File3:月曜日の通り魔事件(漆) 202X年6月7日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年06月07日午前9時12分
相川家居間
テーブルの木目に頬の跡が残っていた。いつのまにか眠っていたらしい。目を開ける。静かだ。
以前は、目が覚めたら「おはよう」がここに置いてあった。湯気と笑い声。今は、時計の秒針だけが薄い刃で空気を刻む。
流しへ行く。くすんだコップ。水道の蛇口をひねると、金属の匂いをまとった糸みたいな水が立ちのぼる。
喉に落ちて、冷たさが胸のほこりを押し流す。少しだけ、世界が色を取り戻す。
──着信音。
テーブルの上でスマホが光った。胸が縮み、水の味が一瞬で錆びる。
震えた手からコップが落ち、破片が閃光のように床へ散った。
着信は途切れた。
テーブルからスマホを拾う。画面に「瀬川俊二」。
喉の奥に、見えない指が入ってくる。吐き気。
息が落ち着くのを待ってから、指先で文字を打つ。
──電話、出られなくてすみません。どうしましたか。
送信。胸の奥の針音が、ようやく少し遠ざかる。深呼吸。
あの日から、電話はダメだ。
粉々のガラス片を集める。掌に当たる冷たさが、今日はなぜか助け船みたいだった。
◆202X年06月07日午前9時43分
富ノ森駅前ロータリー
俊兄に呼び出され、約束より早く駅前に着くと、相変わらず左腕を三角巾で吊った俊兄が、待っていた。
昼のロータリーは排気ガスと濡れたアスファルトの匂いが胸を塞ぐ。
俊兄は吊った腕をかばいながら言った。
「生きた人間なら必ず必要なものがある。食料だ」
なるほど、と思った。でも口から出たのは違う言葉だった。
「でも現金奪ってるのに、食料盗みますか」
「姿が見えず、気配も感じさせない。"透明人間"のような能力を持ってるとして、金を使わずに手に入るものにわざわざ金は払わないだろう。それから──遊びや快適さ。ゲームや機材だ。家電量販店も当たってみる価値はある」
ゲーム。娯楽。今の自分には、その定義そのものが遠すぎる。もし生きていることの証明が娯楽を求めるだというなら、俺は本当に生きているのだろうか。
「今のところ、透明人間の被害は駅の西側に偏っている」
俊兄は、頭の中に散らばった証言を並べるように言った。
「行動圏が狭いと仮定する。証言を積み重ねていけば、”透明人間”のねぐらが浮かび上がる」
◆202X年06月07日午前10時08分
富ノ森市街
俺たちは街を歩いた。
コンビニ。スーパー。家電量販店。
「棚から商品が消えた」「レジ横の高額品が消えた」。同じ証言が、別々の口から重なった。
冷房の音が低く唸るたび、プラスチックとインクの薄甘い匂いが鼻にまとわりつく。俊兄は自動ドアやカウンターに手を当てて、そこに残る“記憶”を読んでいった。
不意に、胸の奥で細い糸がぴんと震えた。誰かが俺を見ているような──けれど振り返っても、通路を歩く客たちと蛍光灯の白さしかない。
まただ。誰かが糸の先で自分を呼んでいる──そんな感覚。
俊兄が量販店の店長から信頼を勝ち取り、監視カメラの映像を見せてもらう。
画面には誰も映っていない。なのに次の瞬間、棚の前列が沈んで、商品が空気に吸い込まれるみたいに消えた。音が消え、耳が痛んだ。
量販店を出て歩きながら、思わず口にしていた。
「……俊兄。俺や俊兄なら、透明人間の靄とか見えたりしないんですか?」
俊兄の目がわずかに動く。
「記憶の中でも靄は見える。例えば桜、お前が座った後の椅子から記憶を読み取ると、椅子の記憶の中のお前から立ち昇る靄が俺には見えている」
言葉を切ってから、低く続ける。
「だが、この透明人間の犯行と思しき現場の記憶を読んでも、靄は確認できない。ハコの呪いとは関係ない超能力や、本物の幽霊がいないとは限らんが──透明人間化がハコ由来だとすれば、靄ごと透明になると考えるべきだ」
胸の奥に冷たいものが沈んだ。
黒い靄すら消えるなら、正体を突き止めて対峙できたとしても──打つ術が何ひとつないかもしれない。
コンビニでの聞き込みをしていた最中。「月曜日」と俊兄の声が漏れる。
「全部、月曜に起きている」
それを聞いていた店員が、店長と俊兄に帳票を見せる。
「そういえば四月からずっと、月曜だけ異常に商品の在庫が、弁当、冷凍食品とか雑誌とか合わないんです」
「被害店舗の間隔が狭い。盗られたのはゲームソフトやゲーミングPC。内向的で、娯楽の中心が部屋にある人間……」
俊兄の声が湿った顎に沈む。
「月曜にしか外に出ない理由……」
口にしてから、言葉が途切れた。
脳裏で数字と出来事が並び直される。ゲーム好き。毎週の繰り返し。
思わず口走る。
「……少年週刊誌の発売日?」
俊兄の目がわずかに細まった。顎にかけた指が止まり、短く吐き出す。
「……なるほどな」
「その線でいってみよう。外に出るのは週に一度。必要最低限の習慣だけを守る……学生か、あるいは引きこもりかもしれん」
淡々とした声。
「いずれにせよ内向的な生活。娯楽の中心は部屋の中……そういう人間像が浮かぶ」
排気ガスと濡れたアスファルトの匂いが胸に貼りついた。
俊兄のスマホが震える。その瞬間、胸の奥を氷で突かれたみたいに体がびくりと跳ねた。
自分のスマホじゃない。それでも肺の奥が縮んだ。
俊兄は画面を確認してから、静かに通話に出た。低い声で相づちを打ちながら短くやり取りを終える。受話口の声は曖昧だったが、瞳が鋭く光った。
俊兄が通話を終える。
「吉村さんからだ。大家をしているマンションの住人が引っ越すときに言ったらしい。浴室で“幽霊に襲われた”と」
吐き捨てるような言葉ではない。事実を淡々と差し出す声。
「明日、その部屋を見せてもらえることになった」
風がロータリーを抜け、紙とビニールの匂いに雨の気配が混じった。
──Side富ノ森調査事務所アルバイト相川桜──
◆202X年06月08日午前10時02分
エトワール富ノ森 405号室
梅雨の湿気が壁にまとわりついて、白いタイルの外壁がぬめった光を返していた。俺と俊兄は、地主兼大家の吉村冴子さんに迎えられる。
「ほんとに、すみませんねぇ。急にお願いしちゃって」
吉村さんは鍵束を握りしめ、ため息まじりに言った。
「今週の火曜、不動産屋から電話があったんです。借りてたお嬢さんが、前の晩──つまり月曜の夜ね。お風呂で幽霊に襲われたから、もう住めないって。解約したいって言ってきて……」
声が震えていた。梅雨空みたいに重く湿った響き。
俺は喉の奥がざらつくのを感じながら、俊兄の横顔を盗み見た。左頬のガーゼが、外気の湿り気を吸って灰色に滲んで見える。
吉村さんがドアを開ける。
中は虚ろだった。女の子の部屋特有の甘い香りがまだ漂っていて、最近までここに誰かの生活があったとすぐわかることが生々しい。
六畳の居間は段ボールすらなく、壁紙の白さだけが目に痛かった。吉村さんに案内され、俺は所在なげに部屋をひと通り眺める。
「市内の会社で働くOLさんが借りてくれていたんですけれど、きれいに片づけて出ていったんですよ……」
そう呟く吉村さんの声が、空間の空洞をより強調していた。
浴室のドアを俊兄が開ける。
光沢のあるタイル。湿気を吸ったカビの匂い。シャンプーやリンスはすべて片づけられていて、生活感が不自然に拭い去られている。
俊兄はドアの縁に指をかけ、そっと触れた。吊った左腕をかばいながら、右の掌を壁にあてる。
沈黙。
俺の耳には、静寂のはずの浴室から、水音の残響がわずかに漏れたように響いた。
見えないのに、いる。
目を閉じるまでもなく、空気がざらついて、肌に触れてくる。
俊兄の表情は変わらない。
「……確認した」
低い声。水滴が落ちるように重い。
俺は吉村さんを振り返る。彼女は不安そうに俺を見つめていた。
「俊兄……浴室の記憶、見たんですか」
「見た」
俊兄の声が、湯気のように部屋を曇らせた。
「被害者は……いない誰かに辱められていた」
◆202X年06月08日午前11時06分
富ノ森市内マンション前
外気が肺に冷たく入ってきた。廊下の湿気を抜けてエントランスを出ると、曇り空の下の風が少しだけ乾いていた。
吉村さんが深々と頭を下げる。
「今日は本当に、ありがとうございました……」
俊兄は淡々と「ええ」と答える。その声には、慰めも憐れみも乗っていなかった。
大家と別れて歩き出す。アスファルトの上に排気ガスの匂いがたまって、さっきの浴室の残響と混じり合う。
黙って歩いていたら、思わず口から言葉が漏れた。
「俊兄……浴室の記憶を見たってことはさ」
わざと声を低くする。
「つまり俊兄は、被害に遭った人の裸を──」
その先を言い切る前に、俊兄の声が刃みたいに刺さってきた。
「それ以上喋ったら、今日の分の日給はカットだ」
表情は変わらない。だけど左頬のガーゼがわずかに引きつって、抑え込んだ苛立ちが透けて見えた。
俺は肩をすくめて、唇を噛む。冗談のつもりだった。けれど、胸の奥にまだ冷たい残響が残っていて、笑えなかった。
しばらく沈黙のまま歩き、俺はふと切り出した。
「俊兄って……一度聞いたこと、忘れないんですよね」
問いかける声が自分でも子供じみて聞こえた。
「なんなら抑揚に、息継ぎの回数まで」
俊兄は目を細める。
「……じゃあ、被害の日付と内容。順番に言ってみてください」
顎に手を当て、乾いた声が途切れなく続く。
「四月十四日、月曜。スーパーでレトルト食品消失。
二十一日、月曜。コンビニで食品。
二十八日、月曜。別のスーパーでレトルトと冷凍食品。
五月五日、月曜。コンビニで食品、同日家電量販店でゲーム機とゲーミングPC。このあたりから二十日までで財布の遺失届が倍。
十二日、月曜。高齢者の転倒事故が通常の五倍。その中に財布を失った者。
十九日、月曜。商店街で女性のバッグひったくり。同じ日の夜、桜ヶ丘の女子大生が自宅でいない誰かに体をまさぐられた。
二十六日、月曜。吉村の家で現金と指輪。
六月二日、月曜。OLが浴室で──辱められた」
俊兄の声が、出来事をひとつずつ道端に置いていくようだった。
俺は歩みを止め、頭の中で数字と出来事を並べる。
沈黙。排気ガスの匂いが濃くなった気がする。点と点が、不意に線を結んだ。
「……段々エスカレートしてる」
自分でも驚くくらい、鋭い声が出た。
俊兄の左頬のガーゼが引きつり、そこからにやりと笑みが覗いた。普段の無表情からこぼれる異物のような笑顔。
「冴えてるじゃないか」低い声に熱が滲んでいた。
「そして──明日は月曜日だ」
風が吹き抜け、湿気とアスファルトの匂いが渦を巻いた。




