File4:男子学生連続失踪事件(玖) 202X年7月18日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
202X年7月18日午後10時47分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森》廃墟
「あなたも……ハコに呪われた祈る者なんですね」
白石の声は、舌の奥に冷たい蜜を垂らされたように、ゆっくり喉へ沈んでいった。
否定はできない。意味もない。
俺が、白石を祈る者だと判断できたように。
彼女もまた、俺に纏わりつくおぞましい靄を嗅ぎ取っている。
俺の能力は、戦闘において、無力。
つまりは自力と機転で、この場をやり過ごすしかない。
──考えろ。
滝口が“無かったこと”になった瞬間。
白石の細い指が手首を掴み、そこから孔が芽吹いた。音もなく増え、骨も声も消えた。
──条件は白石からの接触。最悪、指先ひとつでも。髪の毛がかすめても終わると思うべき。
分析は明快。
だが、どうしようもない。二歩の距離。死はもう、熱を持って迫っている。
喉が勝手に鳴り、声にならない息が漏れる。
白石が一歩、踏み出す。
靴底が砕けたガラスを潰す。きゅ、と濡れた果実を噛んだみたいな音。
その響きが廃墟の闇を伝い、皮膚の裏をぞわぞわと這い上がる。
裾が擦れる。
布の音は薄暗い空気を撫で、ざらついた埃の粒が光と混じって舞う。
その一歩ごとに、少女特有の甘い匂いが広がる。
まだ熟れきらない果実を潰したような匂い。酸味と体温が混ざり合い、廃墟の黴と交じって異様に濃い。
無垢であるはずの香りが、不健全な色気をまとって鼻腔を焼いた。
頬をなぞる月光の白が、彼女の輪郭を浮かび上がらせる。
痩せた肩。あどけなさの残る頬。ともすれば幼く見える顔には、到底似つかわしくないたわわな双丘。
だが瞳の底にあるのは幼さではない。
濡れた穴のような暗さと、掻き立てる甘い誘惑。
「恨みはないんです。でも……勝たなきゃ」
囁きは、耳殻の裏を舐められるみたいに湿って響いた。
血が凍る。
俺は反射的に後退った。
ガラスの破片が靴裏で鳴り、鉄の味が舌先に広がる。
距離を──取れ。
それしか生き残れない。
「いやなものは……全部消す」
天井の穴から漏れる月光に、白石の瞳が光を呑んで俺を射抜く。
底なしの穴。見返した瞬間、吸い込まれそうになる。
影が熱を帯びて胸に迫り、胃の奥で冷たい鉄の味が立ち上った。
踵を返し、通路へ駆け出す。
錆と埃の匂いが肺を削り、心臓が喉まで跳ね上がる。
そのとき、胸ポケットのスマホが震えた。
耳元で鳴る低い唸りのような振動。
神経が過敏になっていたせいで、全身が痙攣するほど意識を奪われた。
足がもつれる。
砕けたタイルの角。
前のめり。
脛が段差の角を噛む。
鈍い痛み。熱い。すぐ冷える。
呼吸が一拍、落ちた。
階段状の通路に転げ落ちる。
胸ポケットからスマホが滑り、月光を拾って青白い。
画面に震える文字。
──瀬川俊二。
血の気が指先から抜ける。
最悪だ、俊兄。
脚が痛みに痺れる。
闇の奥から、白石の足音が近づいてくる。
一歩。
一歩。
それは死のカウントダウンであると同時に、淫靡な舞踏の拍子。
白石の靴音は、まるで舞台に立つ舞姫のそれだった。
砕けたガラスを潰す音は、果実を指で潰したときのぬめる響きに似ていた。
湿った残響が闇を伝い、俺の鼓膜にまとわりつく。
足を引きずりながら後退る俺に、白石は楽しげに首を傾げた。
月光に濡れた頬が、どこか妖しく光る。
「エヒッ……エヒヒヒヒッ……あなたは、どんな呪いを受けたの?」
濡れた頁を指で剥がすように、湿りを帯びた声は、甘い痰のように湿り、闇の天井で何度も反響した。
その音は耳だけでなく、皮膚の裏側や舌の根までも震わせる。
吐き気を覚えるのに、同時に痺れるような昂ぶりが背骨を走る。
「来るな……」
脛の痛みに歯を食いしばりながら、俺は這う。
掌に砕けたタイルの破片が突き刺さり、血の鉄の味が口に広がった。
湿った埃が肺に貼りつき、鼻腔には少女の甘い匂いがまとわりつく。
腐りかけた果実の酸味と、体温の湿り気。
その香りは淫らに熟れ、死の気配と絡み合って重く垂れ込めていた。
一歩。
また一歩。
白石が近づくたび、影が俺の視界を侵してくる。
彼女の吐息が微かに触れるたび、耳の奥がじんと痺れた。
見えない指で撫でられるように、皮膚の下を熱が這う。
「いやなものは、全部消すんです。助けようとしてくれたことは嬉しかったけど……あなたも、肉に群がる蛆だから」
古い写真をなぞる指の音みたいに、かすかで甘い声。声は幼いのに、艶を帯びている。
その矛盾が、恐怖をより濃くした。
終わる。
胸の奥で直感が鐘のように鳴り響いた。
だが、同時に別の震えが芽生える。
目でも耳でもないのに、確かに感じる気配。
夜を裂き、風を追い越す速さで、この場所へ。
冷たい汗が頬を伝う。
白石は立ち止まらない。
細い指が、ゆっくりとこちらへ伸びてくる。
爪の先が月光を反射し、刃のように白く光った。
あと数秒。
その指が俺の皮膚に触れれば、俺は滝口と同じ“無”に還る。
耳の奥で、自分の心臓の音が鼓膜を破りそうに暴れた。
吐く息に血の味が混じり、喉の奥が焼ける。
「……エヒッ」
白石の唇が艶やかに形をつくった。
蠱惑的な笑みとともに、死が俺へ手を伸ばす──。
──轟音。
天井が破裂するように裂け、鉄骨が悲鳴を上げた。
砂塵が爆ぜて舞い上がり、廃墟の闇が一瞬で白く塗り替えられる。
月光。
ひと筋の冷たい光が穴から注ぎ込み、埃の粒を銀の炎に変えて渦を描く。
その奔流は、甘く腐った匂いをまとった白石の世界を押し流し、全身を灼くような光の洪水となった。
粉砕された木片が雨のように散り、破片の音が教会の鐘の残響みたいに反響する。
そのただ中──ひとつの影が降り立つ。
衝撃が床を震わせ、砕けた座席が悲鳴を上げた。
両脚を大きく開いた着地は獣のもの。だが、その姿は荒々しさを超えて美しい。
小麦色の肌が月光を浴び、研ぎ澄まされた筋肉が硬質な曲線を描く。
身体を覆うのは、ただの寝間着──白いTシャツと黒い短パンにビーチサンダル。
両の拳には、桜色の指ぬき手袋が締めつけられていた。
指先は露わに剥き出しで、濡れた爪が月光を受けて淡く光る。
使い古したカシミアが濡れて質感を変え、
まるで繊維そのものが血肉に馴染んだかのように見えた。
その無防備極まりない軽装が、均整の取れたしなやかな体軀をあらわにし、野性の鋭さと女性的な柔らかさを同時に際立たせていた。
普段着の無防備さと、神像のような冷たい美しさ。その落差に息を呑む。
黒髪のポニーテールが鞭のように宙を裂き、銀の粒子を散らして夜空を背負う翼のように広がった。
その顔が月光に照らし出される。
切り込むように鋭い輪郭。唇は血の色を帯び、頬は薄く汗に濡れて輝いている。
──そして、眼。
深い藍に炎を閉じ込めたような瞳が、光を呑み込んで煌めいた。
獣の眼光と、女神の冷ややかさ。どちらとも言えない二重の輝きに射抜かれた瞬間、胸の奥で氷と火が同時に爆ぜた。
匂いが押し寄せる。
白石から立ちのぼる果実の甘さは消え、かわりに夏草の青い匂いが押し寄せる。
日に焼かれた土が吐き出す熱、干した綿の清らかさ。太陽の匂い。
遅れて押し寄せる汗と鉄の匂い。
それらが混じり合い、胸いっぱいに膨らんでくる。
凝縮された生の香りが、鼻腔に満ちるだけでなく、皮膚の下にまで染み込み、脈動を重ねてくる。
「……だァから、言ったろ。明日にしようって」
声。
それは澄んだ水のように冷たく、凛として館内に響いた。
その声は、透明な刃のようだった。
清冽さの奥に、不思議な温かさを孕んでいて、胸の奥を一気に震わせた。
月光はさらに広がり、闇を切り裂く。
埃の粒が銀の幕となって舞い、そこに立つ彼女を照らし出す。
その姿は、暴力と神性を同時に宿した彫像。
女性でありながら、野生の獣の強さを持ち、獣でありながら、女神のように美しかった。
淫靡な死の蠱惑を放っていた館内は、一瞬で別の舞台に塗り替えられる。
俺の前に悠然と立つ。
翼を持たぬのに月光を背負った──
水瀬風吹が、来た。
【とあるノートの隅の走り書き】(記録者:相川 桜)
・風吹=うちの居候。
・昼はよく寝る。夜もよく寝る。
・家事スキル壊滅、飯は作るより奪う派。
・だらしない、気まぐれ、寝起き最悪。
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