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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第貮章;その日、雨は止んだ──

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File3:月曜日の通り魔事件(壹) 202X年6月2日

本章File3は、File4:男子学生連続失踪事件の発生からひと月ほど前の出来事です。

──Side 富ノ森精工㈱総務部経理課 山岡美咲──

◆202X年6月2日午後10時18分

エトワール富ノ森 405号室


 浴室の蛍光灯は、濡れたタイルに白い刃を置くように明滅し、光そのものが湿気の重さを帯びていた。シャワーの粒は金属音の色で弾け、湯気は薄い乳白の幕になって、皮膚と空気の境目を曖昧にする。


 経理の数字は昼も夜もわたしを追いかけてくる。だから入浴から始まるこの2時間だけが、唯一“自分だけの時間”だった。


 肩にかかった髪から滴る水の線を指で払う。温い水が鎖骨を走るたび、昼の疲労がほどけていく。

 甘いシャンプーの香りは、花の蜜のような重さで室内に沈み、息にとけた。


 わたしは目を閉じ、ただ疲れを洗い流す音を聞きながら、このあと見るドラマの続きを楽しみにしていた。


 何もおかしなことはなかった。光も、音も、匂いも、いつもの夜と変わらない。

 だからわたしは、次の瞬間に起こることを、想像すらできなかった。


 ──背中に、重みがのしかかるまでは。


 音も匂いもなく、ただ触覚だけが世界を塗り替える。柔らかく、しかし逃がさない粘り気のある圧が背中に沈み、胸の前で空気が潰れる。

 皮膚の上に、ぬめった湿度の形が刻まれる。視界には何もいないのに、肩口に距離ゼロの気温が生まれた。呼吸が浅く、肺のふちが熱で(きし)む。


 匂いはしない。音もない。気配もない。

 それなのに、今背中にぴったりと貼りつかれている感覚だけが、すべてを覆い尽くした。


「──っ」

 声が湯気に絡まってほどける。

 髪が引かれ、首筋を悪寒が細い刃になって走る。

 視界には何も映らない。鏡にも、湯気にも、ただわたししかいない。

 それでも、皮膚の裏側まで押し込んでくる重さが、確かに存在を証明していた。


 水の温度が光の色を変え、白が青白へ、青白が灰へと沈んでいく。

 絶望的な羞恥の熱と、恐怖の冷えが皮膚の裏で混ざり、心臓は視界の明滅と同じテンポで暴れた。胸郭の内側で、光が痛みに変わる。


 見えない触感が肩から胸元へと滑ったかと思うと、唐突に、胸元に圧が沈んだ。

 視界には何もない。だが、わたしの柔らかな部分が、不自然に(くぼ)み、指の形を描いて歪んでいく。


「ひっ……!」


 誰の手もないのに、皮膚が押し込まれ、弾力の下で神経が軋む。見えない指が、確かに数をそろえてそこにあり、丸ごとを掴み上げるように肉を形づくっていく。

 湯気のなかで、わたしの胸だけが異様に変形し、自分の体が“異物の存在”を証明してしまっていた。羞恥の熱が一気に頬にのぼり、声は、ただ喉の奥を痙攣(けいれん)させた。


 かすれた声は誰にも届かず、空気に吸い込まれるだけ。

 水音だけが続いている。シャワーの粒が落ちるたび、心臓が反応するように暴れた。


 肩を掴まれ、壁に押しつけられる。タイルの冷たさが肌に食い込み、血の色をした痛みに変わる。

柔らかくも重い肉感が背中を覆い、骨まで圧迫してくる。体を動かそうとしても、空気ごと封じ込められたように身動きがとれない。


 羞恥と恐怖がごちゃまぜに溢れ、皮膚の内側で熱が暴れた。涙がにじみ、鉄の味が舌に広がる。

「いないはずの誰か」が、確かにわたしを覆っている──その矛盾が頭を狂わせる。


 息が詰まり、肺が焼ける。湯気はただ熱く、甘ったるいシャンプーの香りすら吐き気に変わった。

 首筋にぬるりとした感触。誰もいない空間に舌だけが這っているようで、鳥肌が連鎖する。


「やめて……!」


 叫んだ瞬間、顎をすくい上げられる。

 顎が勝手に跳ね、唇が裂けるほど押しつけられる──だがそこには口も舌もなく、ただぬらりとした空気の圧が存在するだけ。


 ぬめりを含んだ触覚が、腰を確かめるように滑ったとき、わたしは確かに、わたしがこじ開けられる音を聞いた。


 時間が伸び縮みする。

 数秒が数分になり、数分が一瞬に潰れる。シャワーの水滴が落ちるたび、世界は点滅し、その点の合間に、見えない何かの形が僅かに浮かんでは消える──輪郭のない黒。


 やがて、終わりが訪れたことを、下腹の奥の熱で悟る。


 床に膝をつく。

 震える腕で胸を抱き、肺に空気を押し込む。

 舌に残るわずかな鉄の錯覚は、恐怖の名残が色になっただけ。


 ……世界は静かすぎた。

 わたしは震えながら、ありもしない影を探して目を泳がせる。

 だけど映るのは曇りガラスの白と、揺らぐ水の線だけ。


 それでも肌は嘘をつけなかった。


 内腿を伝って、ぬめりがひと筋、ゆっくりと落ちていった。

本エピソードより新章「その日、雨は止んだ」開始です。

毎日22:30前後に1話ずつ投稿していきますので、見逃さないよう是非ブックマークいただけると嬉しいです!

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