File3:月曜日の通り魔事件(參) 202X年6月5日
──Side 富ノ森調査事務所 所長 瀬川 俊二──
◆202X年6月5日午後2時03分
冨ノ森市内の高級住宅街吉村邸玄関
「散らかっておりますが……」
依頼人の吉村冴子は膝を落とし、スリッパを並べながら言った。
玄関の戸をくぐった俺と桜の目に映ったのは、磨き込まれた白木と広い土間。
欅の梁が天井に走り、壁にかけられた季節の掛け軸が静かな余裕を物語っている。
土間の石灯籠と、掛け軸に添えられた生花が静かに調和していた。
長い年月を抱えながらも、細やかな手入れが行き届いている。
──カコーン。
鹿威しの乾いた音が、庭から届いた。
桜が小声でつぶやく。
「……旅館かと……」
「あまりキョロキョロするものではない」俺は短く返す。
心の中では同じ感想を抱きながら。
靴を脱ぐと、畳の匂いが胸に染みた。
ここには時間の層が積み重なっている。
長い年月の暮らしが、空気に沈殿しているのが分かる。
吉村が静かに先導し、廊下を進む。
障子越しの光は淡く、歩くたびに木の床が低く鳴る。
「こちらです」
案内されたのは仏間だった。
線香の香りが畳に沈み、金箔の仏壇の横に古いタンスが据えられている。
……さて、ここからが本題だ。
俺はタンスの前で足を止め、桜に向けて口を開いた。
「私はこの部屋を調べます。桜、監視カメラの映像を確認してきてくれ」
桜が首をかしげる。
「俺ひとりで?」
「吉村さんと一緒に。機材の扱いは家の人間に聞かないと分からんだろう」
あえて事務的に言い切る。目的は別にある。
この部屋に依頼人を残すわけにはいかない。
俺は振り返り、吉村冴子に向かって声を落とした。
「吉村さん、私がこの部屋に一人になってしまいますから念のため確認です。この部屋には、もう金品などはありませんね?」
彼女はすぐに小さく頷いた。
「……ええ。もう、すべて」
「それなら、監視カメラの映像を桜に見せてやっていただけますか」
促すと、冴子は小さな会釈をして桜を伴い、廊下へと去っていった。
障子が閉まる。
仏間は再び静寂に沈み、午前の祈りの残り香がまだ空気に溶けていた。
……よし。これで依頼人に見られずに済む。
俺は深く息を吐き、掌をタンスの表面に置いた。
途端に視界が揺らぐ。
色が抜け、音が遠ざかり、木が抱えてきた時間が指先へと雪崩れ込んでくる。
記録は淡白だ。だが決して嘘はつかない。
俺はその奔流に意識を預け、タンスの記憶を“読む”ことに沈んでいった──。
意識が深みに沈む。
目は開いているはずなのに、現実の色は剥がれ、木目の奥から滲み出した“別の時間”が視界を塗りつぶしていく。
夕暮れの仄暗さが仏間を覆っていた。障子の向こうの光は橙に沈み、畳の上に長い影を落としている。
座布団に正座する吉村冴子の姿があった。両手を合わせ、仏壇に深く頭を垂れる。
やがて祈りを終えると、静かに立ち上がり、部屋を後にした。
──そこからだ。
最初に来たのは、軋むような感触だった。
誰もいないはずの仏間で、タンスの引き出しがひとつ、音もなく引かれた。
続けざまに、上から順に、引き出しが開いていく。
力の加減も、重みの移動も、確かにあった。だがそこに『人影』が存在しない。
三つ目の引き出しが開いたとき、中には布に包まれた札束と小さなリングケース。
……そこで動きが止まった。
次の瞬間、札束とケースは掻き消えるように消えた。
忽然と、初めから存在しなかったかのように。
開かれた引き出しは、ひとつ、またひとつと元に戻る。
音もなく、最初から何事もなかったかのように整えられていく。
──奔流が途切れた。
現実に戻った瞬間、肺が大きく膨らみ、荒く息が漏れる。
長く水底に潜った後のように、頭がじんと重い。
額には薄く汗がにじみ、喉は乾いて舌が張りつく。
掌の震えだけが、触れたばかりの記録の残滓を物語っていた。
俺は息を吐き、短くまとめる。
「……勝手に開いた」
「……物が消えた」
言葉にすればそれだけだ。だが“事実”はここに刻まれていた。
障子の外から足音が近づき、桜が顔を出す。
「とりあえず玄関と裏口の監視カメラ早送りで見てきました。やっぱり何も映ってなかった。庭とか外柵のやつもあるって」
俺はうなずき、タンスから手を離した。
「こちらも同じだ。……幽霊に盗まれた、というなら筋は通る」
桜が眉をひそめる。
「本当に幽霊なんですかね」
「いや。金や指輪を盗む幽霊はいない。……幽世では金はいらんからな」
口にしてから、心の奥で小さくつぶやく。
──いらんよな……そうであってくれ。
ひとまず俺も監視カメラの映像を確認しよう。外から確認した限り、庭と外柵にも監視カメラが少なくとも三つあったからな……。
◆202X年6月5日午後4時41分
吉村邸玄関前 冨ノ森市内の高級住宅街
吉村さんに立ち会ってもらいながら、残りの監視カメラ映像を確認した。
庭、外柵、裏口。
すべて巻き戻して早送りで見たが、不審な影は一つもなかった。
記録は正直だ。残っているものは残っているし、ないものは最初からない。
念のため玄関の記憶にも触れてみたが、刻まれていたのは家人と宅配業者の出入りだけ。
怪しい影はどこにもなかった。
……収穫はゼロ。調査はそこで終わった。
その後、吉村さんにお茶をご馳走になり、「調べられることは徹底して調べる。何かに気づいたらすぐ知らせてほしい」と約束する。
豪邸をあとにし、外に出ると、日は西に傾き、梅雨時特有の湿った夕暮れが街を覆っていた。空はまだ青みを残しているのに、瓦も塀も濡れたように鈍く光り、風は重く肌にまとわりつく。
隣を歩く桜の白いシャツは、襟元がうっすら黄ばんでいて、アイロンの跡も消えている。
袖口には細かい皺が寄り、黒のスラックスも膝から腿にかけて深い折り目が残っていた。
革靴には乾ききらない泥がこびりつき、全体に“手入れを怠った”印象が漂っている。
伸びすぎた前髪や襟足が、うつむいた横顔を隠していた。
髪の下からのぞく顔立ちは端正なはずなのに、どこか生気が抜け落ちている。
几帳面な桜の性格なら、こんな姿で人前に立つことは決してなかった。
だからこそ、この乱れが答えになっていた。
理由なら、分かっている。
だが、それを指摘してもどうにもならない。今はただ黙って隣を歩くことにした。
蒸すような空気の中で、俺の腹がひとつ鳴る。
「桜」
「なんですか」
「腹が減った。帰りに飯でも食っていくぞ」
桜は額の髪を払いながら薄い声で答える。
「……今は食欲ないです」
少しの間を置いて、俺は口を開いた。
「幽霊は飯を採らんが、生きた人間は腹が減る。お前はまだ生きているだろう?」
そう言うと、桜は少し考え込み、視線を夕暮れの空に逸らした。
湿った風に前髪が揺れ、ため息まじりに小さくつぶやく。
「……おごりなら」




