File3:月曜日の通り魔事件(捌) 202X年6月9日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年06月09日午前10時06分
富ノ森駅前商店街アーケード外れ
雲は鉛。
湿った天井が低くて、息が少しだけ重い。梅雨の湿気は薄い灰の味をして喉に貼りつき、缶コーヒーの残り香を鈍く汚した。
横にいる俊兄が昨夜メッセージで送ってきた一文を反芻する。
「犯行は段階的に苛烈になっている──次は、人目につく場所でやるかもしれん」
俺たちはアーケードの端に立ち、行き交う人の流れを目で梳いた。ベビーカー、買い物袋、学生の笑い声。音の粒は湿って重く、天井に溜まり、ぽたぽたと落ちてくるようだった。
ポケットの中のスマホが冷たい。通知は来ない。画面は黒い鏡で、呼吸を映すだけ。月曜。今日。
少し離れたところで、細いガラスが擦れるような泣き声が滲んだ。
女の子がいた。白いサンダル。片方だけ落ちかけた小さなリュック。目の縁は赤く、鼻はかすかに濡れている。泣き声はミルクを焦がした匂いを連れて、耳に貼りついた。
「大丈夫?」と声が先に出た。
しゃがんで目線を合わせる。自分の声が少し掠れている。
「ま、ママ……いない……」
舌の奥がきゅっと縮んだ。掌の温度が急に下がる。──思い出す。まだ小さかったころ、駅前の雑踏で彼女と二人、親とはぐれたことがある。胸は潰れるほど不安だったのに、泣く彼女の手を強がって握りしめた。
震える指先の感触、涙で濡れた頬の温度。「大丈夫」と繰り返しながら歩き、親たちと会えたのは十数分のことだったが、当時の俺たちには途方もなく長く感じられた。
親に会えた瞬間、俺はホッとして泣きそうだった。そんな俺に、彼女は「ヒーローみたいだった」と言っていた。
「俊兄、異能で親を探せない?」
呑気に聞く自分を自覚していたが、それでも言葉が出る。
「こんな得体のしれない力に、なんでも安易に頼るな」
短く、低い声。
「迷子なら本職を頼れ」──俊兄はアーケードの中を指した。ごもっともだ。
交番はアーケードの中ほどにあった。婦警さんが出てきて膝をつき、目線を合わせてゆっくり名前を聞き、どこではぐれたのかを確認する。声は春の砂糖水みたいにやわらかい。女の子は鼻をすすり、震える指で駅の方角を指した。
「こっちだよ。いっしょに行こうね」
婦警さんが手を取る。小さな手の甲は薄紙のように頼りない。
別れ際、女の子が振り返って、涙の跡の残る顔で言った。
「おにいちゃん、ありがと」
「大丈夫。ちゃんとお母さんに会えるよ。泣かないで」
自分の喉を擦って出した言葉。返した笑顔は、たぶん不器用だった。
背中が小さくなるのを見届け、胸の奥の石が少しだけ軽くなった気がした。
◆202X年06月09日午前11時58分
富ノ森駅前商店街アーケード下
約二時間。雨のように遅い時が流れた。動きは何もない。ただ人の往来だけが、ゆっくりと流れていた。
やがて、ぽつりと落ちた雫が肩を打った。空気の湿度がさらに濃くなる。梅雨の雨。灰色の粒がアスファルトに染みを咲かせ、冷たい匂いを立ち上らせる。
俺は背嚢から折り畳み傘を取り出し、骨の軋む音を聞きながら開いた。俊兄もバッグから傘を引き出すが、左腕を三角巾で吊ったまま片手で骨を広げようと手間取っていた。器用な男が、不器用に見える。傘の布地が湿気に貼りつき、開かない。
手伝おうとすると、「いい」と短く断られる。
右手と口を使ってどうにか広げる。
雨粒が金属の匂いを増幅して、街全体が錆びた鐘の音みたいに響いていた。
そのときだった。商店街の向こうから数人が駆けてくる。買い物袋を抱えた主婦。杖をついた老人。表情は蒼白で、声を詰まらせながら走っている。
「通り魔だ!」
一人が叫ぶ。その言葉は雨粒より鋭く、空気を裂いた。
走ってくる人に傘ごと肩を押され、息が詰まる。俊兄と顔を見合わせた。
雨粒が頬に張りつき、冷たさが皮膚を刺す。
「行くぞ」
俊兄が短く言う。俺たちは逃げ惑う群衆をすり抜け、アーケードを抜けて人の流れを逆走した。
◆202X年06月09日午後0時05分
富ノ森駅前交差点
駅前の交差点は阿鼻叫喚だった。
老人や女性が幾人も血に濡れて座り込んでいる。たった二人の警察官が手当てに走り回る。傘が散乱し、赤黒い染みがアスファルトを塗りつぶしている。遠くでサイレンが唸り、音だけが濡れた空気を切り裂いていた。
あたりの様子を見回す。悲鳴を上げる人はおらず、襲撃は今は止んでいるらしい。
俊兄は迷わず現場へ踏み込み、手のひらを地面や壁、被害者の衣服に当てていく。左腕が不自由な身体を抱えつつ、傍らの俺に被害者の応急処置を指示するのも忘れない。
「鋭利な刃物だ。傷の形状からしてサバイバルナイフ……だが、何も残っていない。姿も、血も、影さえも」
低くつぶやく声が雨に溶けた。
「今読めた限り、今回は死者は出ていなさそうだが……確実にエスカレートしている……次があれば」
俺の喉が乾いていく。
「……死人が出るぞ」
雨は絶えず顔を打ち、冷たさが骨に染みた。
「やつが外出するのは月曜日。次は来週。その間に行動圏から候補を絞る」
「でも、見えない相手を割り出して見つけたとして……どうするんですか」
返す声が震えていた。
俊兄は一瞬口を閉ざし、雨に濡れた瞼を細めた。
「……見当もつかんな」
次の瞬間、俊兄の声が湿気を冷やすように響いた。
「……女子供や老人ばかり狙っている」
その言葉が胸に沈むと、遠くのサイレンがいっそう大きくなった。救急車が交差点へ滑り込む。
後部が開き、ストレッチャーを押す救急隊員が飛び出す。隊長らしき男性が胸の無線機を握りしめ、声を張り上げた。
『こちら富ノ森救急一、富ノ森駅前交差点に現着。怪我人多数、至急応援を要請。──通報の駅構内の女児、優先搬送します。送れ』
ノイズを含んだ声が雨に砕け、灰色の空気に滲んでいく。その「女児」という二文字だけが内部で反響し、桜の体を固めた。肺が凍り、足裏の感覚が遠のく。
傘を握る指先が白くなり、爪の感覚が消えた。周囲の怒号や警笛は遠ざかり、雨脚だけが重く落ちてくる。ストレッチャーの車輪の音が確実に近づいた。
駅から負傷した婦警が男性警官に寄り添われ、腕と首筋を赤く濡らして出てきた。その後ろから救急隊員がストレッチャーを押して現れた。
ストレッチャーに揺られているのは──さっきの少女だった。小さな腕から血を流し、泣き叫んでいた。
膝の力が抜けた。冷たい水の中に沈んでいくみたいに、世界の色が鈍る。安心させたはずの言葉。それが残酷な嘘に変わっていた。
胸がざらつき、胃の底が逆流する。雨と血の匂いが混ざり、鉄と泥を舐めさせられるような味が喉に突き上げてくる。
体は震え、両腕で自分を抱きしめる。体中の血液が霜ついて冷える。皮膚の内側で、冷たい刃が暴れているみたいだ。
「大丈夫」──自分の声が耳の奥で何度も反響する。少女に言ったその言葉。かつて彼女に繰り返したその言葉。根拠もなく、意味もなく、ただ自分を安心させるためだけに吐き出した、下劣で自己中心的で無責任な、皸だらけの薄汚い優しさ。
「大丈夫」という言葉。その言葉がいったいどれほど彼女を傷つけたのだろうか。汚泥を孕む後悔が胸の内側から、湧き出す下水の濁流のように押し寄せてくる。
胃液が込み上げ、口腔に酸の熱が広がる。
「──ぅオぇっ……」
雨粒と一緒に吐瀉物が叩きつけられ、アスファルトを濁した。
目の奥が灼け、視界が霞む。
俊兄の声が遠くで何かを言っていた。弱者を狙う、という分析の続きを。だが、もう耳には届かない。音は水の膜に遮られ、意味を失った。
世界が遠ざかる。視界の端が暗く沈み、指先の感覚が消えていく。最後に残ったのは、自分の震えだけ。
雨に濡れるアスファルトに、受け身もなく倒れこんだ。
そのまま、意識は深い闇に落ちていった。




