File4:男子学生連続失踪事件(拾) 202X年7月18日
──Side 富ノ森南学園 3-C 白石 彩花──
202X年7月18日午後10時50分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森》廃墟
轟音のあと、粉塵が世界を覆った。
喉に砂が流れ込んで、息を吸うたびひりつく。
息をするだけで喉に砂利が流れ込み、咳をこらえると涙が滲んだ。
何も見えない。
粉塵は夜気を濁らせ、月光すら飲み込んでいる。
その白濁の向こうで、床板を叩いた衝撃だけが耳に残っていた。
一拍、二拍。
舞い上がった埃がゆっくり落ち、視界が輪郭を取り戻していく。
月光が薄い幕を透かし、粒子が銀色にきらめいた。
闇に沈んだ廃館の舞台に、ひとつの影が立っていた。
──女。
焼けた肌。
光を弾く筋肉。
滴る汗が闇を揺らす。
鞭のような黒髪が粉塵を払い、火花みたいに散っていく。
Tシャツ、短パン、どう見ても寝間着といった軽装にビーチサンダル。
その姿は獣めいて荒々しいのに、どこか神像のように冷たく美しかった。
なぜか、周囲の埃がその女を避けて流れているように見えた。
彼女自身が光を放っているかのように。
「……だァから言ったろ。明日にしようって」
声は澄んで冷たいのに、不思議と温かい。
胸の奥が震えた。
男が、肩をすくめる。
さっきまで死に怯えていた顔が、どこか緩んでいる。
「派手にやるなよ……天井どうすんだ」
「命拾いしたくせに、まず文句?」
掛け合い。
ほんの少し前まで死が迫っていた空気が、ふたりの軽口だけであっけなく緩んでいく。
男の顔には安堵が滲んでいた。
──この女が来たからだ。
私は震えた。
その余裕、その信頼。
ずるい。
同じ呪われた者なのに。
男が彼女を名を口にする。
「すまん、助かったよ、風吹」
その瞬間、見えた。
女のまわりに立つ靄。
彼女の周りに、靄が立っていた。
本来なら黒く淀み、腐臭と絶望を滴らせるはずの呪い。
だが彼女のそれは、私のものとは違った。
白。
けれど無色の冷たい白ではない。
夏の太陽が肌を焼くときの、じりじりとした熱。
洗い立ての布を乾かしたときの、鼻を抜ける清らかさ。
まるで陽光が人の形を取っているように見える。
それらが一面に広がり、私の喉を灼きながらも胸を締めつけた。
禍々しいはずの呪いが、どうしてこんな──。
眩しくて、羨ましくて、吐き気がするほど温かいなんて。
指先が震えた。
その光を否定するように、私は拳を握りしめる。
皮膚を破るぬめり。果実を潰したような音が耳に残って、背骨を撫でた。
「私、あなたみたいな人──嫌いみたい」
声が自分のものと思えないほど濡れていた。
私はその白を呑み潰すために、一歩踏み出した。
──Side富ノ森調査事務所アルバイト相川桜──
202X年7月18日午後10時51分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森》廃墟
白石が踏み込んだ。
伸びた指先が、呻くように闇を裂く。
ほんの一指でも触れれば、滝口と同じく“無”に還る──俺はそう確信していた。
だが、風吹は振り返らない。
背を向けたまま腰を落とし、肩を斜めにずらす。
野生の獣が牙を避けるみたいに、本能だけで間合いを外した。
白石の指先は虚空を掻いた。皮膚には触れない。
それだけで終わればよかった。
だが、風吹は肘を返した。
振り抜くでも殴るでもなく、軽く払うように。
白石の手首から先を避けて、二の腕を押し出す角度だった。
俺の心臓が止まりかけた。
──白石の異能の発動条件が、手だけである保証なんて、どこにもない。
腕でも、肩でも、頬でも。触れた瞬間に“穴”が芽吹く可能性だってある。
風吹が肘を当てた時点で、終わる可能性を否定する材料がない。
背筋に冷水を流し込まれたみたいな寒気が走った。
喉奥で鉄の味が広がる。
だが、発動はしなかった。
白石は呻き声を漏らしてよろめき、瓦礫を蹴って崩れた座席に肩を打ちつけただけだった。
……偶然か?
いや、違う。
風吹は知識で動いてない。理屈なんていらない。
「手に触れてはいけない」と、ただ嗅覚じみた直感で読み切ったのだ。
俺は呼吸を取り戻しながら、なおも冷や汗に濡れていた。
もし条件が違っていたら──その瞬間、風吹は消えていた。
それでも風吹は振り返らない。
背中を白石に向けたまま、余裕すら漂わせて立っている。
月光が汗を縁取って、白い靄が淡く揺れていた。
「……お前なあ」思わず声が漏れる。
「派手にやったかと思えば、今度は背中で捌くとか……こっちの心臓に悪いんだよ」
風吹は、短くくっと笑った。
その軽さに、俺は救われたような気がした。
白石が歯を食いしばった。
肩を震わせ、粉塵を吸い込んで咳き込んだのに、それすら怒りの熱でねじ伏せる。
よろめいた足が再び前を向いた。
苛立ちと焦りを煮詰めた視線が、俺と風吹を交互に刺す。
攻めてくる。まだやる気だ。
「風吹」
俺は声を低く落とした。
「相手の能力……触れるだけだ。手で触れたら、消される」
風吹は振り向かずに片眉だけ動かした。
「へぇ」
それだけ。驚きも警戒もない。
「おい、真面目に──」と言いかけたとき、
「桜、持っといて」と、彼女は背負っていた帆布袋を片手でつかみ、俺に放り投げた。
ずしり、と中身の重みが腕に食い込む。金属の鈍い感触。
「ちょっと遊んであげる。相手が素手なら、こっちもステゴロでしょ」
そう言って肩を回す風吹の横顔に、汗が光った。
ここ数日、不良漫画と格ゲーがお気に入りだったもんなあ……。
風吹は、犬歯を見せるように口角をつり上げた。
挑発でも虚勢でもない。純粋に「遊ぶ気」なのだと直感した。
白石の呼吸が荒くなる。
影が揺れ、月光を裂く。
息をのむ攻防が始まった。
白石の吐息が荒い。
声にならない音が、濡れた頁をめくるように途切れ途切れで漏れている。
叫ぶのではない。
押し殺した小声が、逆に苛立ちと焦燥を滲ませていた。
痩せた体が突進してくる。
対する風吹は──笑っていた。
小さく鼻歌を口ずさみながら、軽やかに一歩退く。
白石の突きを、手首で軽く弾き飛ばす。
次の横薙ぎは、腰をひねってひらりと避ける。
回転しながら繰り出される手掌には、肩を当てて軸を外す。
すべて余裕。
格闘の理屈でも、武術の型でもない。
まるで不良漫画の主人公が「はい、そこ甘い」と相手をあしらうみたいに。
「リズム悪いな。もっと腰から来いよ」
風吹はわざと挑発するように声をかけ、さらに鼻歌を続けた。
白石の額に汗がにじむ。
髪が乱れ、息が荒くなっても攻撃の手を止めない。
怒りと苛立ちに突き動かされ、指先は刃のように鋭さを増していた。
だが当たらない。かすりもしない。
目の前の女は遊んでいる。
本気を出せば倒せるはずの相手を、わざわざ鼻歌交じりでいなしている。
その余裕が、白石の焦燥をさらに掻き立てていた。
──俺には分かる。
格ゲーと不良漫画に毒されたまんまのテンションで戦ってやがる。
「よし、そこで一回転──ほら、空振り」
風吹が指を鳴らすと同時に、白石の爪先が空を裂く。
わざと間合いを与え、わざと攻撃を誘って翻弄する。
焦りは白石の瞳を濁らせ、息の熱を荒立たせていく。
俺の背筋には冷汗が滲む。
相手の力を知っているだけに、この遊び方は危なっかしくて仕方ない。
そのときだった。
ぬめ、と嫌な音がした。
風吹のサンダルが、柔らかいものを踏み潰したのだ。
反射的に目を落とすと、床一面に散乱するビニールの残骸。
破れた包装、しぼんだ袋、濁った液体。
一本や二本ではない。
夥しい数。
まるでこの廃館の床が、誰かが嬲った夜のことを、覚えているかのように。
生臭さが粉塵と混じり、鉄と黴の匂いにねっとりと絡む。
俺の胃が反射的に痙攣した。
そして、風吹の顔から鼻歌が消えた。
ほんの一瞬、重心が狂う。
足裏に広がった嫌悪の感触が、わずかに動きを鈍らせた。
その刹那──白石の指先が閃いた。
細い刃のような手が、風吹の左腕を掠める。
心臓が喉を突き上げる。
……触れた。
空気が裏返った。
掠めた白石の指先から、黒い穴が芽吹いた。
風吹の左腕。そこに、小さな“欠損”が開く。
輪郭がずれる。
皮膚も肉も血も──最初から存在しなかったかのように、欠片ごと失われていく。
肩から先がぐらりと揺れ、空白がひろがる。
汗の光も、筋肉の曲線も、切り取られるように消えた。
目の前で、風吹の体がぼろぼろと“無”に削られていく。
穴は左腕から胸へと侵食し、あたかも白い彫像を砕くように、静かに、だが確実に。
鼻を刺すのは鉄の匂いではない。血の匂いすら残らない。
ただ、空っぽの冷気。
存在の抜けた場所にだけ吹く、異様に乾いた風。
風吹が目を見開いた。
藍の瞳が光を映し、唇が何かを言いかける。
だが声は出ない。
胸元が一度だけ震え、次の瞬間には、腹の半分までもが欠け落ちた。
残ったのは藍の瞳だけ。
光を宿したまま宙に浮かんで、虚空に吸い込まれる。
やがてそれすら掻き消えた。
空気が妙に軽い。
さっきまで胸を焼いていた夏草の匂いも、汗の塩気も、鉄の湿りも、すべて霧散した。
残ったのは、乾いた埃とカビの臭気だけ。
床板に影は落ちていない。
粉塵の流れに逆らっていた気配も、もうどこにもない。
跡形なく。
最初から、彼女など存在しなかったかのように。
俺の手が宙を掻いた。
熱も、重みも、何も掴めない。
そこにはただ、冷えた虚無だけが残る。
その場に膝をつき、声が骨だけ残して消えた。
伸ばした手には重みがなく、指先は虚空を掻くだけだった。
音にすらならない嗚咽だけが漏れ、体の奥で何かが確かに砕け散るのが分かった。
【相川 桜の独白】
……風吹が目の前で消えたとき。
風の匂いがした気がする。
桜の頃の、あの春の匂いが。




