File4:男子学生連続失踪事件(拾貮) 202X年7月18日
──Side Third-person point of view──
202X年7月18日午後11時00分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森》廃墟
世界が千切れた。
白石の瞳が瞬く。
穴が開く。
音がない。
だが世界がちぎれた音は、耳の奥で金属の軋みに変わる。
月光がざらりと剥がれ落ち、闇が素肌を晒す。
まずスクリーン。
映画館の象徴が、黒い孔の連鎖で一気に腐食していく。
布は途中から存在を忘れ、鉄骨だけが悲鳴を上げ、折れ、砕け、落ちる前に視られて消える。
落下音は生まれない。代わりに粉塵の舌触りだけが残る。
座席。
革が焦げる匂いが、存在しないはずの火の匂いになって鼻を刺す。
実際には火などない。
穴が開くだけ。
だが消えた痕跡は「焼け跡」に似て、酸っぱい煙の味を舌に残した。
列ごと空白。番号札の「C-12」が途中で千切れ、虚無に吸われて途切れる。
肘掛けの金具が宙で断ち切られ、落ちる前にまた視られて消失する。落下音は生まれない。
天井。
穴が走る。
白い粉塵が滝のように落ちる。
鉄骨が悲鳴を上げる。
音は低く重いのに、耳には高い笛のように突き刺さった。
粉塵は銀の雨に見え、光の粒子が皮膚をざらつかせる。
照明レールがコマ切れに消え、鎖は一輪飛ばしで世界から剥ぎ取られる。
廊下。
壁。
映写室の窓。
順番など関係ない。
白石の目は銃火器。
瞬きすら引き金。
放たれるたびに、廃墟の肉が抉り取られる。
非常口の緑が半分だけ残り、「出」の右半分が途切れて消えた。
呻き声。呻き声。呻き声。
それは白石ではない。
廃墟の呻きだった。
風吹は走る。
白石の視界に掴まらぬよう、あらゆる遮蔽を飛び回る。
床を蹴る。爆ぜる音が青い光に変わる。
壁を蹴る。石膏の粉が甘い匂いに変わる。
天井に手をかけ、逆さにぶら下がり、すぐさま落下。
落ちた瞬間、靄が尾を引き、白い稲妻が尾を引くように残像を刻む。
二階手すりへ片手。反転。着地。
座席背を踏み台にして前転。鉄の肘掛けを掴み体を捻る。
──だが穴が追いつく。
視線の方が速い。
風吹の肩が抉れる。
血は出ない。音もない。
あるのは空気の抜ける冷たい感触だけ。
──途端、白い靄が即座に滲み出て、風吹の肩を綴じ合わせる。
次は腿。肉が半分えぐれ、骨が見えた──見えた瞬間には白靄が群がり、穴が塞がっていた。
皮膚は白布のように再編され、血の匂いではなく洗濯物の匂いを撒いた。
胸。心臓の鼓動が透け、その赤が光として明滅する。すぐ靄が覆い、拍動ごと白で塗りつぶす。
白石の唇が震える。
「再生……? 馬鹿みたい……! それなら死ぬまで殺せばいい……!」
声は低音。
だが桟敷席に反響して金切り声に変わる。
音は匂いになり、腐敗した果実の甘臭さが館内に充満する。
穴をあけた後、白石はいつも倦怠感を憶える。風吹の異能が再生、回復だとして、そこには限界があるはずだと考えた。
相手が異能で穴を塞ぐのなら、それを上回る異能で、塞ぎきれないほど穴だらけにしてやればいい。
穴は嵐になった。
壁も、天井も、座席も。
映写機ごと消え飛ぶ。
床が抜け、通路が抜け、階段は段ごとに穴を抱えて崩れる。
非常口の緑ランプは半分のまま、片目の魚みたいに瞬いて止まった。
風吹はなおも走る。
梁を蹴る。逆さ宙返り。
二階席に爪先を引っかけ、反動で降下。
バールのようなものが壁を裂く。椅子を砕き、木片を飛ばし、瓦礫を盾にする。
盾は穴に呑まれる。
だがその一瞬で間合いを外す。
座席列の背骨を伝って滑り、肘掛け二点で加速、壁で一歩、天井で一歩、斜めに落ちる。
白い靄の尾が三重に交差し、蜘蛛の巣のように観客席を縫った。
白石の瞳孔は銃口。
ひらめきごとに発砲する。
床が蜂の巣になり、柱は真ん中からえぐれる。
音は爆撃。光は稲妻。匂いは鉄錆と焦げた甘さ。
映写室の小窓が黒い円で抜け、ガラス片は「割れる前」に存在を失った。
風吹の踵に穴。
肉が抜け、骨が削れる。
しかし靄が即座に編み直す。
白い糸が皮膚を縫い、音は針のリズムに変わる。
ふた呼吸で走りの拍が戻る。
白石は錯乱していた。
「ヒッ……エヒッ……エヒヒヒヒヒ!!」
瞳は撃ち続ける。
虚無が連射される。
世界は塵の代わりに空白を撒き散らす。
穴だらけのシアターから覗く通路脇のポスター群が、片端から題名の途中で失踪した。主演名だけが宙にぶら下がり、次の瞬間それも消える。
風吹は薄く微笑む。
無言で走る。残像だけを置く。
速すぎて、姿は音のようにしか見えない。
バールの鉄が空気を裂き、その線が白い閃として視界に針を刺す。
被弾が重なる。
肋の外側が丸く抜ける。
脇腹の皮膚が薄い紙みたいに剥がれ、空白の縁が冷気を吐く。
だが靄が湧く。縫い戻す。縫い戻す。さらに縫い戻す。
呼吸は荒い。呻きはない。
サンダルが床を擦る高い音が、乾いた拍として床に散った。
白石は目を閉じない。
瞬き=装填、開眼=発射。
その単純さが凶悪だった。
直線の穴。斜行の穴。同時の穴。
壁がビリビリに裂かれ、鉄扉は蝶番ごと丸く抉られる。
もはやシアターの壁はスポンジ状に穴だらけで、中からロビーが丸見えだ。
チケット改札の回転バーは半周で終わり、失せた半分は空気に変わった。
穴の風景。
空白の地図。
穴の群れが通路を繋ぎ、裏手の倉庫の古い棚まで一直線に視界が伸びる。
遠くの非常ベルは沈黙したまま、赤いプラスチックだけが残り、ふいに半分消えた。
その応酬の中で、風吹の動きはさらに苛烈になった。
回転しながら梁を蹴る。背面で着地し、即座に反転。
廃墟の空間すべてを跳躍の踏み台にし、縦横無尽に飛び回る。
遮蔽となる椅子や壁はどんどん減っているのに、比例して被弾が少なくなる。
もはや白石の眼球が風吹を追いきれない。あわや見失う瞬間すら出てきた。
瞳孔が震え、呼吸が乱れ、焦りが熱を帯びる。
風吹は高度を変える。
ロビー側へ滑り、踊り場の手すりを跨いで一段上がる。
すぐ降りる。
降りながら木製の看板をバールで跳ね上げ、目くらましに放る。
看板は視られて消えた。
が、投げた瞬間の影が白石の瞳に一拍の遅延を作る。
その一拍ぶん、距離が詰まる。
座席列の根を叩く。
軋み。光。粉塵。
背板がめくれ、クッションが裂け、金物が空転する。
白石の視線が貫く。
残骸は半ばで失踪する。
落ちる音は、また生まれない。
風吹は突如、足を止めた。
臙脂の布が破れた座席を掴む。
素手で、力任せに根こそぎ引き剥がす。
金属が裂ける音が穴だらけの館内を満たす。
風吹は、その塊を振りかぶり──投げた。
白石の視界へ。
布が影の幕を描き、迫る。
光が消える。音が消える。
視界は黒で埋まった。
汗の塩が、突然、光の味に変わる。
息の熱が、耳鳴りの白に変わる。
「消えてよっ!!!」
白石の眼が閃く。
穴が椅子の布地を喰らう。
鉄が呑まれ、影が切り裂かれる。
黒が退く。
白が戻る。
──その刹那。
撫でた。
冷たい鉄が、白石の瞳の縁を。
ほんのかすかな接触。
だが確かに。確かに触れた。
視線の線が、ぷつりと切れる。
穴が止まった。
光が消えた錯覚。
音が遠のいた幻聴。
冷気が瞳孔の奥に流れ込む幻覚
虚無が凍りつく。
館内の喧噪が、一気に押し黙る。
──決着。
残ったのは粉塵と呼吸だけ。
白石の胸が上下する。
呻き声が震える。
涙の塩は、錆の匂いと混ざって色を失った。
顔を押さえ蹲る白石の傍に、白い靄を纏った女が立つ。
肩で荒く息をしながらも、口角をほんのわずかに上げていた。
手にする鉄の先端。爪から赤が滴り落ちる。
──そして、風吹はゆっくりと、鉄の塊を振り上げた。
【相川 桜の独白】
速すぎて、何も見えない。
残ったのは、穴の跡と、闇に尾を引く白い靄。




