Fragment:白石 彩花Ⅲ
──Side 不思議の国の穴の私──
◆202X年5月のはずの4月/十三月の零時と十七時が抱き合って崩れた刻
三百三番目の穴? タイルが逆立ち、湯気が秒針を滑らせ、浴室の鏡は壁一面の口になって息をする場所
シャワーの雨が、針のように頭を叩く。
熱いのか冷たいのか、皮膚の感覚が剥がれていく。
指に挟んだ剃刀の刃を、手首に置いた。
皮膚が薄い紙のように裂け、赤い線が浮かび、湯に溶けて滲む。
血が床に滴るたび、あの「03:46」が頭の裏で明滅する。
弄ばれたあの刻の数字が、消えず、剥がれず、いつまでも脳にこびりついている。
「エヒッ……」
視界がにじむ。
湯気と血の色が重なって、タイルの線がぐにゃりと曲がる。
鏡の口が大きく開き、私の顔を丸ごと呑み込もうとする。
湯と血が混ざり合い、床のタイルが花弁のようにぱっくり開いた。
穴。穴。穴。
──そのとき。
脳髄に声が降りた。
『汝、叶匣と申すもののえらびたまへり。
絶望にて呼応せし者、今より此の遊戯に参加するべし──』
言葉は紙片となって視界に貼りつき、瞬時に脳裡へ溶け込む。理解は意志を経ずして降り、胸中の穴が一つ、また一つと膨らんでいった。
──その瞬間、現実が裂けた。
◆過去現在未来の交差点/今でもあり昨日でもあり那由多の未来でもあるとき
すべてに繋がりどこにも行けない場所
湯気は銀紙の帯になり、血の滴は小さな万華鏡の核となり、浴室という四角い箱は指先でつまんだゼラチンのように歪む。色彩が折り重なり、時間がひとつの音符を引き伸ばすように伸び縮みする。
床のタイルは鱗となって天空へ舞い上がり、天井の蛍光灯は裂けて花弁を撒き散らす。私の身体は湯流れとともに薄紙のように剥がれ、浮遊する。重力が笑い、呼吸が絵の具に変わる。
音は消え、代わりに色が声を出す。赤が喋り、青が嘆き、黄がささやき、黒が拍手を始める。無数の光の欠片が、万華鏡状に噛み合い、解け、また結びつく。その中心に、私の顔が何度も反転して現れる──泣く顔、嗤う顔、穴だけの顔。
視界はパンチ穴のように穿たれ、穿たれた穴の向こう側から別の光景が覗く。そこは浴室の残影でもなく、町のどこでもなく、時刻表も住所も意味をなさぬ「狭間」。空間は鏡の屑を糸で繋いだように、雑多で規則的で、狂っていて清らかだった。
吸い込まれる。いや、選ばれたのだ。声が言った通り、私は既にその名を冠している。
そして──色の竜巻の中心で、声は、さらに畳みかけるように語った。
古い韻律が、万華鏡の裂け目から滴り落ちる。
『聴けや、われは叶匣なり。汝の絶望に応へ、汝を一の遊戯の主に召さん。其の理を以て、次のことを宣す』
言葉は容赦なく続いた。語尾が古語の衣に包まれていても、意味は明瞭に脳裡へ注ぎ込まれる。説明は長く、細密で、呪いのように正確だった。
『さかしまの遊戯には八人の者、すなはち八柱の『祈る者』あり。汝はその一なり。されど、仕組みは単純にして残忍。
一、勝利は一つ、最後に残れる者のみが得らる。其の者は願ひを一つかなふべし。
二、敗北とは、すなはち肉の滅びか、さもなくば戦のこころの悉く消え失せたることを言ふなり。
三、棄権は許されど、必ずや代償を伴ふ。
四、各々に異能を与ふ。異能は汝の志向と絶望に応じて形を取り、汝の願ひの器となるべし。
五、勝つべく望むならば、他の七を排ひし、或は其等の戦意を悉く奪ひて、己の残存を確定せよ。
六、異能は人為らざる力なり。
されば凡俗の目には映らず、ただ祈る者どうしのみ、互ひの身より湧き出づる靄にて識り合ふ。
靄は呪いの証しにして、影のやうに揺らぎ、煙のやうにまとひ、触れぬ者には見えぬものなり。
七、最後に残れるものは、如何なる願ひも請ふことを得べし』
声は語りながら、実際に事を示した。色彩が図示となり、箇条が万華鏡の面に浮かび、番号がひとつひとつ指差される。
『汝の異能は”穴”と名付くべし。其の理は次の通りなり
《穴》の性。
一、触れた対象に拳大の孔を生じし、其孔は瞬きの間に増殖し、対象を全体として消失せしめる。
二、対象とは生体のみならず、装具に至るまで含む。痕跡は残らず、存在は無に帰す。
三、起動条件は明確な殺意、すなはち『対象を消し去らんとする意志』に在り。意志の揺らぎは作動拒絶を招く。
四、起動せし《穴》は制御困難なり。増殖は漸進的且つ不可逆。停止は能はず。
されば、汝よ、己が願ひを睨め。何を消すか。何を残すか。其れに応じて世界は歪む』
言葉は脳裏で燃え広がり、白石の胸の穴をさらに拡げた。叶匣は淡々と、だが慈悲は無く、規則を述べた。欲しいものは与えるが、その器は刃だ、とでも言うように。
『汝の心に宿れる願ひを告げよ。祈りは我が実行を呼び、必ず叶ふ。だが、願ひは世界を汝に従わせん。深く思ひ定めよ』
唇が震え、湯の滴が顎から床へ垂れる。
頭の中で万華鏡は、まるで寄せては返す海のように形を変え続ける。
心の穴が喚き、記憶の刺が溶け出す。
──心の奥底から湧き出す願いは、短かった。
子供のように厳密で、飢えた祈りの形だった。
「母さんも、やられたことも、私をいやらしい目でみる男も──私は私のいやなもの全部に消えてほしい」
言葉は紙を折るように簡潔だった。万華鏡の面がその音を受けて微細に振動した。叶匣は応えた。
『されば、汝に《穴》を授けむ。汝の願ひを器とし、汝の絶望を刃とす。されど、汝よ、忘るな──願ひを以て動くは己の手、代償は己の胸に刻まる』
声と共に、万華鏡の裂け目から滲み出したのは、色ではなく影だった。
赤や青の断片が次々と呑まれ、黒い靄が竜巻の芯でうごめく。
それは煙のようでいて、腐肉のにおいを孕み、耳を擦るざらついた囁きを放っていた。
伸びかけた指、歯列のような裂け目、眼窩に似た空洞──形は瞬時に崩れ、また生まれる。
存在そのものが「喰らうための器官」だけで構成されたかのようだった。
──呪い。
そうとしか、表現しようがないもの。
声は脳髄を爪で叩き割るように響き、靄は彩花の胸へ吸い込まれる。
骨の隙間にまで入り込み、血管の奥を這い、心臓を黒く染めた。
視界の中で色彩は潰れ、ただ黒の孔だけが増殖していく。
世界が穿たれ、花弁のように崩れて落ちていく。
瞬間、万華鏡の光は砕け、彩花は呪いの渦と一体となった。
◆202X年5月のはずの4月/思い出させないで
戻ってきた戻りたくなかった家の中
色と影と声の万華鏡がぱたりと閉じた。
目を開けると、そこはただの浴室。
タイルの目地は剥がれ、剃刀は床に落ち、湯気はまだ血と混ざっていた。
──夢? 今のが夢? 今が夢?
耳の奥にはまだ、古めかしい韻律が残響していた。
『──汝に《穴》を授けむ』
その言葉は消えず、胸の裏で黒い泡のように膨らんでいる。
ふらりと立ち上がったとき、玄関の扉が乱暴に開く音がした。
「……アヤちゃーん!お風呂ォ?……ママも一緒にはいっちゃおっかなあ」
酒に濡れた声。母だ。
頬は赤く、酒の匂いをまとってよろめきながら、湯気のこもる浴室へ入ってきた。
裸の母の姿が湯気に浮かぶ。
顔も、体も、首の小さなホクロの位置まで、私と同じだった。
──まるで、私自身が酔って笑っているみたいで。
その瞬間、胸の穴が脈打った。
ああ──母さん。
私を産んで、私を守らなかった母さん。
お父さんを捨てた母さん。
酔いの匂いと、呆れ声と、何度も積もった沈黙。
首筋に夥しくついたまぐわいの痕。
その全部が、今、靄のように視界に降り積もる。
黒い靄は母の輪郭を包み、輪郭は歪んで揺れる。
息をするたび、吐く息の中で「消えろ」と言葉にならない衝動が泡立つ。
皮膚が熱い。喉が勝手に震える。
──触れた。
母の肩に伸ばした指先から、黒い孔が咲いた。
拳大の孔が皮膚を呑み込み、瞬時に広がり、衣服ごと、髪ごと、存在を削り取る。
「……え、な、に……」
母の声は泡の破裂音に変わり、消えた。
血も肉も残らず、湯気の中にはただ、空いた空白だけが漂っていた。
私は立ち尽くす。
呆然と、でも安堵に似た震えが、胸の内側からじわじわと広がっていく。
浴室は静かだ。剃刀も、湯気も、母の匂いも消えて。
残ったものは、なにもない。
◆五月と六月のあいだ/秒針が逆立ちし日々
三百三番目の穴の中の檻
母の声が消えたあとの家は、からっぽの檻だった。
残ったのは濡れたタイル、血の滲みを吸った湯気、そして私の掌に染みついた黒い靄。
それからの日々は、時計の針が意味を失った。
朝も夜もなく、窓の外はいつも同じ灰色。
パンをちぎっても味はなく、テレビを点けても声は砂のざわめきに変わる。
私は床に横たわり、壁に耳を押しあて、聞こえもしない囁きに頷き続けていた。
スマホは何度も震えた。
画面に浮かぶのは、あの三人の名。
「集合」「来いよ」「動画マジでバラまくぞ」
着信音は溶けて、蝉の鳴き声の断末魔みたいに耳を掻きむしる。
私はただ布団に潜り込み、指先で電源を落とした。
穴。穴。穴。──読まずに沈めてしまえば、声も消える。
穴。穴。穴。
母の輪郭を喰ったあの孔は、瞼を閉じても明滅し、夢と現の境目を裂き続ける。
いつからか笑いがこぼれた。エヒ、エヒ。喉が裂けても、笑いだけは残る。
◆202X年6月26日 午前03時48分
富ノ森東町アパート 303号室 白石家
そして、ある朝。
唐突に、頭の中の霧が晴れた。
鏡のように澄んだ思考が、胸を満たす。
──そうだ。私を弄んだあの三人。消せばいい。
嫌なものは消せばいい。
母も、街も、記憶も、すべて穴に落とせばいい。
そして最後に、ゲームにも勝ってしまえばいい。
そうすれば、嫌なものは何も残らない。
エヒ、エヒ。笑いは今度こそ甘美な鐘の音になった。
私の中の穴が世界を照らす。
◆202X年6月29日 未明
富ノ森東町アパート 303号室 白石家
その日、大河内翔真はこの世界から消えた。
【白石のSNS DM送信履歴】
宛先: sho_ma_
送信日時: 6月29日 午前0:32
起きてたら今日親がいないから家に来て。
ひとりで来て。だいじょうぶ、すぐ終わるよ。




