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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第貮章;その日、雨は止んだ──

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File3:月曜日の通り魔事件(貮) 202X年6月5日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年6月5日午後1時42分

富ノ森(とみのもり)調査事務所


 窓の外は曇天。灰色の雲は低く垂れこめ、湿気が部屋の隅々まで沈殿しているように思えた。

 事務所の冷房は壊れたまま、扇風機は首を振るだけで熱気をかき回している。


 何を見ても色が抜けている。

 人の声も車の音も、すべてが遠い雨音の反響にしか聞こえなかった。


 シャツは背中に貼りつき、腕を動かすたびにぴたりと皮膚を吸った。髪の根元も湿気を含んで重く、額の汗と区別がつかない。

 窓を開けても外はぬるい空気。どこにも逃げ場がない。


 もう触れられない温もりばかりが、壊れた優しい音色を伴って、延々とリピートされる。何度まばたきしても消えない。

 心の中では、あの日からずっと雨が降り続けている。眠っても止まず、朝になっても止まず、夢の中まで湿らせてくる。


「……桜」

 呼ばれても、返事をする気力がすぐには湧かなかった。

 ようやく顔を上げると、探偵──瀬川(せがわ)俊二(しゅんじ)俊兄(しゅんにい)。幼いころからずっと世話になっている兄貴分。


 夏らしい装いのはずが、左腕を覆う三角巾と分厚いギプスが、その軽さを打ち消していた。

 左頬のガーゼが、わずかな笑みの端を覆い隠し、影を落としている。──先月の事件で刻まれた傷跡だ。


依頼人(クライアント)だ。……お茶を出してくれ」

 俺の中の雨音に、石を落とすように淡々と告げる。


 俊兄の事務所を手伝うようになってから、早いものでひと月が経とうとしていた。

 期待されているわけじゃない。役に立つと思われているわけでもない。

 ただ、喪失感の殻に閉じこもる俺を引っ張り出すために、仕事の手伝いを頼んでくれていることくらいは、わかっていた。


 扉が開き、線香のような匂いが流れ込む。

 黒い服を着た中年の女性が立っていた。地主の吉村冴子(よしむらさえこ)と名乗ったその人の目の下には深い影があり、それは俺の胸に降り続く雨と同じ色をしていた。


 瀬川が席を立ち、応接用の椅子に手を添える。

「どうぞ、おかけください」


 吉村さんは小さく会釈をして腰を下ろした。


 年の頃は六十代半ば。黒髪には白いものが控えめに混じり、きちんと撫でつけられている。

 淡い鼠色のカーディガンに深緑のロングスカート。華美さはないが、丁寧な身なりが暮らしぶりと品格を物語っていた。小さな真珠のイヤリングが耳元に揺れ、余計な装飾を加えることなく、彼女の落ち着いた雰囲気に調和している。


 俺は古びた冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出し、コップに注ぐ。

 ぬるい。音ばかり大きい冷蔵庫は冷気を保てず、曇りもしないガラスは湿気だけをまとっていた。


 ぬるいコップを二つ、机に置く。ひとつは俊兄へ、もうひとつは依頼人へ。

 それで自分の役目は終わったと、身を引きかけた。


 俊兄が視線で制する。「座れ」と。

 梅雨の空気のように逃げ場がなく、俺は自分の麦茶を注ぎ足して、緩慢にソファへ沈んだ。


 瀬川が柔らかい声で口を開いた。

「さて、吉村さん。今日はどのようなご用件で?」

 吉村さんは、重ねた両手を膝の上に置いたまま、しばし視線を落とした。

 扇風機の風に白髪が一筋だけ揺れる。小さなため息のあと、ようやく口が開いた。


「……盗まれたんです」


 声は低く、濡れていた。

 鈍色の空気にそのまま溶け込むような湿り気が、耳にじわりと染み込む。


「仏間のタンスに置いていた現金を、ごっそり。それと……主人が生前に贈ってくれた婚約指輪まで」


 最後のひと言にだけ、ほんのわずかだが声が揺れた。

 涙は落ちない。けれど、胸の奥に押し隠したものが湿気のように滲み出ている。


 俊兄は小さくうなずき、柔らかな声を重ねる。

「……詳しくお聞かせいただけますか」


 俺は生ぬるい麦茶の表面を見つめながら、黙って二人の会話を聞いていた。

 金や指輪が盗まれたという事実よりも、“形見”を奪われた感覚だけが耳の奥にひっかかって離れない。

 残されたものさえ失っていく。

 その痛みは、あの日から俺の胸に降り続けている雨と同じ色をしていた。


「盗まれたのは先月の26日だと思います。その日、帰宅してすぐ、主人の仏壇を参ったときには、確かにあったんです。今朝、線香をあげに入ったときには、もうなくなっていました」


 吉村さんは静かな口調のまま続ける。

 言葉に感情を荒立てることはしない。それでも、長年積み重ねてきた暮らしの一部を切り取られた喪失感が、湿度となって部屋の隅々に染み込んでいった。


「警察には……通報しました」

 吉村さんは視線を落としたまま言葉を継いだ。


「すぐに鑑識の方も来てくださって、家の中も調べてもらいました。けれど……玄関の鍵も窓も、ひとつも壊されていなかったんです。

 私の家は代々の土地持ちですから、防犯には気を使ってきました。ホームセキュリティも入れておりますし、防犯カメラにそれらしい影もなく、警報が作動した形跡もありませんでした。

 ……馬鹿げた話ですが、まるで“幽霊”に盗まれたようで」


 淡々と話しているようで、その声の底には深い疲労がにじんでいた。

 六月の湿気に負けないほどの重みが、言葉のひとつひとつを押し下げている。


「結局、警察の方からも“進展は難しい”と言われました。お金は……最悪、戻ってこなくてもかまいません。ですが……指輪だけは……」


 そこまで言って、吉村さんは一瞬言葉を切った。

 指先が膝の上で固く結ばれている。

 声を震わせないようにしているのが、かえって痛いほど伝わってくる。


「……主人と私の大切な思い出が詰まっています。それを失くすのは……どうしても……」


 その沈黙に、俺の胸の奥で雨音が反響した。

 形見。

 残されたものを、まだ奪われていく感覚。

 それは、俺がいまも抱えている痛みとまったく同じだった。


「……なるほど。お辛い中で来てくださったんですね」

 声は落ち着いていた。慰めではなく、事実を受け止める響き。


「警察で進展が見られないなら、こちらで改めて筋を追いましょう。……では、現場を見せていただけますか」


 その声は穏やかだが、どこか強引さを帯びている。

 相談に来た人間が断れないことを、当たり前のように計算している声音だった。


 吉村さんは小さくうなずいた。

「ええ……。散らかっているかもしれませんが」


「気にしないでください」俊兄は右手を軽く振った。

「片づきすぎた部屋より、その方が痕跡を拾いやすいものです」


 淡々とした口ぶりに、吉村さんの口元がわずかに緩む。

 俊兄は昔から、言葉少なでも空気を静かに和らげるのがうまかった。


 俊兄の声に頷く依頼人を横目に、俺の胸の奥では、あの日の雨が止む気配もなく降り続いていた。

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