File4:男子学生連続失踪事件(拾參) 202X年7月18日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
202X年7月18日午後11時08分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森》廃墟
鉄が、月の光を呑んでいた。
風吹が振り上げた殺意は、血を憶えた獣の牙みたいに、冷たく、鋭く、容赦なく。
白石の頭蓋を、次の瞬間には叩き割るだろう。
「やめろ……ッ!」
俺は背中に飛びついていた。
倦怠感が重くのしかかる体に鞭を打ちながら、肩から腕を回し、必死に風吹を抱き止める。
獣の背筋は灼けた鉄板のように熱く、手のひらに伝わる筋肉の硬さは、擦れた麻布の感触に似ていた。
それでも離さない。絶対に。
「殺すな……!」
掠れた叫びは、喉の血をこすり潰すように滲み出た。
声帯の震えが胸骨にまで響き、鉄の味となって舌に広がった。
「桜、よく生きてたね」
風吹はそう言って軽く笑う。殺意は未だ鎌首を下ろさずに。
「お前にッ!……人殺しなんてさせない」
俺の腕の中で、風吹は低く笑うような吐息を漏らした。
耳元に触れるその息は、冬の刃みたいに冷たいのに、なぜか頬を焼いた。
「桜……。一度血の味を憶えちまったら、それはもう人じゃなくて獣なんだ」
諭す声音は柔らかいのに、背骨の奥を凍らせる響きを孕んでいた。
俺は首を振り、軋む歯で言葉を噛み出す。
けど、譲れない。呻きながら首を振る。
「それでも……お前が人を殺すのは……俺が──俺が耐えられないんだ」
腕に込めた力が震えで軋む。
その先に見える白石は、座り込んだまま両手で顔を覆っていた。
乱れた黒髪が頬に貼りつき、汗と涙と血で濡れ、白いワンピースは粉塵の灰色を吸い込んでいた。
布は裂け、膝小僧は擦りむけて赤黒く染まり、痩せた脚は骨の輪郭をはっきりと浮かせていた。
彼女の白い肌は、埃に曇り、残光を受けた死者の布のように青白い。
「フフッ……アハハハ……」
その口から漏れたのは、あまりにも普通の、穏やかな笑い声だった。
血に濡れた顔を覆う掌の隙間から、黒い涙のように血が滴り、砕けたスクリーンの白へと斑点を描いた。
「……ずっと。私が、私であることが嫌だった。それなら死んでしまえばいいってことに……本当は気づいてた。ずっと蓋してきた。やっぱり死ぬの怖かったから」
彼女の声は、砂糖を溶かした水のように甘く、けれど冷たく喉を刺した。
泣き声のようでいて、笑い声のようでもある。
廃墟の壁にしみこんだ埃が、その声に震え、光を反射して涙みたいに揺れた。
「でも今は……ちょっと楽になってもいいかなって。そう思ってるの」
言葉が胸骨を叩く鼓動になり、俺の肺の奥に重く沈んだ。
腕に絡む風吹の体温が、急に遠ざかった気がした。
「あなたたちが……うらやましい」
白石はまだ顔を覆っていた。
痩せ細った腕は折れそうに細く、骨ばった指の間から血が黒い露のように滴り落ちる。
「呪いがかかってるなら……辛いこと、あったんでしょう? でも……それでも隣で笑える人がいる。いいな……そんな風に隣に人が……」
声は湿った羽音のように柔らかく、けれど耳の奥をざらつかせた。
吐息は鉄錆の匂いを帯び、甘く腐った果実の香りと混ざって落ちていく。
「私の隣にも、誰か居てくれたら……こうなる前に、私を助けてくれたかな」
頬を濡らす涙の筋を、血と粉塵の影がなぞり、まるで墨で描いた線のように闇を走った。
天井がきしむ音は、骨の軋みのように耳を裂いた。
俺は──足を踏み出していた。
「白石さん……」
その名を呼ぶ声は、自分の喉からではなく、錆びた鉄骨から漏れ出した悲鳴のように聞こえた。
今からでも、と思った。
この手で引き止められるなら、そうしなきゃいけないと。
肩を掴まれる。
爪が食い込むような指先の力。背筋の奥を走る電流が、骨を一本一本弾いたみたいに震わせた。
振り返らなくてもわかる──風吹だ。
風吹の瞳が鋭く、白石を射抜いていた。
その瞬間、白石はゆっくりと、粘りつくような緩慢さで両手を顔から離した。
血に濡れた掌が、ことり、と床に落ちる。
その赤は埃と混ざり、黒ずんだ花弁のように広がった。
肩口から滑り落ちた黒髪が顔を覆い、乱れた房の間から白い頬が覗いた。
「あなたたちが、うらやましい。うらやましくて……うらやましくて……」
掠れた声は、甘える子供の寝言みたいに柔らかい。
だが耳に触れるたび、蝿が羽音を立てて鼓膜を舐めるような不快さを残した。
そして──顔を上げた。
「一人で死にたく、なくなっちゃうじゃない」
彼女は潰れた眼窩を、見開いた。
瞼の裏にあるはずの眼球はなく、底なしの暗黒がぽっかりと穿たれていた。
穴は呼吸していた。ずるり、ずるりと濡れた肉が擦れる音が、耳からではなく歯の根の奥から響いてきた。
見つめ返すと、暗闇は形のない俺の顔を映し返し、笑うみたいに揺れた。
「──ッ!」
呻いた瞬間、風吹の腕が俺の首根っこを掴む。そのまま後ろへ跳躍。
爪が皮膚を裂く感覚が走り、背骨が引き抜かれる錯覚に陥る。
内臓が浮かび上がり、目玉が裏返るほどの浮遊感。
肺が潰れ、空気が逆流する。
目の前の景色が、白と黒に引き裂かれて揺れる。
「エヒッ!! エヒエヒヒヒヒヒヒヒ!!!」
白石が笑った。
それは声じゃなかった。
ひび割れたスピーカーが鉄片を吐き出す音と、焼けた骨が軋む音とが一緒に押し寄せ、耳からではなく歯茎の奥や眼窩の裏を震わせる。
笑い声のたび、髪がばさりと乱れ、白いワンピースが血と埃に濡れて灰色の斑点をつくる。
骨ばった腕が痙攣し、指先がまるで指揮者みたいに震えると──床が応えた。
小さな黒い穴が、瞬いた。
一つ、二つ、まばたきするたびに増える。
それは水滴が木目に広がる染みのようにじわじわ滲み、気づけば床一面に病斑のように蔓延していた。
板が沈む。
音はない。
代わりに、舌の上で木材が炭になって崩れるようなざらつきが広がる。
椅子は骨を噛み砕かれるみたいな呻きをあげ、背もたれごと虚無に呑み込まれていく。
壁は肺に釘を打ち込まれるような鈍い圧で軋み、柱は喉を絞められる声を残して崩れた。
天井が裂ける。
支えを失った梁が悲鳴を上げ、石膏が砕け、崩れた破片ががれきの雨を吐き出した。
粉塵は灰より細かく、舌に張りついては煙草を嚙んだような苦味を広げた。
鉄骨の匂いは甘く焦げて、舌の裏で血と火薬を混ぜたような味に変わる。
吸い込んだ息が黒い煙に変わり、吐き出す息すら煤けた。
「エヒヒヒヒヒッ!!! ヒヒッ! エヒヒヒヒヒ!」
白石は笑い続けていた。
乱れた髪の隙間から覗く頬は死人のように白く、血の筋がそこに真っ黒な涙の跡を描いていた。
骨ばった脚がひくつき、ワンピースの裾は埃と血でまだらに染まる。
彼女の笑い声は、崩れる廃墟そのものの断末魔と区別がつかなくなっていた。
「言わんこっちゃない! 逃げるよ、桜!」
呻くような呻き声の中、風吹が俺の腕を引いた。
だが俺は振りほどき、足を前に投げ出していた。
「まだ──白石を……ッ!」
よたつく足取りで瓦礫を踏み越えるたび、靴底が焦げた紙を踏み砕くみたいにぱきぱき鳴る。
息を吸うたびに肺が火照る。
それでも足は前へ。崩れゆく床の向こうへ。
──助けなきゃ。
助けなきゃ!
白石の潰れた眼窩が脳裏に焼き付き、底なしの穴が俺を覗き返す。
その闇はまるで鏡だった。俺自身の無力を映し出していた。
「いい加減に──しろッ!」
背中に鉄の衝撃が走った。
呻いた瞬間、視界が白に弾け、耳鳴りが鐘みたいに鳴り響く。
──手刀。
的確に打たれ、全身の力が抜け落ちた。
膝が崩れ、瓦礫の粉塵が頬にざらりと張りつく。
鉄の匂いが甘い飴玉みたいに鼻腔を満たし、意識が砂時計の砂みたいにこぼれ落ちていく。
その刹那。
──聞こえた。
子供の泣き声。
女の子の泣き声だった。
けれど耳ではなく、胸の奥から滲み出していた。
血の味に混ざり、涙のしょっぱさが舌を濡らし、世界の輪郭を滲ませる。
誰かに隣にいてほしいと泣く声が、俺を呼んでいるみたいに。
意識は、そこで途切れた。
【相川 桜の独白】
最後に聞いた泣き声は、子供みたいだった。
怖いのに、哀しくて、
危ないとわかっていても──放っておけなかった。




