File3:月曜日の通り魔事件(肆) 202X年6月5日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年6月5日午後5時28分
富ノ森駅前の居酒屋「魚升」
引き戸を押し開けると、外の湿気とは別の熱気が迎えた。畳縁の擦れる音、器に触れる箸の軽い音、厨房から漂う鰹節と油の匂いが混ざり合う。
裸電球の柔らかな光が壁を撫で、酒杯の縁を伝う水滴をきらめかせていた。
個室に通されると、狭さがむしろ落ち着いた。
座布団に腰を下ろし、俊兄が店員に声をかける。
「とりあえず生をふたつ」
「俺は飲まないですよ」
思わず口にすると、俊兄は片眉を上げた。
「呑み始めには早い時間だが、飲めないわけじゃないだろう。付き合え」
もう注文してしまった。観念して頷く。
ほどなくして運ばれてきたジョッキは冷気をまとい、触れた指先までじんわりと冷やした。お通しはきんぴらごぼうと枝豆。
……今の俺にとっては、鼻孔をくすぐる香りも、色鮮やかな料理も、すべてが色褪せた絵画のように、ただそこにあるだけに感じられる。
「ありがとう。このまま注文を。刺身盛り、出汁巻き玉子、唐揚げ、炙りしめ鯖、それとポテサラ」
俊兄の声が淡々と続く。
──出汁巻き玉子は、あいつの得意料理だった。
箸を伸ばす気にもなれず、俺は視線を落とした。沈黙がじわじわと広がる。
「……まだ、よく眠れないのか」
抑えた声が、湯気のようにゆっくり届く。
答えず目を閉じる。浮かぶのは映像ばかりで、触れようとすれば崩れ落ちる幻のようだった。
「眠れない、っていうより……」
絞り出す。
「目を閉じると、思い出すんです。でも実感がない。ただ映像が流れてるだけで」
瀬川は黙って酒をあおる。生ぬるい泡の音が耳に残った。
「……自分が生きてるのか死んでるのかすら、よくわからないんです」
声が掠れる。
「もし生きてるなら、なんで、何のために……」
言葉が途切れ、皿の枝豆が乾いていく。
俊兄は箸できんぴらをつまみ、噛みながら口を開いた。
「答えは、外から降ってくるもんじゃない。生きる意味は、最初から用意されているわけではない」
喉を潤し、ジョッキを置く。
「自分で拾って選ぶしかない。……納得できるかは別だが」
視線を上げられなかった。裸電球がジョッキの水滴を照らし、ひと雫が落ちる。
胸に張りついた言葉を吐き出す代わりに、無理やり別のことを口にする。
「……俊兄。吉村さんの家で、何か読めたんですか」
俊兄がジョッキを傾ける。その肩口から黒い靄が揺れ立ちのぼるのが見えた。
「タンスの引き出しが勝手に開いて、現金と隣のリングケースが消えた。引き出しは丁寧に元通り。吉村さん在宅中に」
「……透明人間の仕業としか」
口にして、自分でも馬鹿げていると思った。だが他に言いようがなかった。
俊兄は淡々とジョッキを置いた。
「透明人間なんていたら世の中もっと騒がしい──と、言い切れない証拠が今の俺だ」
皮肉に口角を上げるが、目は笑っていない。
「……俊兄。その異能って、どこまで見えるんですか」
俊兄の顔が硬くなる。ゆっくりと首を振った。
「前にも言った。お前と一緒に襲われて九死に一生を得たときにも」
俊兄が、自分の左腕のギプスをさする。爪が石膏をかすかに削り、乾いた音を立てた。
「人でも物でも場所でも、触れればその『記憶』が読める。何を見て、聞き、感じたか──すべてだ。
そして、一度見聞きしたものは決して忘れない。視認できるなら毛穴の数までな。まあ俺の仕事だけ考えればこれ以上ない反則技だ」
──常世ならざる力。人の持つものではない。
「……吉村さんの家の盗みも?」
「断定はできん。証拠が足りない」
目を細める。
「だが、可能性は高い」
卓上の輪染みを指先で広げながら、俊兄は俺を見据えた。
「ところで桜。お前の異能は、まだ分からないのか」
俺はゆっくり、首を横に振る。
「これが異能なのか、ただ頭がおかしくなってるだけなのか……自分でも分からないんです」
膝の上で手が強ばる。
「でも、時々……誰かに見られているような、いや、はっきりなにかの存在を感じることが。それが、いいものか悪いものかもわからない」
背を撫でる風として、雑踏で真っすぐ自分を射抜く視線として、無人の部屋の中でも感じる気配。掴もうとすれば零れ落ちる。
「幻覚かもしれない。でも……確かに“ある”んです」
胸を押さえる。答えにならない答えしか出ない。
「お前はハコの選定の最中に襲われたからな」
俊兄の声が空気を冷やした。
「……そうですね」
曖昧に笑う。喉は乾いていた。
「記憶は抜けてますけど……俊兄が来なかったら殺されてたかもしれないことだけは、覚えている」
もし、あの場で命を落としていたら──今より少しだけ、遠いどこかに近づけていたのかもしれない。
その誘惑を甘やかに感じてしまった自分に、ぞっとした。
まだ、生きる気力は戻らない。
俊兄に助けられる前後の記憶は曖昧だ。
俊兄の説明によれば、俺たちはハコ──叶匣に選ばれ、祈る者となった。絶望に呼応して呼び込まれ、遊戯の説明を受ける。
曰く、八人のうち最後まで残れば願いが叶う。ギブアップはできるが代償を伴う。各プレイヤーには超常の力である異能が与えられる。──俊兄の力がその証拠。
異能を持つプレイヤー同士は互いの身体から湧き上がる靄で、相手を祈る者と認識できること。
発動した異能はプレイヤーにしか知覚できないこと。つまり例えば炎を手から出す異能があったとして、その炎は俺たちにしか見えない──俊兄は能力発動中、意識が飛ぶので、人前で使うときは不審なのでこっそり使うのが好ましいとか。
──俺は、選ばれた記憶も説明を受けた記憶もない。体から靄が出ているのは自分でも確認できるので呪われているのは間違いない。
俊兄の推測では、頭を直接かき混ぜるような、人の身に余る異能を叩き込まむ儀式──その最中に襲われ、記憶が混濁したのだろうという。
「俊兄は……なんで俺に味方してくれるんですか」
声は震えなかったが、指先は白くなっていた。
俊兄はジョッキを包むように持ち、顔を上げた。左腕のギプスが軋む。
「弟分みたいにかわいがってきた。それだけだ」
声に苛立ちが混じる。眉間に皺が寄り、鋭い光が射す。
「最後の一人になれば何だって願いが叶う。だから俺に動機がある、という話か」
咄嗟に顔を上げる。唇が震えた。
「……それは……」
俊兄が短く息を吐く。
「願いを他人任せにするのは違う。俺はおかしな力なんかに頼らない」
俊兄がジョッキを一気に干し、真っすぐ俺に視線を向ける。
「願いは自分の力で叶える。俺の願いは、この儀式を犠牲少なく終わらせることだ」
淡々と続ける声に、飾り気はない。探偵になった理由をそのまま語るように。
「俺は正義の味方じゃない。だが、自分の正義は守りたい。だから探偵になった」
喉が熱くなる。正義──その言葉が胸を覆った。
「俊兄……」
小さく、だが真摯に声を漏らす。
「それに俺の力は荒事に向いてない。記憶を読むのは情報戦には強いが、荒事には役立たん」
苦笑し、肩を竦める。
「だからこそ生き残るため、俺には味方が必要だ。お前の力は未知数だ。強力な異能かもしれんだろう。互いに利がある相手と組むしかない。要するに──Win-Winなだけだ」
皮肉めいた結びに、思わず小さく笑った。すぐに消えた。
生き残る。俺は──生きていていい人間なのだろうか。
気づけば、ジョッキはすっかりぬるくなっていた。泡は力なく沈み、ただの液体になっている。
「大変お待たせしました」
襖が開き、料理が並ぶ。刺身の赤、唐揚げの油の匂い、出汁巻き玉子の香り。
だが俺にはただの“色と匂い”にしか見えなかった。食欲は遠くに置き忘れてきた。
そのときだった。
襖一枚隔てた隣の個室から、甲高い悲鳴のような声が響く。
「ほんとに誰もいないのに、体触られてたのよ!」
箸を持ちかけた俊兄の手が止まる。俺もまた、無意識に息を呑んでいた。




