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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第貮章;その日、雨は止んだ──

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Fragment:相川 桜Ⅱ

──Side 蒼明大学 法学部法律学科 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年の前年12月3日午後18時45分

相川家居間


 十二月三日の雨は、冬の匂いを濃くしていた。

 窓を叩く粒は冷たく、住宅街の灯りを滲ませながら、気の早いクリスマスの飾りつけを赤と緑ににじませていた。遠くの車のタイヤが水を切る音まで、水に濡れたガラス越しに鈍く伝わってくる。


 居間の中は対照的に温かかった。

 テーブルの上には湯気を立てる味噌汁と、甘い匂いを含んだ出汁巻き玉子。湯気は淡い乳白色で、彼女の黒髪を縁どりながら上へと溶けていく。

 外の冷たい雨に閉ざされた世界から、この部屋だけが柔らかな光で切り取られているようだった。


 彼女は向かいに座り、両手を膝の上で組んでいた。黒髪は長く、肩にかかるところで雨粒を吸ったように重さを帯びる。肌は冬の光を透かした紙のように淡く、唇の色だけが小さな灯火のように赤かった。


 彼女の胸が浅く上下し、かすかな(せき)が喉を擦った。咳そのものは小さな音なのに、部屋の空気を大きく揺らした。


「桜……」

 雨の合間を縫うように、彼女の声が落ちた。


「ん?」

 俺は箸を止めた。湯気が目の前を白く覆い、彼女の顔を揺らす。

 舌が乾いて、言葉が遅れて出てきた。


「……私、病気なんだ。難病」


 味噌汁の匂いが急に遠のく。代わりに消毒液のような冷たい匂いが鼻をかすめた気がした。

 言葉がすぐには出てこない。冬の雨音だけがやけに大きく耳に刺さった。


「年が明けたら……県外の大病院に入院する。家族ごと引っ越すことになった」

 彼女は微笑もうとしたが、頬の白さにその笑みは溶けて、儚い影にしか見えなかった。


 胸の奥に冷たい氷が沈む。指先がじんと痺れて、ストーブの熱さえ遠ざかっていく。


「……ごめんね。言うのがこんなに遅くなって。高校二年の冬さ、距離を置いたのは……これが理由」


 彼女は、笑った。

 その笑みは光じゃなく影を抱いていて、覚悟を、必死に隠そうとしていた。

 俺はただ、彼女の瞳を見つめた。黒曜石みたいに澄んだ瞳。

 爪の青白さが、淡い月光みたいに揺れていた。


「……バカかよ」

 やっと言えた言葉はそれだった。

 俺の声が震えているのに、彼女は首を振った。細い髪が雨粒のように揺れた。


 味噌汁の匂いが塩辛く変わったのは、俺の鼓動が強すぎたせいかもしれない。

 雨音が重くなる。


「桜……もし、私が——」


「言うな」

 手を伸ばす。彼女の手に触れる。

 冷たさと温かさが同時にあって、掌にじんわりとした湿度が広がった。


「来月に行くならさ」

 握った彼女の手。もともと白い彼女の肌は、ここのところその白さをさらに増していた。

 俺はその冷たさを押し返すように、強く、けれど優しく、力を籠めた。


「早く治して、早く帰ってきたいって思えるように……一杯、思い出をつくればいい」


 彼女の睫毛(まつげ)が震えた。濡れた黒髪の先に滴る水のように、涙がにじむ。


「……桜」

「俺が支える。赤ん坊のころから一緒だったんだ。楽しいことも辛いことも、ずっと半分こしてきただろ? だから──一緒に乗り越えよう」


 彼女は小さく頷いた。冬の冷たい夜に、その仕草だけが灯りのように見えた。

 けれどその笑みの奥に、不安を覆い隠すやさしさがあった。

 それが一番、痛かった。



 翌朝の雨は上がっていた。

 冷たい空気の中で雲が切れ、陽射しが街路樹の裸の枝に薄金色を落とす。彼女はマフラーを首に巻き、俺の隣を歩いていた。

 吐く息が白い。その白さに、彼女の頬の薄紅がかすかににじんで見えた。


 近所の緑地公園。冬枯れの芝生の上に残る雨粒が、陽に光って細い糸のように繋がっている。

 彼女は立ち止まって、その光景を見つめていた。風にそよぐ枝の音が、まるで鈴のように聞こえた。


「春になったら、またここで桜を見ような」

 俺は口にした。気づけば、未来の約束を探してしまう。

「……うん」

 彼女は微笑んだ。その笑みは柔らかいのに、奥に小さな影を隠していた。



 夜。こたつをだしてきて、上に小さな鍋を置いて、二人で囲んだ。

 湯気の白さが蛍光灯の光に透け、彼女の頬をほんの一瞬だけ朱に染めた。白菜と鶏肉の匂いは甘く、冬の空気を押し返すように温かい。

 俺が大きくよそおうとすると、彼女は手で止めて、小さな器に少しだけ取った。


「食べきれないともったいないから」

 笑いながらそう言った声は、ほんのかすかに掠れていた。

 器を両手で包み込む指先は白く、爪の色が薄く霞んでいた。

 俺は「じゃあ残りは俺が食べる」と言い、彼女の器を自分の方へずらした。

 彼女は吹き出すように笑った。その笑い声は風鈴みたいに澄んで、だけどどこか細かった。



 週末には商店街を二人で歩いた。

 冷たい風に煽られて、彼女が咳をこぼす。乾いた音が胸を切り裂くみたいに鋭い。

「大丈夫?」

 そう訊くと、彼女はすぐに笑って頷いた。

 だが、その頷きのあとに肩を落として息を整える姿を、俺は見逃さなかった。


 それでも、彼女はソフトクリーム屋の前で立ち止まり、俺に小声で「食べたい」と言った。

 冬の空気の中で冷たい甘さが舌に溶ける。彼女の唇の端に白いミルクがついて、それを笑いながら拭う時間が、やけに眩しかった。



 夜更け、こたつで並んで宿題をしていると、彼女がノートの上にうつ伏せになった。

 肩がかすかに震え、呼吸が浅い。

 慌ててブランケットを掛けると、彼女の髪から微かなシャンプーの匂いと、病院の消毒液のような冷たい匂いが一緒に立ちのぼった。

 俺はその髪に手を置き、ただ「大丈夫」と呟くしかなかった。



 彼女が眠ったあと、俺はひとり机に向かった。

 ノートPCの白い光が、冬の雨みたいに冷たく指先を照らす。


 検索窓に浮かぶ言葉。

 『特発性肺線維症』

 白い画面の光は冷たく、冬の雨の音に似ていた。


 記事を開くたびに、胸の奥に氷が差し込まれる。

 ──『進行性』『余命』

 その二つだけで胸がいっぱいになってしまった。


 思い出す。階段を上がるときの息切れ。咳で顔を伏せる姿。

 全部、ここに書かれている。


 喉の奥が鉄の味で満ちて、目の奥が焼けるように痛む。

 PCを閉じると、部屋の静けさがかえって重かった。


 毛布の下で眠る彼女の肩の線は、灯りに透けるほど細い。

 俺は眠る彼女の手を握り、声にならない誓いを胸の奥で繰り返した。


 ──俺が支える。絶対に。


『根本的な治療法はない』


 たとえ文字が告げる未来が絶望だとして、どんな奇跡を手繰り寄せてでも。



 朝の台所に立つと、味噌汁の湯気が曇った窓を白く染める。

 彼女はトースターの前で、焼き上がる音をじっと待っていた。

 頬はまだ眠そうに赤く、髪の毛先は濡れたまま肩に落ちている。

「桜、今日はバターにする? ジャムにする?」

 声は柔らかくて、ほんの少し掠れていた。

 俺はバターを頼んだ。パンを齧る彼女の横顔は、まるで光そのものだった。

 けれどその指先がかすかに青白く震えているのを、俺は見なかったふりをした。



 大学の帰り道、彼女と寄り道して図書館に立ち寄った。

 分厚い参考書を抱えた彼女は、いつものように俺にからかう。

「桜は暗記より直感派でしょ?」

「バカにすんな」

 笑い合いながら外へ出ると、冷たい風に彼女の咳が混じった。

 咳が止まるまで、俺は彼女の背中をさすった。

 肩越しに見える夕焼けは、血の色みたいに赤かった。



 ある午後、二人で緑地の小さな坂を上った。

 冷たい風が吹きつけると、彼女は胸を押さえて立ち止まった。

「大丈夫か」

 俺の問いに、彼女は笑って「ちょっと休むね」と言った。

 並んで座り、彼女が見上げる空はどこまでも青かった。

「来年の夏は……海に行こう」

 俺がそう言うと、彼女は静かに頷いた。


 その横顔を見ながら、胸の奥で何かがきしんだ。

 青すぎる冬空は澄んでいるのに、どこか脆く、触れれば割れてしまいそうに見えた。


 彼女は指先で小さな雲をなぞるみたいに空を仰ぎ、「もうすぐクリスマスだね」と囁いた。

 声はかすれて、けれど微笑みを無理にほどこしたように優しかった。


 その言葉が、やけに胸に残った。

 ──その日を、きっと忘れないように。

 俺たちは次に訪れる夜を、まだ知らない光のように待っていた。


 指先を重ねたまま、俺は心の奥でひとつだけ願った。

 ──その夜が、どうか奇跡みたいに続いていきますように。

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