Coda:白石 彩花
──Side 富ノ森南学園 3-C 白石 彩花──
絵本を閉じて目を覚まさないといけない時間
女王の庭だったらよかったのに瓦礫の下
……重い。
胸の上に鉄の塊がのしかかっている。
息をするたび、肺の奥に粉塵が入り込んで、ざらざらとした砂の粒が喉を擦る。咳と血が交互に喉を通り、声は小石みたいにころころ転がって潰れる。
目は……もうない。
闇ばかり。
でも、隙間から漏れる光が、ひとすじ。
それは時計の針みたいにきらきら瞬いて、私には「懐中時計を抱えた白兎」に見えた。
あ……。
追いたい。
あの子を追いかけたい。
でも体は動かない。
瓦礫は冷たくて重くて、腕も脚も石膏に埋められた人形みたいに動かない。
涙が頬を伝うと、埃の匂いが甘く変わって、舌の裏で砂糖水みたいに広がった。
瓦礫の隙間は黒い穴に見えて、吸い込まれるみたいに視界が落ちていった。
そのとき、小さな私が現れた。
まだ母の膝に座って、絵本を読んでもらっていた頃の私。
父が隣にいて、三人でソファに並んで笑っていた夜。
ランプの光は金色の匂いを持ち、母の声は甘いミルクの温かさで、父の笑い声は胸にやさしい震えを刻んでいた。
──忘れていた。
あんなに確かに幸せだったのに、憎しみと孤独ばかりに囚われて、思い出を閉じ込めてしまっていた。
「ほんとは……ずっと待ってたんだよ」
幼い私がティーカップを差し出す。
「だれかに……手を引いてほしかったんだよね」
その顔は、母が笑ったときの顔に重なった。
父の掌のぬくもりが、指先に確かに蘇った。
「……どうして、忘れてたんだろう」
嗚咽がこぼれた。忘れてしまったことへの悔いが、涙となって頬を濡らした。
紅茶の湯気は血の匂いに混ざり、胸の奥であの日の温かさと今の冷たさが交じり合った。
「私も……隣に、笑い合える人がほしかった」
「あのふたりみたいに……」
「私も……母さんみたいに、笑えたらよかった」
母を憎んでいたはずなのに、どこかでその笑顔を羨んでいた。
そのことに、今ようやく気づいてしまった。
瞼の裏の母の顔に、私は手を伸ばした。
冷たいコンクリートと、ぬるりとした鉄の感触が指先に残る。
母の顔に手を触れると、優しく微笑んでくれた。
母が、ちょっと待っててねと、泣いている女の子の手を引いてきた。
──幼い私だった。
その小さな手は震えていて、爪先にまで土の匂いが染みているのに、差し伸べられたその掌は、なぜかぬくもりを持っていた。
「ごめんね、ひとりにして」
声が震える。私はその手をそっと包んだ。温かさが伝わる。涙が指の間で光る。
すると、光景がふっと溶け出した。
アリスの絵本ならここでぱちりと目が覚める場面だ──と、頭の底で誰かが囁く。
目を開けたら、優しい父さんがソファで新聞を折り、明るい母さんがテーブルに紅茶を注いでいる。
蒸気の香りは淡いミルク色に見え、ハニートーストの甘さが部屋を柔らかく満たす。
父の笑い声は低い木のぬくもりのように胸を撫で、母の手のあたたかさは膝に落ちる昼下がりの陽だまりみたいだった。
その夢は短く、しかし満ちていた。
私は──確かに、そこに戻った気がした。まだ幼い自分が小さく笑う。手の中の温度が、世界のすべてを許してくれるように思えた。
「ありがとう」
泣き笑いになった声で、私は言った。心の奥の穴が、ほんの少しだけ埋まった。
背後で、絵本を閉じるような「パタン」という音が静かに響いた。
それは優しい終わりの合図だった。
闇は鋭くなく、眠りのように穏やかに広がる。私はゆっくり息を吐き、瞼を閉じた。
瓦礫の下には、血と涙が淡く滲んで、やがて夜に溶けていった。
【とあるクラブでの会話】
「白石さん、娘さんにもっと構ってあげなくていいんですか? 多感な時期でしょ」
「アタシみたいなクズ女が構ったら彩花に毒なだけよ」
「そうやって避けちゃうより、話し合ってみたらいいじゃないですか」
「そうかなあ……たまには一緒に、お風呂でも入ってみるかなあ」




