File4:男子学生連続失踪事件(貮) 202X年7月15日
──Side 富ノ森調査事務所アルバイト相川 桜──
202X年7月15日午前11時03分
富ノ森市・富ノ森調査事務所
風はなかった。窓を開け放っても、吹き込んでくるのは外の熱気だけ。
街のアスファルトが陽炎を揺らし、蝉の声が途切れることなく押し寄せ、ここが逃げ場のない釜の底だと耳元で告げていた。
冷房は壊れたまま。
事務所は、熱気と湿気をため込んだままの密室になっている。首を振るだけの扇風機が唸っていたが、吐き出すのは温い空気で、風に当たるほどに皮膚に汗が貼りついて離れない。シャツは背中に張りつき、肘を机から離すたびに、じわりと布が皮膚を剥がすように浮いた。
狭い室内は雑然としている。
壁際の書棚には資料の束が無理やり押し込まれ、紙の端が黄ばみ、めくれ上がって影を作っていた。机の上には未整理の書類が重なり合い、角が汗に濡れた腕で湿っている。使いかけのボールペンが数本、キャップもないまま転がり、インクの染みが木目を黒く汚していた。
古びたテレビが壁際に据えられている。
画面のガラスは少し曇り、背面からは焦げたような匂いが漂ってくる。
キャスターの声が響いた。
「今年五月十六日、富ノ森市内のカフェで男性客が突然死亡した事件について──」
俺は額を流れる汗を手の甲で拭った。皮膚の塩が乾いたざらつきが残り、瞼が重くなった。
ペンを指に挟んで回そうとしたが、汗で滑って手帳に落とす。小さな音が室内に響き、紙束の隙間に吸い込まれていった。
「死亡したのは市内在住の自営業、佐伯充さん(三十六)。当時、カフェで飲食中に突然倒れ、全身を強く打ってその場で死亡が確認されました」
ニュースの声は冷静だが、その言い回しは不可解でしかない。
全身を強く打った?
日本の報道でいうところの全身を強く打って死亡っていうのは、原型を留めていないっていう隠語だ。
カフェで突然倒れてなぜそうなる。
「また、現場のカフェからおよそ三十メートル離れた交差点で、大型トラックがフロント部分を大破させる事故を同時刻に起こしており、警察は両者の関連を調べています。ただし、トラックと店舗との直接的な接触は確認されていません」
扇風機の風が紙束を一枚だけ浮かせ、裏返して止まった。印字の黒が光を吸い込み、薄い影を机に落とした。紙が一枚動いただけで、この部屋全体の空気が歪んだように感じられる。
「なお、佐伯さんには数百万円規模の借金があり、勤務先の廃業に伴って生活に困窮していたとみられています──」
画面のキャスターは変わらない調子で言葉を重ねる。蝉の声と汗の滴る音が抑揚のない音を上書きしていく。
「これ、どう考えてもハコのアレだよなあ──」
独り言ちながら視線を机に落とすと、書類の端に染みこんだ汗が、じわりと色を濃くしていた。
そのとき、ドアの蝶番がきしみ、外気の熱と一緒に二人分の足音が流れ込んできた。湿気をまとった熱風が室内に押し込まれ、書類の端を小さく震わせる。
俺は顔を上げた。俊兄が誰かを連れてきたのだ。
この事務所の所長──瀬川俊二──二十七歳。
この事務所の所長であり、俺にとっては昔からの兄貴分。
背は一七八センチほど、細すぎず厚すぎない均整の取れた体格。歩く姿には無駄がなく、背筋を伸ばしたまま堂々と室内に入ってくる。その姿は、暑さにだれていた室内の空気を少しだけ引き締めた。
黒髪は短めに整えられ、汗に濡れても乱れが少ない。
瞳は真っ直ぐで、相手をまっすぐ射抜く強さがあるのに、不思議と安心感を伴っていた。頬はすっきりとした輪郭で、髭もなく清潔。笑うと口元に柔らかな線が浮かび、見る者を自然と安心させる。
服装は濃紺のジャケットに白いシャツ、派手さはないがきちんと感があり、同時に肩の力の抜けた余裕も見せている。腕時計は金属ベルトのシンプルなもの。
飾り気はないが、そのどれもが「信頼できる大人」という印象を濃くしていた。
事務所の看板には「富ノ森調査事務所」とある。
耳慣れない言葉かもしれないが、要するに探偵事務所のことだ。浮気調査から人探し、企業の裏取りまで、探偵業法の範囲でやれることはほとんど扱う。
ただ、「探偵」と書くと無駄に警戒されたりすることがあるから、言葉を少し濁して「調査」としている事務所は意外に多いらしい。
俊兄の後ろから現れたのは、スーツの袖をまくり上げた四十前後の男だった。
顎には無精ひげ、額には玉のような汗。入ってきた途端に顔をしかめ、まず室内を一瞥して舌打ちした。
「……なんだよ、暑いなここ。クーラー壊れてんのか?」
低い声が室内に重く落ちる。
「すみません。扇風機しかなくて」
俺は立ち上がり、机の端に置いてあったグラスを三つ取り出した。冷蔵庫から麦茶を注ぐ。
といっても、この部屋の冷蔵庫は冷えが弱く、氷も作っていない。結果として注がれたのは、ぬるい麦茶だった。
俊兄に連れられた男は、麦茶を用意する俺をじろりと見て、眉を潜めた。
「……若えな」
その言葉は評価でも感心でもなく、ただ不満と不安の入り混じった色だった。二十歳そこそこの俺が、この事務所の人間だと理解して、露骨に顔をしかめたのだ。
俺はその反応を受け止めながら、胸の奥で思う。
──カタギの人間じゃない。立ち居振る舞いに染みついた空気が、そう語っていた。
俊兄はそんな空気をやわらげるように笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「桜。依頼人だ」
俺はうなずき、机の向かいに置かれた椅子を軽く引いた。
「どうぞ、こちらに」
依頼人は無言のまま椅子に腰を下ろした。背もたれに深く体を沈めるでもなく、落ち着かないように組んだ腕を崩さない。その仕草ひとつにも、暑さへの苛立ちが色濃くにじんでいた。
俺は机の上に一つ一つグラスを置いていく。表面に汗を浮かべたグラスが、事務所の熱気をさらに強調しているように見えた。
依頼人は椅子に腰を落とすと、コップに視線を落としたが手を伸ばさなかった。組んだ腕を崩さず、視線だけで俺たちを測りにかける。
蝉の鳴き声が窓の外から押し寄せ、扇風機の唸りと混ざり合って室内に溜まった。
「……で、話っていうのは?」
俊兄が促す。
男はしばらく黙っていた。
やがて、組んでいた腕をわずかに解き、低く言った。
「俺がちょっとしたバイトを頼んでた学生がいるんだよ。加藤蓮司ってやつだ」
そう言って依頼人は胸ポケットから折り目のついた一枚の写真を取り出し、机の上に置いた。
……バイト? 俺は思わず眉をひそめそうになるのをぐっとこらえる。
この風体の男が学生に「ちょっとしたバイト」なんて、どう聞いても、世間に胸を張って言えない類のものにしか思えなかった。
写真には制服姿の少年が写っていた。痩せ型で、肩の線が落ち気味。目つきは尖っているのに、どこか眠たげでだらしない。唇の端は不満げに歪み、顎にはうっすらと影。
髪は黒のはずだが、毛先は赤茶けて退色し、染め戻しに失敗したようにムラが浮いている。耳にはオレンジ色の小さなピアスが光り、校則を真っ向から踏みにじるように主張していた。制服のシャツは第一ボタンを外し、ネクタイも締めずに垂らしている。
俺は写真を指先で押さえ、特徴を一つ一つ頭に刻んだ。探す対象を捉えるための最初の作業だ。
「モノを持ったまま行方が知れなくなった」
依頼人の声には苛立ちと焦りが入り混じっていた。
「持ち逃げってことですか?」
思わず口をついた俺の問いに、男は鼻で笑った。
「まあ、そう言ってもらっても構わねえ。ただな、別に御用になるような代物じゃねえんだよ。ただ時代が時代、稼業が稼業。わかるだろ? 説明すんのが面倒ってだけだ」
言葉尻は濁しているが、はっきりしているのは一点──商品そのものよりも、少年本人を探しているということだった。
俊兄が軽くうなずき、続きを促すように視線を送る。
「逃げたってんなら、それはそれで構わねえ。ただ──ケジメはつけてもらわなきゃならねえだろ」
男は組んでいた腕を解き、机に肘をついた。
ぬるい麦茶に目を落とすと、一口だけ含み、重く息を吐く。
「だからだ。アンタらに探してほしいんだ。加藤蓮司を」
その声が落ちた瞬間、室内の空気はさらに重く沈んだ。扇風機の唸りと蝉の声が、耳の奥でひどく遠くに感じられる。
俺は小さく息を吸い込み、常識的な確認をした。
「……加藤さん、どれくらい連絡つかないんですか?」
依頼人は苛立ちを押し殺すように言い捨てた。
「五日だな。最初はサボってるだけだと思ったが、モノを持ったままじゃ話が違う。逃げてるんならケジメつけさせなきゃならねえ」
「……親御さんから警察に捜索願とか、出てないんですか?」
俺はさらに問いを重ねた。
依頼人は鼻を鳴らし、視線を逸らす。
「出てねえよ。あんな不良のために親が動くわけねえだろ。そもそも家ともろくに顔合わせちゃいねえらしいしな」
俊兄は麦茶のグラスを手に取り、軽く揺らした。氷のない液体が小さく波を立て、すぐに静まる。
「……事情は分かりました」
彼は柔らかい笑みを浮かべたまま、真っ直ぐに依頼人を見据える。
「ただし、一つだけ確認しておきたい」
声は穏やかだが、芯の強さを帯びていた。
「“けじめ”なんて言葉を聞くと、どうしても物騒に響きます。もし探し出した先で彼に危害を加えるつもりなら、うちは手を引く。人を傷つける仕事は受けません」
依頼人は一瞬眉をひそめたが、無言のまま視線を逸らす。
俊兄はそこで、さらに言葉を重ねた。
「こちらも仕事です。だからこそ、はっきりしておきたい。──加藤蓮司を見つけた後、“危害は加えない”と約束していただけますか?」
室内に沈黙が落ちる。
扇風機の唸りと蝉の鳴き声だけが響く。
やがて依頼人は深く息を吐き、唇を歪めた。
「……分かったよ。危害は加えねえ。ただ逃げっぱなしは許せねえからな。話をつけるために居場所を知りたいだけだ」
俊兄は頷き、ようやく笑みを取り戻した。
「その約束を信じましょう。なら、問題ありません。富ノ森調査事務所として──この依頼、お引き受けします」
依頼人は短く鼻を鳴らした。
「……ああ。それでいい」
俊兄は俺に視線を送る。
「桜、準備を頼む」
「……了解」
俺は返事をして手帳を手に取る。
こうして──富ノ森調査事務所は加藤蓮司の行方を追うことが正式に決まった。
【富ノ森調査事務所】
調査メモより抜粋(記録者:相川 桜)
依頼人:氏名非公表(40代・男性)
対象:加藤蓮司(17)/高校生。バイト先(といっていいのか?)から消息不明。
家族・警察いずれも捜索の動きなし。
所持品・所在・同行者すべて不明。
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