Fragment:白石 彩花Ⅱ
──Side 富ノ森南学園 3-C 白石 彩花──
◆202X年2月14日午後5時12分
富ノ森東町アパート 303号室 白石家
私はいつも鏡に問う。
鏡は答えない。
鏡は、いつも返事を忘れている。
玄関から浴室へ向かう。
母の恋人の靴も気配ももうなかった。時計兎は逃げるのが早い。
床がひんやりと私の足裏を剥がす。サンダルのベルトの跡が踵に線を刻んでいて、絵本のページのようにめくれる。
血が小さな赤い地図になって、歩くたびに足跡を残す。
夜の駅前で撒いた地図は、今ここに集まっている。
シャワーをひねる。
水はまずい音で落ちて、湯気が鏡に絵を描く。
私はその絵を見ていると、いつの間にか顔がふるえる。
鏡の中の私は、いつも少しだけ違う顔をしている。
母の口紅と父の影が縫い合わされて、生き物でも死人でもないものが笑っている。
「鏡の国へようこそ」
──そんな声がどこかで鳴ったような気がした。
耳が、壁の向こうのページをめくる。ページは湿っていた。
匂いが匂いと混ざって、煙と鉄と塩と甘さが糸を作る。
私はその糸に首を通して、ゆっくりと首を絞められるような感覚を嗅いだ。
熱い。
冷たい。
水は嘘をつく。
肩に落ちる水滴が私の輪郭を溶かす。
目を閉じると、スマホの赤い点滅がまぶたの裏で踊る。
赤い点滅は私の心臓を撮っているらしい。
私はカメラに映る自分の胸の奥を見られている。
胸の奥が、観覧車のように回る。空は高く、星は冷たい、そして誰も私を拾わない。
鏡に顔を近づけると、ガラスは薄い氷のように喋り始める。
「きみは穴だね」
言葉は柔らかくて、でも爪みたいに刺さる。
穴。穴。そうだ、穴だ。
私の中にぽっかりと穴が開いて、どれだけ物を詰めても、詰めたものが落ちていくように消える。
穴は海のように広がって、岸がどこだか分からない。
湯が体を撫でるたび、体の表面と内側の境界が剥がれていく。
触れられた感覚が膜のように薄く裂ける。
痛みは透明で、音がない。誰かの笑い声が泡になって口の中で弾ける。
私はその泡を舐めてみる。塩の味の笑い。苦さをこねた飴。
飲み込むと胸の穴がまたひとつ、深くなる。
──Side白石彩花──
◆202X年2月14日午後8時31分
富ノ森東町アパート 303号室 白石家
気づいたら、私はもう部屋のなかにいた。
見知らぬ部屋。四角い壁に光が貼りついて、言葉が宙を泳いでいる。
でもそれは現実の部屋じゃない。私のスマホの中、勝手に作られた檻。
【グループDM「enjoyhole」】
sho_ma_:「ほら、アナカちゃん記念品w」
──添付ファイル:動画(0:27)
サムネが赤い目玉に見えた。私の首筋。笑う誰か。泣く私。揺れる私。涎を垂らす私。
絵本のページがぐちゃぐちゃに混ざって、ぐるぐる回る観覧車みたいに止まらない。
【グループDM「enjoyhole」】
renXXXX:「保存推奨w」
tkg_ka1to:「な?交渉材料」
泣くはずだった。泣き崩れて、壊れるはずだった。
けれど喉が違う音を吐いた。
「エヒッ」
声が勝手に飛び出して、壁にぶつかって砕ける。
おかしい。楽しい。まるでお茶会。
時計の針がくるくる踊って、紅茶のカップに落ちて沈んでいく。
私は嗤った。嗤いすぎて、肺が破れて、涙が滲んで、それでも嗤った。
床にスマホが落ちた。カチ、と音を立てて、秒針の足音が私を追いかけてくる。
tkg_ka1to:「消したきゃ、約束。三か月、俺らが呼んだら来い。全部終わったらな」
三か月。三か月。三か月。
その言葉は甘い飴玉に見えて、噛めば歯を砕く石だった。
だけど舐めるしかない。そうしなきゃ穴の中で消えてしまうから。
「三か月だけ……」
壁に呟く。壁は鏡で、鏡は穴で、穴は時計で、時計は止まらない。
「エヒヒヒヒ」
嗤いが転がる。止まらない。
涙と嗤いが混じって、頬を伝い、顎を濡らす。
穴だ。
私の中はもう穴だから。
動画なんて、私が穴だって証明書みたいなもの。
だから嗤える。
穴が嗤ってる。
◆202X年→2月25日?/針がどこかへ逃げた夜
富@?#町 アパート?303号室?(窓ガラスは笑う)
【グループDM「enjoyhole」】
sho_ma_:明日、駅前。21時。来いよw
──添付ファイル:動画(0:49)
renXXXX:持ち物は体力と笑顔で。
tkg_ka1to:映えるように頼むぜ。
位置と時間だけ。往復のホームと路地の暗がりと、決まった匂い。タバコとアルコールと古い靴の匂いが、通知音と一緒に私の胸に染み込む。
行けばスマホが赤く点滅して、私のことを写す。行かなければ、動画が拡散される──それだけの秤。三か月という数字は、飴玉みたいに舐めると歯が割れる。
初めのうちは、私の中で時間がふわりと飛んだ。夜風に足跡を消されながら、駅へ向かう自分を遠目で見る。足の皮が擦れて血の筋ができても、「大丈夫」と言われれば信じそうで、震えを承知で近づいた。
二度、三度、十度。回数はいつのまにか増え、日付はページの隅っこで薄れていった。私の体は、戻ってくるたびに境目を失った。浴室で水を浴びれば、外側と内側が溶けてしまいそうで、石鹸の泡で自分をこすり続けた。鏡に映る顔は毎回少しずつ剥がれて、黴のにおいがしみ込む絵みたいに変わっていった。
◆202X年 春のはじまりのくしゃみ/時刻は壊れたティーカップの底
☆学; 3-C教室? 机がぐるぐる回って黒板が沈む場所
【グループDM「enjoyhole」】
sho_ma_:「来いよ」
──添付ファイル:動画(1:12)
renXXXX:「保存推奨w」
tkg_ka1to:「穴の出番」
動画は彼らの通貨になった。
「消したきゃ三か月、来い」——最初に言われたとき、私はその言葉を砂糖と間違えた。
舐めたら歯が欠ける。けれど、舐めなければ穴の底に落ちてしまう。だから決めた。三か月だけ。洗濯物をたたむときも、授業中に黒板を眺めるときも、三か月という小さな約束を胸の中で手揉みしていた。終わったら消える、終わったら戻る——嘘のように祈った。
◆202X年? 3月の裏返った昼/いつまでも午前であり午後でない刻
浴室? 水の箱?(湯気が秒針をなめて消える場所)
約束。三か月だけ──という歌を私は毎晩歌った。
「三か月だけで、全部終わるんだよね」って、自分に向かって囁いた。
浴室の鑑は返事しない。けれど私の胸には小さな希望が一粒、ひっそりと置かれていた。それを舌で転がしながら、私はまた列車に乗った。
◆202×年 誕生日を忘れた日/零時と二十四時が握手した刻
303号室? ベッド? 沈む床?(枕が呼吸を数えてる)
誕生日は呪い。
母の顔が皮膚に貼りついて、胸が重くなる日。
呼び出しは鐘。
スマホが鳴るたび、穴に沈めと命じられる。
エヒッ。
鐘が鳴る。
◆202X年 3月と4月のあいだの穴/音もなく針が止まったとき
陶器の口(白い怪物が飲み込む場所)
遅刻していた赤が来た。よかったまだ中は空っぽ。
痛みはある。血もある。だから大丈夫、だからまだ“母”じゃない。
鉄の匂いが鼻に満ちて、安堵が喉を塞いだ。笑いと涙が同じ色で落ちた。
◆202X年4月のうしろめたい晴れの日/針が嘘を吐いた刻
アート死ネマ 天井に穴の開いた回廊(フィルムの爪音)
その日、もう何度目か分からない揺さぶりに、私の身体はティーカップの中で何度も転がされていた。
髪を乱され、顎を引かれ、息は小さな箱に押し込まれた。
指先が鎖骨をたどるたびに、世界の縁がぎゅっと歪む。
「昨日さ、ミスって裏垢に動画あげちまった」
──その声が落ちた瞬間、世界にヒビが走った。
スクリーンがぱっくり割れて、
トランプ兵の顔が三つに裂け、
白兎の耳が床に落ちる。
03:46。03:46。03:46。
「モザあるし平気だって」
その軽さがティースプーンになって、
私の眼窩をカリカリと掻き混ぜる。
嗤いが泡になり、紅茶に溶けて。
「エヒヒッ」
笑ったのは私か、穴か。
観客席はトランプ兵で満ち、
みんな同じ顔で、みんな同じ声で、「首をはねろ」と合唱した。
嗤うのは私? 穴? 女王? それとも時計兎?
ティーカップが回る。
椅子が逆さまにぶら下がる。
帽子屋が「おかわりどうぞ」と言って、私の涙をポットに注ぐ。
時間は03:46で止まったまま。
でも時計は「03:47だよ」と囁く。
針が嘘を吐いて、鏡が拍手した。
スクリーンの女王が笑いながら、指を鳴らす。
世界が割れた。
私は落ちた。
落ちた穴の底で、やっと気づいた。
──私はアリスじゃなくて、穴そのものだった。
【302号室の住人が聞こえた歌】
さんかげつで
さんかげつだけ やくそく
さんかげつで おわるんだよね
おわるよね




