた。生きているみたいだった。

 舗道の小さな影に消えていく。消えていく──その瞬間に何かがもう一度、胸に沈んだ。


 受話口からの嗚咽が、耳の鼓膜を叩く。声にならない音が、泡のように弾ける。

「息を」「引き取った」──単語は並んでいる。並んでいるのに、意味が落ちてこない。

 意味を飲み込んだら壊れる。だから脳がフタをしている。フタの下で何かがぐちゃぐちゃになっている。


 頭痛。耳鳴り。鉄の味。全部いっぺんに来る。

 膝が抜けた。世界が遠のいて、そこに留まることができない。


 クラクションが飛んでくる。誰かが叫ぶ。靴底のグリップが砂を蹴る音。


 ──走る。何のためにか分からない。走らないと、立っていられないから走る。

 走る。胸が割れる。心臓が地面に叩きつけられる。


 街路樹、桜の(つぼみ)がぶら下がっていた。先がほんのり紅い。来週、咲くはずの色。

 どうしてそんなことを見るんだろう。なんで、こんな色を見るんだ。

 俺は、声を出して泣く代わりに、ただ空気を切って走った。


◆202X年3月8日午前8時56分

都市の大学病院呼吸器科病棟


 走った。気がついたら扉を勢いよく開いてた。

 ぐちゃぐちゃに泣いている声が耳に飛び込んできた。彼女のお父さんだった。

 顔を覆っても、嗚咽は隠せないようだった。


 彼女のお母さんが振り向いた。

 涙と鼻水で顔が崩れて、言葉が千切れていた。

「……■■がっ、■■が──」

 俺の胸にしがみついてきて、骨がきしむほど強かった。


 視界の奥に、ベッド。

 彼女がいた。横たわっていた。動かない。

 吸い込まれるみたいに膝をついて、顔を近づけた。


 髪を撫でた。やさしく。

 頬を撫でた。何度も、何度も。

 冷たかった。返事はなかった。

 それでも撫で続けた。()れていないと、彼女が薄れて掠れて消えて行ってしまうような気がした。

 そっと、そっと撫で続けた。


 時間が止まったまま、じりじり削られていく。

 外のざわめきが遠くで(にじ)んで、光がじわじわ角度を変えていく。

 一瞬なのか、一生なのか。感覚が壊れて、何も掴めない。


 黒衣(スーツ)の人が二人、いつのまにか立っていた。

 担架の脚がかすかにきしんだ。


「……連れて行かないで」

 声が自分のものじゃなかった。かすれて、潰れて、震えていた。

 腕にすがりついた。離せなかった。


 彼女のお母さんは泣いて床に崩れた。

 彼女のお父さんは涙で顔を濡らしながら、俺の肩を押さえた。


「……■■は、がんばったんだ。最後までがんばったんだ」

 声が震えていた。


「もう……やすませてあげよう。な。がんばったんだ……」

 自分に言い聞かせているような言葉だった。


 頭に入らなかった。

 耳の奥で割れて、砕けて、何も形を結ばなかった。

 それでも背に落ちるお父さんの涙だけが、熱くて、重くて、俺を押し潰した。


◆202X年3月8日夜

富ノ森市内斎場通夜式


 香の煙が、夢の中の霧みたいに漂っていた。

 目を開けているのか、閉じているのか、自分でもわからない。

 白い花。白い壁。白ばかり。

 その真ん中に、彼女の笑っている写真。

 笑っているのに、そこにいない。

 どう足掻(あが)いても映像と音が合わない映画を、延々と見せられているみたいだった。


 座ったのか。立ったのか。

 誰かが声をかけてきた気がする。返事をしたのかもしれない。覚えていない。

 耳の奥ではまだあの着信音が鳴り続けている。(うつつ)か夢か、判別できないまま。


 棺の中を覗いた。

 眠っている顔。冷たいのに穏やかで、悪い夢を見ているだけのようだった。

 けれど、彼女の手を見て気づいてしまった。

 骨と皮ばかりの腕。

 俺の『大丈夫』を信じ続け、その果てがこの細さだった。

 その現実だけは、夢の膜を突き破って、胸に刺さった。


 周りは泣いているのに、声も涙も出なかった。

 彼女のお父さんも、お母さんも泣いている。

 俺の両親まで、彼女の両親と肩を寄せて泣いている。

 娘じゃないのに。実の娘みたいに。みんなで泣いている。

 俺だけが茫然と突っ立ち、夢の底に沈んでいた。


 夢と(うつつ)の境目が崩れて、世界が水の中みたいに揺れている。

 その揺れの中で、ただ胸の奥が裂け続けていた。


 ──朝になったら、きっと目が覚めるんだ。

 悪い夢だったと、汗だらけで飛び起きるんだ。

 そう思い込みながら、俺は祭壇の灯りを見つめていた。


◆202X年3月9日午前

市内斎場告別式


 朝になったら悪い夢だったと、飛び起きるはずだった。

 そう信じていた。そうでなければ立っていられなかった。


 けれど目の前に広がっていたのは、白い花と黒い服と香の煙だった。

 生暖かい妄想は音もなく弾け、()てつくような現実が代わりに顔を出す。


 人が大勢いた。

 小中高の同級生。恩師。親族。

 みんな目を赤くして、すすり泣いていた。


 俺の肩に、背に、手が置かれる。

「元気出せよ」「あんないい子がな」「……つらいよな」

 声は耳に届いた。けれど意味は抜け落ちて、ただ空気の揺れとして通り過ぎていった。


 焼香の列が流れていく。

 立っているのか、座っているのか、自分でも分からない。

 白と黒の影が、夢の膜の向こうでかすかに揺れていた。


◆202X年3月10日午後

富ノ森市内火葬場


 重たい扉が開いた。

 白い布に包まれた彼女が、静かに運ばれていく。

 泣き崩れる声が響いた。彼女のお母さんだった。

 床に崩れ落ち、名前を呼んでいた。


 俺は立ち尽くしていた。

 目の前にあるのに、もう彼女だと認められなかった。

 認めたら全部が終わる。だからただ、ぼんやり見送るしかなかった。


 最後の別れ。

 棺の前に立たされた俺の手に、そっと小さな布包みが押し込まれた。


「……桜くん。これ……」

 彼女のお母さんだった。

 涙でぐしゃぐしゃの顔で、声は震えていた。

「あの子……本当に喜んでたから。あっちでも使えるように、桜くんが……いれてあげて」

 お母さんの喉から、嗚咽が漏れる。


 包みを開くと、桜色のカシミア手袋が現れた。

 去年のクリスマスイブ、彼女の手を温めたくて選んだものだった。

 包装を解いてはにかんだ笑顔。

 両手を差し入れて、「あったかい」と笑った声。


 震える手で、それを棺に納めた。

 けれどその手袋は、もう彼女の(こご)えを拭い去ることはない。


 髪に触れ、やさしく撫でた。

 頬に触れた。冷たかった。

 手を握った。細くて軽くて、何も返してこなかった。

 温めたかった手は、冷たいままだった。


 何度も触れたはずなのに、そこに彼女はいない。

 痛いほどの空虚だけが、(てのひら)に広がっていた。



 みんながお(とき)の席につき、箸の音を立てていた。

 俺は一人で外に出た。


 灰色の空に、白い煙が立ち昇っていた。

 さっきまで触れていた体が、彼女だったすべてが、ゆっくりと天に昇っていく。

 目で追うことしかできなかった。追っても追っても、遠ざかっていった。


 背中に声をかけられた。振り向くと、彼女の両親が立っていた。

 涙の(あと)も隠さないまま、俺に見慣れた彼女のスマホを差し出した。


「……■■が動画、残してたんだ」

 お父さんの声は震えていた。

「自分がどうなるか、分かっていたのかもしれない。……もしものときのために、動画を撮っていたみたいだ。俺たちにも、桜くんにも宛てて。もう俺たちは移した。これは……桜くんに」


 俺の手の中に、彼女のスマホがあった。

 まだ温もりが残っている気がした。


 画面を開く。再生する。

 彼女の声。彼女の顔。

 光の向こうで、痩せた彼女がかすかな笑みを浮かべていた。


『桜。今日も来てくれてありがとう。ほんとうに、ありがとう』

『わたしね、桜と同じ春をまた見たいんだ。だからがんばるね』

『桜が居るから頑張れるの。子供の時から、ずっと桜は私のヒーロー』

『でももし、もしも叶わなかったら……ごめん』

『泣かないで。桜が泣いたら、わたしまで泣きたくなるから』

『生まれてから今日まで、桜がずうっと隣にいた。だから、ずっと幸せだったよ』


 ひとつひとつの言葉が胸に突き刺さり、体の奥で光のように焼き付いていく。


 そして最後に。

 画面に閉じ込められた彼女の瞳から、一筋、涙が(こぼ)れた。


 ──さくら。


 ──ごめんね。




 世界が音を失った。

 風のざわめきも、遠くの人の声も、煙の(きし)む音も、全部消えた。

 代わりに胸の奥で、鋭い痛みが()ぜた。


 頬を伝うものがあった。

 涙は静かに落ちた。けれど一粒一粒が熱く、火のようで、肌を焦がした。

 (あふ)れるほどに、視界は歪んでいった。

 味は塩ではなく、焼けた鉛の苦味が舌に広がり、喉を刺した。

 鼻の奥に酸っぱい匂いが溜まり、呼吸が波打つたびに胸を締めつけた。

 音もなく、しかし鮮烈に、涙は(せき)を切った川のように溢れ続けた。


 ──大丈夫。

 ──必ず治る。

 ──桜を見に行こう。


 それは祈りだったはずだ。願いだったはずだ。

 けれど違った。


 祈りが、願いが、呪いとなって。

 細い腕に石のように積み重なり、彼女の呼吸を奪った。

 俺の優しさは、彼女を生かす光じゃなく、静かに締めつける鎖になっていた。


 顔を上げる。雨が落ちてきた。

 白い煙に混じり、灰色の世界を濁らせながら降り注ぐ。

 涙と雨の境目は、もうわからなかった。


「……風吹(ふぶき)……」


 かすれた声が、勝手に口から漏れた。

 この胸を裂いている痛みの名前を呼んだ。


 その名を呼んでも、もう返事はなかった。


 雨に濡れる桜の街路樹を見上げた。

 枝先のつぼみは、硬く閉じたまま、かすかに紅を含んでいた。

 花が開くのは、もう少し先。

 風吹(ふぶき)と迎えるはずだった春は、遠くにかすんで揺れていた。


 雨脚は静かに強くなり、線が網になって世界を覆った。

 音は水に掻き消され、匂いは土に沈み、雫は鉛の粒のように重くなった。

 このまま雨に溺れてしまえたら、どんなにいいことだろうか。


 俺の中──この日から、雨は止まない。

願いが、祈りが──呪いとなる。

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