File3:月曜日の通り魔事件(伍) 202X年6月5日
──Side 富ノ森調査事務所アルバイト 相川 桜──
◆202X年6月5日午後5時48分
富ノ森駅前の居酒屋「魚升」
襖の向こうから響いた甲高い声に、俺も俊兄も同時に箸を止めた。
「ほんとに誰もいないのに、体触られてたの!」
酔いの戯れではない。笑い飛ばせない恐怖が喉に残る声音だった。
俊兄と視線が合う。襖一枚の向こうでは、若い女たちのざわめきと、怯えた声が混じっていた。
「寝苦しくて目を覚ましたら、胸まで触られて……いや、マジでヤバかったんだから!」
周囲の友人らしい女たちが「酔って変な夢見たんでしょ?」「欲求不満とかじゃない?」と茶化す笑い声をあげる。
背筋にじわりと汗が滲む。
俊兄が静かに、と指で唇に触れて俺に合図。
襖の隙間から、グラスを傾ける音や笑い声、そしてときおり混じる怯えの声が漏れてくる。話の中心にいる女性だけは、本気で怯えていた。
俊兄がふいに立ち上がった。個室を仕切る襖に手をかける。
「失礼」
襖をすっと開け、俊兄は隣室へと一歩踏み出した。
──おいマジかよ。
飲み屋で隣の部屋に突撃とか、普通はしない。
俺は箸を握ったまま固まった。……いや、固まるしかないだろ。
突然現れた男に女性たちが驚き、箸を止める。俊兄は懐から名刺入れを探すが、ギプスが邪魔をして手際が悪い。その不器用さに場が小さく笑い、緊張がわずかに和らいだ。
「……お恥ずかしい」俊兄は苦笑しつつ、ようやく名刺を取り出した。
「私、瀬川探偵事務所の瀬川と申します。隣で食事をしておりまして──」
名刺を差し出すと、女子たちの雰囲気が一変した。酔いが手伝い、期待と好奇の声が上がる。「探偵!? マジで探偵?」「現実にいたんだ」と、緊張よりも、興味が勝ったらしい。
俊兄は軽く頷き、声を落とす。
「差し支えなければ少しお話を伺えませんか。失礼ながら、先ほどの会話が聞こえてきまして。実は、同様の不可解な事案を調べているのです」
その言葉に、話の中心の女性の顔がこわばる。酔いで紅潮していた頬から、さっと血の気が引いていく。
友人たちが「探偵だって!」「すごーい」とはしゃぐ中で、ただひとり彼女だけが、あの夜の感触が現実だったのかもしれないと、恐怖に縫いつけられていた。
俊兄は座布団を引き寄せて腰を下ろし、丁寧に礼を言った。
「突然で失礼しました。せめてものお詫びに、今夜の会計はこちらで持たせてください」
「えっ、ほんとに!?」と歓声が一度だけ上がるが、顔をこわばらせた女性だけ笑わない。視線を落としたまま、暗い表情を浮かべている。
俊兄はその沈黙に目を留め、声を落として彼女に向き直った。
「……先ほど被害のお話をされていたのは、あなたですね」
彼女はびくりと肩を揺らし、しばし迷ったあと、小さく頷いた。友人のひとりが気まずそうに「遥、ちゃんと話しなよ」と茶化すように名前を呼ぶ。それでようやく、彼女が遥という名だと知れた。
「私たち隣の市の大学に通ってまーす!高校からの同級生でーす!」
酔いに任せて別の友人が個人情報を漏らす。リテラシー教育って大事だな。
俊兄は頷き、今度は俺を振り返る。
「桜。お前もこちらに」
促されるまま隣室に移り、座布団に腰を下ろした。遥の緊張に、喉が自然と鳴る。場の空気は先ほどの浮ついた笑い声から一転して、急速に重さを帯びていく。
「差し支えなければで構いません」俊兄は穏やかに切り出した。「被害に遭われたのは、いつのことか──覚えていますか」
遥は唇を噛み、視線を落とした。氷の溶けかけたグラスを握りしめたまま、小さく答える。
「……先月の十九日。夜中の十一時ごろです。その日は早めに横になったんですけど、寝苦しくて目が覚めたら」
爪が白くなるほど、両手は膝の上で握りしめられていた。
細い指が膝の上で握られ、関節が白くなった。
「太もも、下腹、胸……誰かに触られている感覚があったんです」
友人のひとりが、「夢でしょ」と声を上げる。もうひとりが無理に笑って「きゃーエロい」と黄色く笑った。
「でも……目を開けても、誰もいないんです。部屋には、私しかいないのに」
遥の声は震えていた。
「金縛りとか夢だと思って、ぎゅって目を瞑ってされるまま耐えてたんです。頭の中で南無妙法蓮華経って唱えながら。そしたら──ほっぺをぬるっとしたものが這い上がってくるような感覚があって。気持ち悪くて、怖くて、耐えられなくて私暴れたんです──」
一瞬言葉を切り、息を呑む。
「そしたら何かを殴ったような感触があって──固いものに当たったみたいな。手がぶつかったときに“ゴツッ”って。で、そのあと勝手に部屋のドアが開いて」
背筋を氷でなぞられるような感覚が走った。俺の喉が勝手に鳴る。
「……今度は廊下の向こうで玄関のドアが勝手にバンッて開く音がしたんです。鍵はかけてあったのに。私いつもドアチェーンまでかけてるんです」
卓上の空気が重く沈む。茶化していた友人たちも、顔をこわばらせ黙り込んだ。
「そのまま私ベッドに倒れこんだんです。目が覚めたとき、夢だったのかなって思ったけど、部屋のドアは開いてたし鍵をしたはずの玄関も開いてて、ドアチェーンがかかってなくて……」
俊兄が小さく頷き、声を落として口を開く。
「……大変でしたね。無理に答えていただく必要はありませんが──犯人の行動圏を絞るために、せめて町名だけでもお住まいを伺えますか。番地や部屋番号までは不要です」
遥がはっと顔を上げる。驚きと警戒が混ざった視線。
すぐに俊兄は穏やかに付け加えた。
「正確な住所をこちらが持つ必要はありません。調査の糸口に町名が分かれば充分です」
遥は迷うように友人たちの顔を見回した。誰も何も言わない。
長い沈黙ののち、小さく、かすれる声が落ちる。
「……冨ノ森市の、桜ヶ丘です」
──今回の事件の依頼人、吉村さんの家があるのも、桜ヶ丘だった。
俊兄はさらにいくつか問いを重ねる。
「警察には、届け出は?」
遥は小さく首を振る。
「……してません。信じてもらえないと思って」
「遥さん自身の身体に、殴ったときに擦り傷や、血の跡が残っていたとかは?」
「……ないです。押さえられてたと思ったところが少し赤くなったぐらい」
「事件の前後、誰かにつけられてるように感じたことは?」
遥はしばし考え、「……ない、と思います」と答えた。
それきり言葉が尽き、卓上に重い沈黙が落ちた。氷の溶ける音ばかりが響く。
やがて、ひとりの友人が気まずさを振り払うように声を上げた。
「ねえ探偵さん、なんかさ、面白い事件とかないの? 怖い話じゃなくてさ」
場の空気が少し緩む。俊兄は薄く笑って頷いた。「ええ、話せる範囲のものなら」──これ以上、今は聞き出せないと判断したのだろう。
酒の勢いで笑い声が戻る。俺は一杯目のジョッキを握ったまま、輪の外に立っている気分だった。
◆202X年6月5日午後8時12分
富ノ森駅前
店を出ると、街はすっかり夜の顔をしていた。提灯の赤が濡れた路面に滲み、電車が高架を震わせて通り過ぎる。喧騒が遠ざかるにつれ、酔いの熱が冷め、空気は現実を取り戻していく。
「……俊兄、さっきの話」俺が口火を切った。
「桜ヶ丘。吉村邸と同じ地区だ。偶然とは言いがたい。お金が好きでスケベな幽霊がいない証明はできんが、そっちを追うのは骨が折れそうだ」
「明日はどうします?」
「警察のツテを当たって、似た事件がないか調べる。今夜中にアポを取るから朝から動けるようにしておけ」
夜風が首筋をひやりと撫でた。振り返っても誰もいない。
だが確かに“見られている”視線を、また感じる。
駅前のネオンが冷たく瞬いていた。
そんな中、俊兄がふいに立ち止まる。
「そういえば」
片眉を上げ、俺の方に右掌を突き出した。
「彼女たちの分は予算外でな。三千円でいいぞ」
奢りじゃねえのかよ。




