File3:月曜日の通り魔事件(陸) 202X年6月6日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年6月6日午前11時12分
冨ノ森駅前の路地裏喫茶「カリヨン」
約束は十一時ちょうどだった。だが店の針は少し遅れている。待ち時間は氷が溶ける音をしていて、テーブルに銀色の輪を作っていった。
店の冷たい空気は古い木目に溶け込み、ミルクを垂らしたように匂いを薄める。
卓の上では氷が小さな泡を破り、残った水の輪は曇天の切れ端のように光った。
壁の時計は針を刻むたびに店内の静けさへ小さな石を投げ込み、十一時十二分、扉に吊られた鈍いベルがやっと震えた。
入ってきた男は、疲労を肩で運んでいた。顔は紙の裏の色で、よく眠れない人の色をしていた。
俊兄が静かに合図する。
「森崎さん、こっちです」
刑事。そう理解しただけで、店の空気が少しだけ締まった気がした。
森崎は椅子に腰を下ろすと、胸ポケットからタバコの箱を取り出し、指先で弾いた。口にくわえ、ライターを手に取ったところで、目が壁の「禁煙」の札に運ばれる。
舌打ちが小さく漏れ、箱をそっと戻す。せわしなさが、彼の動作の周縁を揺らした。
「……アイスコーヒー」
短く注文した言葉の後、運ばれたグラスを彼は一気に干した。紙ナプキンで口元を拭う仕草には、何かを押し込めるような速さがあった。
「先月の飲食店での不審死も、さっぱりでな。ドライバーが意識を取り戻してくれりゃいいんだが」──言いかけて、彼は言葉を飲み込む。余計なことを言ったと気づいたように、舌の先へしまった。
俺は黙っていた。俊兄が視線を落とし、音を使って返す。
「ドラレコはどうなんですか」
「……お釈迦だ。安物のSD、上書きで何も残ってない」
「なるほど」
俊兄の声は、曇りガラス越しに落とす雨粒みたいだ。
「こちらでも探ってみましょう。何かわかれば流します。その代わり、そちらも共有を」
取り決めの温度で話す。氷がひとつ割れて音だけ透き通った。
「……正直、助かるよ。お前が動いてくれるならな」
彼の一言に混じった疲労の匂いは、僕には煙の色に見えた。溶けかけた蝋のように重い。
森崎は空になったグラスを指で転がしながら、じっと俊兄の顔を見つめた。沈黙がわずかに伸び、やがて口を開く。
「……瀬川、雰囲気変わったよな。前はもっとこう──」
俺の存在に気づいたらしい。喉が鳴って、言葉が飲み込まれる。
森崎が軽い咳払いで空気を入れ替える。
「で、何が知りたい?」
「桜ヶ丘の吉村邸の盗難です。うちにも調査依頼が来ている」
簡潔に応えた俊兄に対して、森崎は唇を噛む。
「正直、何も出てない。鍵も窓も無傷だ。防犯も反応してない。カメラには影さえ落ちていない。物的な証拠はゼロだ」
氷がグラスの中で小さく崩れ、輪が薄れて消えた。店の空気はその輪の薄膜のように静かになった。
「八方ふさがりですね。……じゃあ、気分転換にありえない話を一つ──」
俊兄の言葉に森崎が口を歪める。
「なんだそれ」
「犯人が“透明人間”だとしたら、どうです?」
「バカ言え」
森崎は口角だけで笑ったが、すぐに動きが止まった。
眉間に指を当て、小さく息を吐く。
「……五月十九日。商店街で女性のバッグが奪われた。被害届はある。本人の証言はこうだ『誰もいないのに、体に衝撃があって、気づいたらバッグが消えていた』。衝撃があった地点はカメラの死角だった。入口側のカメラには確かにバッグを持って入る映像があるが、出て行くときの別カメラには手ぶらで映っていた」
──五月十九日。昨日話を聞かせてくれた遥さんが見えない誰かに体を触られたのも五月十九日。
黒いコーヒーに照明が刺さり、褐色の光が波打つ。
「それと、先月妙に財布の遺失届が増えた。富ノ森はふだん月七十から多くて九十。先月五月の頭から二十日まで百五十近い」
俊兄は左腕のギプスを親指で撫で、視線だけ上げる。
「仮に透明人間がいるとして、辻褄の合う事象、他にはありませんか」
森崎は組んだ手をほどき、机の木目を親指で押した。
「五月十二日だ。高齢者の転倒事故がやけに多かった。普段は一日一件あるかないかが、その日は五件。全部、駅の西側で起きてる」
西。桜ヶ丘も駅前の商店街も、駅から見れば西だ。
「その日転倒したうち二人が後から『財布がない』と遺失届を出してる。『何もないところで押された』『押した奴は見てない』『相手の服装は分からない』って。結局は老化や注意力低下で片付けられたが、数字が合わない」
彼は氷をからりと転がし、そこで自分を引き戻すように鼻で笑った。
「……俺まで釣られたな。透明人間を前提に話を組むなんて。今、言えるのはこれだけだ。あとはそっちで」
俊兄は深く一礼した。光と影が髪に走る。
「十分です。本当に助かりました。必ず、お返しはします」
「期待しとくよ」
短い言葉を残し、森崎は伝票を指で押さえ、立ち上がる。椅子の重さが床に擦れ、扉の鈴がまた震えた。疲労の気配は背中ごと外気に溶け、店内にはコーヒーの香りだけが戻る。
俺は息を吐き、声を出した。
「これは、生きている人間の仕業と断定していいんですかね」
俊兄は目を細めて頷く。
「そうだ。金に目がくらんで、ついでに性欲まで旺盛。幽霊には俗っぽすぎる。明日からは行動範囲を絞る。段取りは俺が組んでまた連絡する。今日は帰れ」
言葉は重いが確かだ。俺は無言で席を立った。卓に残った水の輪が冷たく指に移る。
◆202X年6月6日午後12時45分
相川家
鍵を回す金属音が、広すぎる家の骨に響いた。低い唸りが柱を伝い、空き部屋の隅まで反響する。
玄関を開けると、靴の列が崩れていた。脱ぎっぱなしの革靴、泥のついたスニーカー、彼女がつかっていた小さなスリッパが混ざっている。
スマホを見ると母からメッセージが入っていた。調子はどう? 生きてはいる、バイトもしてる──短く返す。
冷蔵庫のモーターが部屋の沈黙にわずかな穴を開け、壁掛け時計の秒針は空気を薄く切り刻む。踏切の警報は金属をこするように遠くへ引かれ、子どもの声は門の外で弾かれて、この家へは滴らない。
乾いた木の匂いは琥珀色で、指先に触れると粉になる。
手つかずの部屋には、白いカビの匂いが薄く漂い、喉の奥に粉砂糖みたいなざらつきを残す。食器棚を開けると、陶器が眠っていた匂いが立ちのぼり、戸を閉めるとすぐ現実の匂いに吸われる。
午後の西日が廊下を細長く切り取り、刃物の影が壁紙に伸びる。夕方になると、街灯の橙が窓を斑点に染める。斑は呼吸をしない。しないまま、夜の底に沈む。
箸が食器に当たる小さな音。誰かが椅子を引く木の音。テレビの音量をめぐって笑う声──それらは、壁が覚えているよりも先に、俺の耳のほうから失くなった。
かつて、この家には父がいて、母がいて、俺がいた。
そして隣の家には、赤ん坊のころからずっと隣にいた彼女とその両親が住んでいた。自室から窓を開ければ、いつだって彼女の気配があった。
大学に入って父と母が転勤でいなくなってからは、毎日のように、彼女が合鍵で上がってきて、勝手に電気をつけ、勝手に冷蔵庫を開け、勝手に台所でお湯を沸かした。
その「勝手」が、この家の正しい使い方だった。
今は、その正しさがない。
廊下を渡り、居間の机に手を置く。
天板はすぐに俺の手の温度で曇り、次の瞬間、曇りは乾く。彼女がいつも座っていた椅子を引く。椅子の足が床を擦る。
昔の晩飯の残りの風味が指先に残る。
彼女が来ていた頃、この机はいつも少しだけ濡れていた。
湯呑みの輪。味噌汁の雫。笑いながらこぼした水。拭き残しの冷たさ。
今は乾いている。乾いて固い。固いのに、指先には柔らかい幻が張りつく。
母からの電話がスマホを鳴らす。
着信のバイブ音を聞くと眩暈がして出られなかった。電話は、嫌いだ。特に、かかってくるものは。
窓を開けると、空は金属の薄板のように冷たく沈んでいる。雷の匂いが遠くで溶け、最初の雨粒がガラスを叩いた。透明な音に、色だけが濃く乗る。
ぽつ、ぽつ──やがて音が連なり、地の匂いがふくよかに膨らむ。
本降りになる。そう思っただけで、胸の内が水を吸い、体内で音が濡れていく。
彼女がこの席に座り、秘密を打ち明けたのも、こんな雨の日だった。湯気の中で彼女の指が湯呑みを撫で、俺はただ頷くしかなかった。
頷くたびに、机の輪がひとつ増えた。今は輪が増えない。増えないことがこんなにも大きな音になるとは思わなかった。
俺は額を机の角に寄せ、木の匂いを嗅いだ。秒針は耳の裏で跳ね、雨が窓を叩きつづける。
家は遠慮がちに軋みを返し、俺は天板をそっと撫でる。そこに残るのは、自分の体温だけだ。
彼女の温度は、どこにもいない。どこにもいないのに、俺はまだ、ここで待っている。




