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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第壹章;アリスはもう穴の中──

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Fragment:相川 桜Ⅰ

──Side 相川(あいかわ) (さくら)──

僕らが生まれたあの日から

富ノ森(とみのもり)市内


 窓からの景色が、一面の桜風吹にいだかれる頃。

 俺たちは同じ日に、生まれた。

 産院の小さな紙に並んで書かれた日付が、ふたりの運命を軽く結んだ。

 同じ誕生日。隣り合った家。窓を開ければ指先が触れられる距離だった。


 幼稚園の頃、窓越しにお互いの手を叩いて遊んだ。

 向こうが手を上げると、俺も上げる。

 合図のように笑って、世界がそこだけ膨らむ。

 夏の光は彼女の髪を金色にした。遠くで蝉が鳴く夏。彼女の髪は光を含んでいた。

 風鈴の音が、彼女の声に重なった。

 夕方になると、俺は彼女の家の植木の陰に隠れて待った。

 母さんが作った弁当箱の蓋を開けて、半分だけ分けてやると、彼女はいつも真剣な顔で「どうぞ」って言った。

 味噌の匂いが夕闇を濡らして、俺の掌に温度を残した。

 窓越しに、「おとなになってもずっといっしょ」の約束をしたのは、この頃だ。


 小学校の入学式の日、俺たちは同じ列に並んだ。

 家を一歩出ると、桜風吹。

 制服の襟がこそばゆくて、隣の席に彼女がいるだけで心臓がうるさかった。

 教室の匂いは新しいノートの紙の匂い。先生の声が遠い。休み時間、窓際で俺は彼女と鉛筆を貸し借りした。誰かが「兄妹?」とからかったが、二人とも笑わなかった。笑う必要がなかった。


 祭りの夜は記憶に濃い。半田の匂い。かき氷の蜜のべたつき。

 俺は彼女と一つの綿菓子を半分に裂いて食べた。

 手がべとついて、それを舐め合うみたいに笑った。

 隣の屋根に投げた小石が、二人だけの合図になる。暗闇に二つの影。誰も邪魔しないでくれる時間。


 病気の日もあった。薄い毛布にくるまって、窓の向こうにぼんやりとした輪郭を見た。

 向こうは手を振ってくれた。俺は紙袋の中の小さな菓子を窓辺に置いたまま、指先でそれを押し返した。

 蛍光灯の白が半分滲んで、彼女の輪郭だけがクリアに残った。あの時の光は、今も時々俺の胸をつく。


 転がるボール。放課後の砂場。虫取り網を二人で振り回した。

 ときどき喧嘩もした。お互いの秘密を言い合って、どちらが先に泣くかの競争をした。泣いたら相手のポケットに石を入れる。それが約束だった。約束はいつも簡単に守られた。


 雨の朝、通学路で俺は彼女の傘の片端を掴んで歩いた。水の匂いが靴につく。

 窓から差し込む光が校舎の床を細く切る。向こうが「ねえ、大学までずっと同じ学校いこうね」と小声で言ったのはまだ早い夢だったけど、俺は頷いた。小学校を出るころには、その言葉が胸の中で種になっていた。


 中学に上がったころ、世界が少しだけ狭くなった。俺と彼女の家のすぐ裏手にある中学校に通った。

 春の匂いはいつも桜風吹に抱きしめられているような感覚を覚えた。

教室の匂いが変わる。木の机。消しゴムの粉。新しい下敷きの油の匂い。休み時間の軋む床。


 体育館の照明が眩しくて、彼女の汗が銀色に光った。部活は違った。

 俺は軽く走るだけの部で、彼女はバレーボールを選んだ。ネット越しにぶつかる声。ボールの固い音。彼女がスパイクを決めたとき、俺はなぜか胸が痛くなった。汗の匂いが、勝利の匂いが、彼女の体温と混ざってしまった。


 思春期の匂いが学校を満たす。おしゃれの練習。体臭と制汗剤のぶつかり合い。

 女子更衣室の隙間から漏れる笑い声。俺は窓側でただ、それに耳を傾けていた。

 部活の休憩中、彼女がタオルで髪を拭く仕草を、たぶん何百回も見た。濡れた黒髪の匂いは、いつも少しだけ甘くて、胸をかき乱した。


 中学二年。教室には、もう一つ別の匂いがあった。

 みんなで順番に冷やかしの矢面を立てる、軽い悪ふざけの空気。ある時、それが彼女に回ってきた。

 授業で答えるときに笑われたり、プリントをわざと回してもらえなかったり。笑ってごまかしていたけれど、時々曇る顔を俺は見ていた。


 ある日の国語の授業。先生に当てられた彼女は、机の上に教科書がなくて言葉を詰まらせた。

 俺は隣の席から自分の教科書を差し出した。

「使えよ」

 それから、わざと大きな声で教室に言った。

「もうやめようぜ、子供っぽいよ、こんなん」


 教室のざわめきがすっと引いた。その日から、悪ふざけはなくなった。

 放課後、彼女は二人きりなった教室で、小さく笑った。

「桜は……私のヒーローだよ」


 中学三年の夏、二人で夜店を回った。屋台の油の匂い。焼きそばの湯気。

 彼女はラムネの瓶を指で弾いて小さく笑った。人混みの熱でシャツが張り付く。俺たちは綿菓子を二つに裂いて食べた。甘さが歯の裏に残り、彼女の笑い声が夜の空気に吸われていく。

 帰り道、屋根の雨だれが小さなリズムを刻んだ。彼女が俺の横顔を覗き込んで、「ねえ」と囁いた。言葉は簡単で、でも胸に沈んだ。


 高校生活は別の色をしていた。

 入学の季節の桜は淡く、けれどどこか濃く映った。となりを歩く彼女の横顔も、その色に少し混ざって見えた。

 制服の生地が重くなり、駅のホームに立つ人の数も増えた。俺たちは所属するクラスが別れたが、帰り道はいつも同じ電車に乗った。吊り革の冷たさ。人の体温。

 ホームのベンチで、俺はよく彼女と並んでサンドイッチを食った。口に広がる小麦の匂いが、日常の重さを和らげる。


 高校二年の冬、俺は初めて少し本気で怒った。彼女が微妙に距離を作るようになったときだ。

 理由を訊けば彼女は笑って誤魔化した。俺はそれで腹が立った。言葉が尖って、石を投げるみたいにぶつけた。俺たちは二人でひとつで、隠し事なんてないと思い込んでいたから。

 彼女は黙って俺の目を見て、小さく首を振った。氷のように冷たい沈黙が流れた。

 帰り道、夜風が胸をなでた。俺は意地で先に歩き、彼女は追ってこなかった。後ろ姿の肩の線が、小さな寂しさをくっきり刻んだ。


 だが、すれ違いは長く続かなかった。

 春、桜の季節に彼女が手紙をくれた。紙の角に書かれた短い文。

「ごめんね。馬鹿みたいに弱い日があるの。ちゃんと話すから待っててくれたら嬉しい」

 紙にかすかに染みた涙の跡まで見えた。俺は胸の中で何かが溶けて、言葉よりも先に笑っていた。

 俺は「待つ」とだけ書いて返した。彼女の家の郵便箱に入れたとき、掌にまだ彼女の手紙の匂いがついていた。


 進路の話が現実味を帯びる。大学受験という言葉がテーブルに置かれるようになった。周囲は都心の大学を目指し、誘い合って勉強会と称する夜を重ねた。

 俺たちは互いに問いかけた。行く場所。住む場所。彼女はいつも俯いて「桜と同じところに」と言った。冗談めかしたのか、本気なのか、分からない表情だった。

 俺は笑って、だが胸の奥で重く頷いた。


 受験期、夜中に窓を開けて互いの部屋の明かりを確認した。彼女の部屋の電気が遅くまで消えない夜は安心だった。

 匂いは変わらない。インスタントのカップ麺の湯気。ページを捲る紙の擦れる音。彼女が眠り込む前に必ず言った。

「一緒に行こう」

 何度も、何度も。言葉が薄れるほど、重みが増していった。


 合格発表の朝、俺は駅の改札で彼女の手を握った。

 冷たい風。掲示板の白い紙。番号が並ぶ。彼女は小さく肩を震わせていた。

 二人ともが、お互いの受験番号を指差したとき、胸の中にあった重さが一気に弾けた。

 笑い声が出て、少しだけ嗚咽が混じった。約束は言葉でなく、互いの掌に刻まれた。

「桜が一緒だから頑張れた。桜は私を助けてくれるヒーローだね」

 彼女が冗談っぽく笑った。


 卒業式の日、校庭の土の匂いが強かった。礼服の襟が窮屈で、校歌が耳の奥で消えない。

 彼女が目を潤ませていたのを見つけ、俺は無駄に舌打ちをしてしまった。泣かせたのは自分だと後で思う。だが握った手は熱かった。二人で歩く帰り道、夜風が新しい匂いを運んだ。


 俺たちは同じ大学に行くことになった。

 窓から届いた子供の約束が、いつの間にか現実の列車の時刻表になっただけだった。

 だがその現実が、夜の風の匂いとともに、確かに嬉しかった。


 大学に入った。

 俺たちの家の前の道は、桜風吹が舞っていた。

 キャンパスの芝生が刈られて、風が低く走る。講義室の臭いは古い紙と粉っぽい黒板消し。

 俺たちは同じ講義に並んで座った。時々、彼女が隣でページをめくる音がするだけで安心した。


 春の終わり、父さんが転勤になった。


 夜、食卓で新聞を折る音。父さんの靴が玄関で鳴った。母さんが小さくため息をついた。二人で荷物をまとめる。理由は遠い街。

 母さんは父さんについていくと言った。俺は「いくつになっても仲がいいな」と思った。


 相川家は父、母、俺の三人暮らしだった。急に、一人暮らしになった。

 広い台所の空気が変わる。食器棚の戸が虚しく鳴る夜。寝室の灯りがひとつだけ残ると、家の声が消えた。誰もいないリビングのソファのへこみを、誰かが見ているようで気まずかった。


 そのころから、隣に住む彼女が毎日のように家に来た。

 最初は授業のあと。次は夕方。やがて昼も。

 彼女は家にあがると、勝手に台所を使う。米を炊く匂いが家にしみついた。洗濯物の匂い。彼女の香りが部屋に残ると、空気に色が戻った気がした。


 彼女はよく笑った。笑い声は昔のまま、かすかに風鈴に似ていた。

 だが、見た目が少し薄くなっていった。頬の色が夜明けの霧みたいに淡くなる日が増えた。握った手が以前より軽かった。食べてもすぐお腹が鳴る。皿の上の料理を半分だけ残すことが増えた。


 キャンバスからの帰り道、彼女が急に息を切らすことがあった。階段を上がるだけで胸が詰まるように見えた。最初は気温のせいだと思った。次は忙しさだと思った。彼女は「疲れただけ」と笑って肩をすくめた。笑いはすぐ戻る。俺はその笑いでなんとか踏みとどまった。


 ある朝、洗面所のピルケースを見つけた。

 小さな何種もの錠剤が小分けにされた部屋に几帳面に収められている。梱包から剥かれた状態で納められていたから、何の薬なのかはわからなかった。

 これなんの薬? と尋ねると彼女はそれをテーブルの端に置いて、何事もないように茶を淹れた。彼女は笑って「気にしすぎ」と言った。


 夜、彼女は台所のテーブルに頭を伏せて眠ることがあった。反射的にブランケットを掛けると、彼女の肩が小さく震えた。呼吸が浅くなる。手の甲の血の色が薄い。窓の外の街灯が蛍光の白で縁取る。

 俺は何度もその肩に触れてみた。温度はあった。だが、何かが滑っていく感触もあった。


 彼女の目は、時折遠くを見るようになった。笑った後に、急に黙る。話の端々で言葉を探す瞬間がある。

 俺はそれを「疲れ」と呼んだ。彼女も「疲れ」と呼んだ。二人で言葉にはせずそう約束して、それ以上は詮索しなかった。


 薄い咳、朝の白い皿の残り、夜中に指先を冷たくする時間。匂いと音が教えてくれる。洗濯機の低い唸り。中学校の終業の鐘。彼女の足裏がカーペットを叩く音が、以前より軽くなった。


 俺はまだ「疲れ」の正体を知らない。名前も、重さも知らない。

 ただ、いつもの匂いが少しだけ変わったことだけを知っている。夜の味噌の湯気に、病院の消毒液の匂いが混ざったことを覚えている。

 彼女がテーブルで小さく笑って、「大丈夫」と言ったとき、俺はその言葉を信じることにした。信じるしかなかった。


 桜の季節は、まだ少し遠かった。

【相川 桜の独白】

兄妹でも、恋人でもなかった。

けど、離れたら呼吸ができないほど、

同じ空気を分け合って生きてきた。

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