File4:男子学生連続失踪事件(壹) 202X年7月10日
──Side 富ノ森南学園3-C 加藤 蓮司──
202X年7月10日 午後10時45分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森》廃墟
扉を押し開けた瞬間、湿り気を帯びた熱気が頬にまとわりついた。埃とカビと、汗の染みついた臭気。
映画館だった頃の甘ったるいポップコーンの匂いが腐臭と混ざり、粘り気のある膜のように鼻腔に貼りついた。吸った空気は肺の中で重く沈み、喉の奥をじわりと汚す。
数年前に閉館して以来、誰にも使われていないこの場所は俺たちにとって絶好のたまり場だった。
壁に掛けられた上映案内板は色を失い、ポスターは湿気にふやけて絵柄が判別できない。売店カウンターには錆が浮き、ガラスケースは割れたまま。カーペットは湿気を吸い、靴底が吸い付くたびにぺたりと重たい音を立てた。
奥へ進むと、破れたスクリーンが闇の中に浮かんでいた。
天井の穴から月明かりが差し込み、布を不気味に照らし出す。列をなす座席は布地が破れ、湿気を含んで黴臭く沈黙している。シートの隙間に散らばったポップコーンの殻や飲みかけの紙コップは、時間に取り残されたまま腐り、湿った匂いを放っていた。
ふと足元に光るものが目につき、にやりと口が歪んだ。
一目見て使われた後だとわかるゴム。いや、数枚どころではない。おびただしい数の欲の亡骸が、床一面に散乱していた。
古いものは黄ばみ、埃にまみれ、カピカピに固まって潰れ、光を鈍く返している。その一方で、比較的新しい残骸も混ざっていた。 微かに湿り気を残した膜が月明かりを受け、ねっとりと照り返す。
まるで魚の死骸と生臭い海藻が入り混じって打ち上げられた浜辺のように、ここ一帯は乾きと粘つきが混ざり合う海になっていた。
その景色を見ただけで、喉の奥に熱が込み上げる。
――あれは、最高だった。
あいつらと楽しんだあの時ほど、笑いが止まらなかったことはない。
押さえつけられる腕も、泣き叫ぶ声も、徐々に赤みを帯びていく白い肌も仲間と分け合うほどにいやらしく歪んでいった。
濡れた頬、汗と涙と唾液の混じった湿った匂い。爪が腕に食い込み、必死に押し返そうとする力が、逆に俺たちの支配を確かにした。
一心不乱に欲望をねじ込み、ぶつけるたびに、うつろな瞳が諦めに震えた。その震えが掌に、腰に、背中にまで伝わり、快感の波が三人の笑いを増幅させた。
肩を押さえつけ、腰を固定し、逃げ道を塞ぐ。何度も何度も突き立てた衝撃に、抵抗の意思はきしみながら壊れていった。
涙で濡れた頬は熱に赤らみ、声は潰れ、濁った呻きとなって吐き出される。その呻きが耳にまとわりつき、全員の笑い声に混ざり合い、汗と血と唾液と涙の匂いが室内にねっとりと貼りついた。
みんなで楽しんだからこそ味わえた昂ぶり。仲間と顔を見合わせて笑い合い、順番にねじ込み、力任せに嬲るたび、表情はさらに歪み、泣き叫び、俺たちを昂らせた。あの瞬間の熱は、今も手のひらと股の奥にこびりついて離れない。
だが、一対一も悪くない。
仲間の目を気にする必要がないぶん、自由に、好き勝手にできる。泣き顔を独り占めできる。声も、震えも、すべて自分だけのものにできる。
その想像に背筋の奥までぞわぞわと快感が這い上がり、喉の奥で笑いが転がった。
明日は予定もねえしな――それを思うだけで、下半身が熱に脈打ち、鼓動が全身を震わせた。
ふと、頭をよぎる。
そういや翔真、最近ぜんぜん連絡つかねえな。メッセ送っても既読になんねえし……どこでサボってんだか。
けれどそんな疑問は、腹の奥で膨らんでいた別の熱にすぐ押し流された。
どうでもいい。今はそれより――このあと思う存分に味わえる柔らかさ。それを想像するだけで、頭の中は期待でいっぱいになった。
「チッ……まだ来ねえのかよ」
スマホを取り出す。画面には既読のついたまま返事のないメッセージ。苛立ちが舌打ちに変わり、館内に重く響いた。
待たされる苛立ちを、いやらしい妄想で塗り固めるしかなかった。
ローファーで床を蹴ると、潰れたエナジードリンクの缶がからん、と転がる。湿った吸い殻は黒い斑点のように床に貼りつき、踏んだポスターは靴底にべたりと貼りつき、剥がすたびにねちょりとした音を立てた。その音が、異様に長く反響した。
――誰かが、暗闇の奥で耳を澄ませている。
ぞくり、と背筋に冷気が走った。
ローファーの靴底が床に吸い付く。
ぺたり……ぺたり……。
音は館内全体に吸い込まれ、四方から返ってくる。
「……おい、遅えよ」
声は掠れて震えた。返事はない。ただ音だけが近づいてくる。
額の汗が顎で雫になり、ぽたりと落ちた。その小さな水音までもが、異様に大きく反響する。壁も椅子もスクリーンさえも、呼吸をしているように感じられた。
ガタリ。
振り返ると、色褪せた座席が一つだけ小さく揺れていた。確かにさっきまでは動いていなかった。
──エヒッ。
笛の息漏れのような笑いが、闇の底でにじんだ。
その直後、膝に軽い触感が走ったと思うと、右膝の存在が丸ごと消え落ちた。
関節の支えを失った身体は崩れ落ち――だが、床に叩きつけられることはなかった。
膝から太腿、腰へと、欠落は瞬時に伝播する。皮膚が裂けることも、骨が砕けることもない。
ただ「そこに在ったはずの重さ」が、見えない手に掻き取られていく。
倒れ込む感覚はあった。だが床が近づく寸前、足が世界から抜き取られていた。
「なっ……が……」
声は喉を震わせる前に呑み込まれる。
舌の動きも、肺の膨らみも、音へ変わる直前に消え去った。
叫びは喉の奥で凍り付き、形になる前に断たれた。
――あ、あ、あ、熱い……違う、冷たい……重い、軽い、押すな……やめろ……!
胸、肩、頭へと空洞は拡がる。体が壊れていくのではない。体そのものが「最初から無かった」と言い換えられていく。
――ぐちゃぐちゃになる、壊れる、どこ、どこだここ……暗い……光、光が……!
視界は赤黒く滲み、スクリーンの白が滲んで膨れ、巨大な口のように開いて笑っていた。
――嫌だ、いやだいやだいやだ……何だこれ何だこれ何だこれ……ッ!
指先が床を掴もうとした痕跡も残らない。靴底が吸い付いたはずのカーペットからも、重量は初めから消されていた。
――ちが、ちがう、声が、声が……俺じゃない……無くなる、溶ける……ッ!
母ちゃん……笑うな、笑うな、誰が笑ってる……ッ! やめろ、来るな、来るなァ……!
自分の呻きと他人の呻きの境目がなくなり、世界そのものが耳鳴りと血の味に塗りつぶされた。
泡立つ意識が最後に残したのは、言葉ではなくただの音だった。
「あ、が、ぁ、ぁああ……ッ!」
最後に残ったのは視界。
破れたスクリーンが白い影を映し出す――その前に立つはずの自分の影だけが、もうなかった。
なんとなく――恐怖も、理解も、存在ごと、世界から俺が消えたことだけはわかった。
【2025/09/18追記】
ご覧いただきありがとうございます。
まさかの公開から1日と13時間で、日間ランキング ローファンタジー連載中部門65位にランクインすることができました。
これもひとえに、拙作をご覧いただいた皆様のおかげです。心から感謝申し上げます。
この作品は13年ぶりの復帰作で、皆様からの評価や感想が何よりの執筆モチベーションとなります。
もし少しでも面白いと感じていただけましたら、画面下の【☆☆☆☆☆】から応援いただけると大変ありがたいです。
次回の更新もお楽しみに。