表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第壹章;アリスはもう穴の中──

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/68

File4:男子学生連続失踪事件(拾壹) 202X年7月18日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年7月18日午後10時57分

富ノ森(とみのもり)市・旧映画館《アートシネマ富ノ森(とみのもり)》廃墟


 ──消えた。

 目の前で、何も残らず。

 あの夏草の匂いも、汗の塩気も、藍色の瞳の光さえも。

 すべて風が攫うみたいに霧散して、ただ乾いた埃だけが残った。


 喉が焼ける。叫びたいのに、声が出ない。

 肺の奥が逆さに裏返って、呼吸という行為そのものが分からなくなる。

 指先に重みがない。掴んだはずの肩も、腕も。

 俺は虚空にしがみついているだけだ。


「……あ、ぁ」


 間の抜けた呻きが、勝手に漏れた。

 瓦礫に膝をぶつけ、両手で床を叩く。血が散る。


 ──俺のせいだ。

 ──守れなかった。

 ──彼女を失った。


 涙で視界がぐちゃぐちゃに溶ける。

 崩れた壁の隙間に、風吹(ふぶき)が笑っている気がする。

 虚ろな目でこちらに手を伸ばして──すぐに霧散する。


 地面に額を打ち付ける。血が滲む。

 それでも痛みは現実を繋ぎ止めない。

 視界は滲んで、残像が乱舞する。

 風吹の影が何人も、何十人も、目の前で笑って消えていく。


 やめろ、やめろ!!

 見せるな。

 俺の頭が勝手に描き出しているだけだ。


 頭の奥で、過去の記憶が暴れだす。

 蛍光灯。白すぎるシーツ。

 彼女の手の甲に浮かんだ細い血管。淡い唇。

 「大丈夫」と笑った声。

 彼女は俺の「大丈夫」を信じた。信じたかった。

 でも本当は。俺は心のどこかで「大丈夫」じゃないことを──。


 胸の奥を抉るように、呼吸すらできないほどの痛みが蘇る。

 荒く息を吸い、吐くが、熱く煮えたぎる空気はちっとも俺の肺を満たしてくれない。

 目を逸らすことすら許してくれない過去が、焼き(ごて)みたいに脳裏を突き刺す。


 吐き気が込み上げ、胃液が口の端まで上がる。

 膝が勝手に笑い、瓦礫にぶつかって砕ける音がやけに大きい。

 世界が遠い。

 耳鳴りだけが洪水のように満ちて、視界の端が白んでいく。


 胸の奥がひしゃげて潰れる。

 自分の声が遠くなる。

 耳の奥から、遠くなってしまった彼女の声が聞こえた。


 ──さくら。

 ──ごめんね。


「やっぱり……俺は……」


 声はもう俺のものじゃない。

 割れたスピーカーから漏れるノイズみたいに、震えて濁っていた。

 指先は痙攣して、ただ粉塵を掻くだけ。

 どれだけ掴もうとしても、掌には灰と埃しか残らない。


 一歩。

 白石が近づく。

 水を滴らせるような足音。腐った果実を踏み潰す音。

 そのひとつひとつが、心臓を潰す槌音になる。


「エヒッ」


 息漏れのような嗤いが皮膚を這う。

 触れられたら、俺も消える。

 それでいい、と一瞬思った。

 だって、もう生きる意味なんて。


 でも──胸の奥で小さな声が震えていた。

 「違う、違う」と子供みたいに泣き叫ぶ声。

 理性と本能が引き裂かれて、頭蓋の内側が裂けそうになる。


 白石の指先が迫る。

 俺の頬まで、あと数寸。

 俺はただ、震えながら。


風吹(ふぶき)……ッ!」


「呼んだ?」


 あまりにも気軽な声だった。

 まるで家の居間で、背中越しに名前を呼ばれたみたいに。

 乾いた廃墟に似つかわしくない、日常の調子。


 俺の耳が勝手に錯覚したのかと思った。

 だが次の瞬間、風が弾ける。


 ドガッ──!


 白石の体が吹き飛んだ。

 細い身体が軽々と宙を舞い、崩れた座席に叩きつけられる。

 粉塵が跳ね上がり、咳き込む声が潰れて消えた。


 ……居る。

 汗も塩気も、夏草の匂いも、何もかも消えたはずなのに。

 そこに、立っていた。


「ふ、ぶ……き……?」


 声にならない。

 涙でぐしゃぐしゃの顔から、嗚咽混じりに名前が漏れる。

 生きている。

 無傷で。

 ──幻じゃない。


 白石の瞳が狂ったように揺れる。

「……うそ、でしょ……消えたはず……っ、穴、あいたじゃない……!!」

 彼女の声は乾いたガラスを擦り合わせたように震えていた。


 その間に、風吹は俺へ歩み寄る。

 俺の姿を見て、一瞬だけ固まった。

 涙と鼻水で顔を濡らし、頭からは自分で打ち付けた血が流れている。

 哀れで、惨めで、ぐしゃぐしゃな俺の姿。


 彼女は──ぷっと、笑った。

「なにその顔。ゾンビより怖いよ」


 軽口に胸が詰まり、俺はまた泣きそうになる。

 だが、彼女はもう俺を気にしていない。

「返して」と手を差し伸べる。

 指ぬき手袋(フィンガーレス)の桜色が、鉄錆の赤を欲している。

 俺が無意識に抱えていた帆布袋を差し出すと、彼女は中を探り、鉄の冷たい音を引きずり出した。


 ──先端が爪状の棒(バールのようなもの)


──Side富ノ森(とみのもり)南学園3-C白石(しらいし)彩花(あやか)──

202X年7月18日午後10時58分

富ノ森(とみのもり)市・旧映画館《アートシネマ富ノ森(とみのもり)》廃墟


 一歩。

 (ふぶき)が近づいた。

 ただそれだけで、空気が爆ぜ、わたしの肺は勝手に縮んだ。胸の奥に釘を打ち込まれたように、呼吸が不可能になる。


 もう一歩。

 世界の彩度が剥がれ落ち、白黒にひしゃげた風景の中で、濃すぎる影だけが残る。


 さらに一歩。

 (ふぶき)の足音は軽い。

「殺される」と、理屈より先に体が悟った。


 また一歩。

 膝が痙攣した。制御が切れた身体から、温かいものが内腿(うちもも)を伝い落ちていく。湿りが広がり、布が重く張りつく。鼻を刺す匂いが、羞恥と恐怖を同時に呼び覚ます。


 ああ、終わった。わたしは人間であることすら守れなくなった。


 ──過去が爆ぜる。

 押さえつけられた夜。笑い声。前から後ろからのしかかる体重。吐き気を催す息遣い。

 抵抗を嘲られ、価値を剥ぎ取られ、地面に縫い付けられた時間。

 行けば一度では終わらない。

 一回、二回、三回、四回、五回、六回、七回、八回、九回、十回、十一回、十二回、十三回でトランプは一周だ。

 それを何度も何度も何度も何度も何日も何週間も。

 あの記憶が一斉に蘇り、惨めに濡れた今と重なって、脳を焼いた。


「いやだ、いやだいやだいやだ──!」


 声は誰のものでもない。

 頭蓋の内側で、子供の泣き声と女の悲鳴と自分の笑いがごちゃまぜに響く。

 廃墟の壁紙がぱきんと割れ、裏からトランプ模様が覗いた。

 粉塵は白兎の毛となり、瓦礫はティーカップに変わる。

 逆さに吊られた時計が針を千切り、針は骨となって床に突き刺さる。

 ──アリス(迷い子)の夢だ。狂気の茶会が現実を()み、ハートの女王のパーティが始まる。


 息を吸うたび、喉を通る空気は砂利へ。

 吐くたび、舌の上に鉄錆の味が溢れる。

 チェシャ猫の口が虚空に浮かび、わたしを見て嗤った。

「おまえは穴だ」と。


 視線が一点を射抜く。

 ただ、それだけで──穴が開いた。

 木材も鉄骨も無関係。虚無が芽を出し、黒い穴がぽっかりと口を開ける。

 そこから吸い込まれた瓦礫は紅茶のようにかき混ぜられ、赤黒い液体となって渦を巻いた。


「……っ!」

 桜の声が震え、絶望と驚愕が混ざった音を漏らす。


 穴は心臓の鼓動に合わせて脈打ち、床板を食い破り続ける。

 恐怖が臨界を超えた瞬間、わたしの喉から笑いが溢れた。

 自分の声じゃない。ひび割れたスピーカーのノイズと、焼けた歯車の悲鳴が合わさった音。


 股の湿りは冷え、(ふともも)を這い降りて靴底を濡らしていた。

 羞恥と恐怖が一体化し、快楽に似た痺れが脊髄を突き抜ける。

「わたしは壊れた」──その事実だけが甘美に響く。

 今ならきっと私はなんでもできる。

 ちょっと見るだけでそこもかしこも、不思議の国への穴だらけ。


 そのとき。


 風吹が口笛を吹いた。

 乾いた旋律が、割れた椅子や崩れたスクリーンを舐めるように広がる。

 トランプ模様も、紅茶の渦も、チェシャ猫の口も、その音に酔ったように震えた。


「……やるね」

 彼女(ふぶき)の口元が吊り上がる。

 牙を覗かせる獣の笑み。

 瞳には、わたしを「敵」と認める冷たい光。


「桜、隠れて逃げてね。巻き添えくらっても知らないよ」

 背後の(さくら)彼女(ふぶき)は軽く言い。


 そして今度は私に低く告げる。


「遊びはおしまい。ここからは──殺し合いだよ」


 彼女(ふぶき)に私は、「エヒッ」と応えた。

【富ノ森調査事務所・後日整理資料】

7月18日、旧映画館跡にて相川桜・白石彩花・水瀬風吹の三名が接触。

白石の異能発動により風吹が一時的に消失。

約40秒後、再出現を確認。

”覚醒”としか言い表せない白石の異能拡張を確認。

※この覚醒を境に、事態はプレイヤー間の本格交戦へ移行。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ