File4:男子学生連続失踪事件(拾壹) 202X年7月18日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年7月18日午後10時57分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森》廃墟
──消えた。
目の前で、何も残らず。
あの夏草の匂いも、汗の塩気も、藍色の瞳の光さえも。
すべて風が攫うみたいに霧散して、ただ乾いた埃だけが残った。
喉が焼ける。叫びたいのに、声が出ない。
肺の奥が逆さに裏返って、呼吸という行為そのものが分からなくなる。
指先に重みがない。掴んだはずの肩も、腕も。
俺は虚空にしがみついているだけだ。
「……あ、ぁ」
間の抜けた呻きが、勝手に漏れた。
瓦礫に膝をぶつけ、両手で床を叩く。血が散る。
──俺のせいだ。
──守れなかった。
──彼女を失った。
涙で視界がぐちゃぐちゃに溶ける。
崩れた壁の隙間に、風吹が笑っている気がする。
虚ろな目でこちらに手を伸ばして──すぐに霧散する。
地面に額を打ち付ける。血が滲む。
それでも痛みは現実を繋ぎ止めない。
視界は滲んで、残像が乱舞する。
風吹の影が何人も、何十人も、目の前で笑って消えていく。
やめろ、やめろ!!
見せるな。
俺の頭が勝手に描き出しているだけだ。
頭の奥で、過去の記憶が暴れだす。
蛍光灯。白すぎるシーツ。
彼女の手の甲に浮かんだ細い血管。淡い唇。
「大丈夫」と笑った声。
彼女は俺の「大丈夫」を信じた。信じたかった。
でも本当は。俺は心のどこかで「大丈夫」じゃないことを──。
胸の奥を抉るように、呼吸すらできないほどの痛みが蘇る。
荒く息を吸い、吐くが、熱く煮えたぎる空気はちっとも俺の肺を満たしてくれない。
目を逸らすことすら許してくれない過去が、焼き鏝みたいに脳裏を突き刺す。
吐き気が込み上げ、胃液が口の端まで上がる。
膝が勝手に笑い、瓦礫にぶつかって砕ける音がやけに大きい。
世界が遠い。
耳鳴りだけが洪水のように満ちて、視界の端が白んでいく。
胸の奥がひしゃげて潰れる。
自分の声が遠くなる。
耳の奥から、遠くなってしまった彼女の声が聞こえた。
──さくら。
──ごめんね。
「やっぱり……俺は……」
声はもう俺のものじゃない。
割れたスピーカーから漏れるノイズみたいに、震えて濁っていた。
指先は痙攣して、ただ粉塵を掻くだけ。
どれだけ掴もうとしても、掌には灰と埃しか残らない。
一歩。
白石が近づく。
水を滴らせるような足音。腐った果実を踏み潰す音。
そのひとつひとつが、心臓を潰す槌音になる。
「エヒッ」
息漏れのような嗤いが皮膚を這う。
触れられたら、俺も消える。
それでいい、と一瞬思った。
だって、もう生きる意味なんて。
でも──胸の奥で小さな声が震えていた。
「違う、違う」と子供みたいに泣き叫ぶ声。
理性と本能が引き裂かれて、頭蓋の内側が裂けそうになる。
白石の指先が迫る。
俺の頬まで、あと数寸。
俺はただ、震えながら。
「風吹……ッ!」
「呼んだ?」
あまりにも気軽な声だった。
まるで家の居間で、背中越しに名前を呼ばれたみたいに。
乾いた廃墟に似つかわしくない、日常の調子。
俺の耳が勝手に錯覚したのかと思った。
だが次の瞬間、風が弾ける。
ドガッ──!
白石の体が吹き飛んだ。
細い身体が軽々と宙を舞い、崩れた座席に叩きつけられる。
粉塵が跳ね上がり、咳き込む声が潰れて消えた。
……居る。
汗も塩気も、夏草の匂いも、何もかも消えたはずなのに。
そこに、立っていた。
「ふ、ぶ……き……?」
声にならない。
涙でぐしゃぐしゃの顔から、嗚咽混じりに名前が漏れる。
生きている。
無傷で。
──幻じゃない。
白石の瞳が狂ったように揺れる。
「……うそ、でしょ……消えたはず……っ、穴、あいたじゃない……!!」
彼女の声は乾いたガラスを擦り合わせたように震えていた。
その間に、風吹は俺へ歩み寄る。
俺の姿を見て、一瞬だけ固まった。
涙と鼻水で顔を濡らし、頭からは自分で打ち付けた血が流れている。
哀れで、惨めで、ぐしゃぐしゃな俺の姿。
彼女は──ぷっと、笑った。
「なにその顔。ゾンビより怖いよ」
軽口に胸が詰まり、俺はまた泣きそうになる。
だが、彼女はもう俺を気にしていない。
「返して」と手を差し伸べる。
指ぬき手袋の桜色が、鉄錆の赤を欲している。
俺が無意識に抱えていた帆布袋を差し出すと、彼女は中を探り、鉄の冷たい音を引きずり出した。
──先端が爪状の棒。
──Side富ノ森南学園3-C白石彩花──
202X年7月18日午後10時58分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森》廃墟
一歩。
女が近づいた。
ただそれだけで、空気が爆ぜ、わたしの肺は勝手に縮んだ。胸の奥に釘を打ち込まれたように、呼吸が不可能になる。
もう一歩。
世界の彩度が剥がれ落ち、白黒にひしゃげた風景の中で、濃すぎる影だけが残る。
さらに一歩。
女の足音は軽い。
「殺される」と、理屈より先に体が悟った。
また一歩。
膝が痙攣した。制御が切れた身体から、温かいものが内腿を伝い落ちていく。湿りが広がり、布が重く張りつく。鼻を刺す匂いが、羞恥と恐怖を同時に呼び覚ます。
ああ、終わった。わたしは人間であることすら守れなくなった。
──過去が爆ぜる。
押さえつけられた夜。笑い声。前から後ろからのしかかる体重。吐き気を催す息遣い。
抵抗を嘲られ、価値を剥ぎ取られ、地面に縫い付けられた時間。
行けば一度では終わらない。
一回、二回、三回、四回、五回、六回、七回、八回、九回、十回、十一回、十二回、十三回でトランプは一周だ。
それを何度も何度も何度も何度も何日も何週間も。
あの記憶が一斉に蘇り、惨めに濡れた今と重なって、脳を焼いた。
「いやだ、いやだいやだいやだ──!」
声は誰のものでもない。
頭蓋の内側で、子供の泣き声と女の悲鳴と自分の笑いがごちゃまぜに響く。
廃墟の壁紙がぱきんと割れ、裏からトランプ模様が覗いた。
粉塵は白兎の毛となり、瓦礫はティーカップに変わる。
逆さに吊られた時計が針を千切り、針は骨となって床に突き刺さる。
──アリスの夢だ。狂気の茶会が現実を喰み、ハートの女王のパーティが始まる。
息を吸うたび、喉を通る空気は砂利へ。
吐くたび、舌の上に鉄錆の味が溢れる。
チェシャ猫の口が虚空に浮かび、わたしを見て嗤った。
「おまえは穴だ」と。
視線が一点を射抜く。
ただ、それだけで──穴が開いた。
木材も鉄骨も無関係。虚無が芽を出し、黒い穴がぽっかりと口を開ける。
そこから吸い込まれた瓦礫は紅茶のようにかき混ぜられ、赤黒い液体となって渦を巻いた。
「……っ!」
桜の声が震え、絶望と驚愕が混ざった音を漏らす。
穴は心臓の鼓動に合わせて脈打ち、床板を食い破り続ける。
恐怖が臨界を超えた瞬間、わたしの喉から笑いが溢れた。
自分の声じゃない。ひび割れたスピーカーのノイズと、焼けた歯車の悲鳴が合わさった音。
股の湿りは冷え、腿を這い降りて靴底を濡らしていた。
羞恥と恐怖が一体化し、快楽に似た痺れが脊髄を突き抜ける。
「わたしは壊れた」──その事実だけが甘美に響く。
今ならきっと私はなんでもできる。
ちょっと見るだけでそこもかしこも、不思議の国への穴だらけ。
そのとき。
風吹が口笛を吹いた。
乾いた旋律が、割れた椅子や崩れたスクリーンを舐めるように広がる。
トランプ模様も、紅茶の渦も、チェシャ猫の口も、その音に酔ったように震えた。
「……やるね」
彼女の口元が吊り上がる。
牙を覗かせる獣の笑み。
瞳には、わたしを「敵」と認める冷たい光。
「桜、隠れて逃げてね。巻き添えくらっても知らないよ」
背後の彼に彼女は軽く言い。
そして今度は私に低く告げる。
「遊びはおしまい。ここからは──殺し合いだよ」
彼女に私は、「エヒッ」と応えた。
【富ノ森調査事務所・後日整理資料】
7月18日、旧映画館跡にて相川桜・白石彩花・水瀬風吹の三名が接触。
白石の異能発動により風吹が一時的に消失。
約40秒後、再出現を確認。
”覚醒”としか言い表せない白石の異能拡張を確認。
※この覚醒を境に、事態はプレイヤー間の本格交戦へ移行。




