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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第壹章;アリスはもう穴の中──

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Fragment:白石 彩花Ⅰ

──Side 富ノ森(とみのもり)南学園 3-C 白石(しらいし)彩花(あやか)──


 ──母は、よく笑う人だった。

 夜でも、朝でも、男と一緒なら大声で笑った。

 赤い口紅、甘い香水、アルコールで潰れた声。

 男が変わっても、笑いは変わらなかった。


 私は笑えなかった。

 母に捨てられてしまった父に似たから。

 真面目で、不器用で、暗くて、つまらない。

 母にとって私は、面倒な家具みたいに置き去りにされる存在だった。

 母が私を見る目は、倉庫の曇ったガラスを覗くように冷たかった。


 だけど、顔も身体も母に似た。

 誕生日を迎えるたびに、少しずつ。

 白い肌は透けるように光を弾き、男の眼球を吸い込んだ。

 細い腰は歩くだけで揺れて、後ろからの視線がぴたりと貼りついた。

 胸が大きく重たくなっていく。

 外を出歩くたび、肌に舌を這わせるような目線がまとわりついて、肺を掻きむしった。

 長いまつげが影を落とすたび、鏡の中の自分が母に重なる。

 唇の厚み。髪の艶。指先の細さ。首元の小さなホクロも、母と同じ位置にある。

 母と同じ、男を惹きつける「部品」が、私の身体に順々に組み上げられていった。


 母の中身は受け継げなかった。

 母の明るさも、母の図太さも、母の自由も。

 気づけば、父の暗さがこの器に居座っているだけの不完全なコピー。


 鏡を見るたび、吐き気がする。

 母の器に父の影を縫い付けたような自分。

 誕生日が来るたび、もっと自分が憎くなる。


 母との思い出に、いい思い出と呼べるものはないと思う。

 唯一嫌いではなかった時間は、幼い時に不思議の国のアリスを一緒に読んだこと。


◆202X年2月14日午前0時58分

富ノ森東町アパート 303号室 白石家


 玄関の時計の針が夜を這いずる音を、私は今でも忘れられない。


 母の恋人のひとりが、家にいた。

 焼酎とタバコの混ざった匂いが、狭い居間を満たしていた。

 母はどこか別の男の家へ泊まりに行っていて、男だけがソファに腰を沈めていた。


「なあ……似てるよな、彩花ちゃん」

 酔った舌が、臭気を孕んで私の頬をなぞったような気がした。

「若いぶん、あいつより……ずっといい」

 母と同じ顔。母と同じ体。

 母の代わりにされている。

 男の目は、私の胸に貼りついて離れなかった。


 腕を掴まれる。熱が移る。爪が食い込む。

 酒と煙草の匂いが皮膚に染みつき、肺の奥にまで侵入してきた。

 アルコールの湿った吐息が首筋を濡らし、骨の芯まで凍りついた。


 私は振り払った。乱暴に、必死に。

 玄関を突き破る勢いで飛び出した。


 咄嗟に履いたサンダルのベルトが踵を擦り、すぐに血がにじんだ。

 夜風は氷の刃だった。肺の奥にまで突き刺さった。

 それでも止まらなかった。その夜家に戻ることだけは、もうできなかった。


 空を仰ぐと、冬の星々が澄み渡っていた。

 高く、遠く、冷たく、美しかった。

 私の恐怖も屈辱も、何一つ照らすことはなかった。


◆202X年2月14日午前1時11分

富ノ森(とみのもり)駅前廃映画館前


 夜の道を、ただがむしゃらに走った。

 サンダルのベルトが擦れ、踵に赤い線を刻みつける。

 痛みは熱に変わり、足跡のひとつひとつに血が混じっていく。


 駅前に飛び込んだ。

 昼間はまだ人が歩いている場所なのに、夜は空っぽだった。

 光だけが残っていた。

 黄ばんだ街灯──古い蛍光灯がチカチカと瞬き、ジジ、と軋む音が耳にまとわりつく。

 自販機のモーター音が腹の奥に響き、冷たい風と混ざって鉄と埃の匂いを運んできた。

 吐いた息がすぐに白く凍る。胸が痛い。二月の夜気が、骨まで噛み砕いてくる。


 だからこそ、笑い声が響いたとき、心臓が跳ねた。

 街灯の下に三つの影。制服を着崩した男たちが、コンビニ袋を片手にふらついていた。

 酒の甘ったるい匂いが、凍った空気にべたりと張りついている。

 私の足音に気づき、彼らの目がこちらを向いた。


「おい、あれ……クラスの……白坂?いやちがうな、白石(しらいし)!」

「地味巨乳じゃん」

「マジで? 夜にひとり歩きとか、ご馳走だろ」


「なにしてんの?」

 足を止める間もなく、腕をつかまれた。汗ばんだ指が、私の皮膚に食い込む。

「血、出てんじゃん。ほら、足」

 にやりと笑いながら、ひとりが私の足元を指差した。血がサンダルの縁を汚し、赤黒く滲んでいる。

「やばいな、それ。ほっといたら歩けなくなるぜ。手当てしてやるよ」

「ほら、すぐそこ。ちょうどいい場所あるから」


 抵抗の言葉は喉で潰れた。爪痕の痛みと血のぬめりが、逃げ道を塞ぐ。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと休めばいいだけだから」

 笑い声が左右からかぶさる。

 肩を押され、背中を引かれ、私は歩道の外へと誘導されていった。


 廃映画館。

 錆びた看板が夜気に軋み、剥がれたポスターがひらひらと揺れている。

「ここなら人来ねえし、ゆっくりできるだろ」

 埃の匂いが鼻腔に絡みついた。


 肩を押され、腕を強く引かれる。

 錆びたシャッターの隙間から、湿った空気が吹きつけてきた。

 埃とカビの匂いが喉にまとわりつき、息が詰まる。

 背中に夜風、顔に闇。境界を越える足が、血でぬめり、もつれそうになる。

 逃げなきゃと頭で叫んでも、身体は引きずられるまま。

 笑い声が背後から重なり、私の中の何かが凍りついていった。


◆202X年2月14日午前1時18分

富ノ森(とみのもり)市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟


◆202X年2月14日午前1時57分

富ノ森(とみのもり)市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟


◆202X年2月14日午前2時19分

富ノ森(とみのもり)市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟


◆202X年2月14日午前2時58分

富ノ森(とみのもり)市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟


◆202X年2月14日午前3時46分

富ノ森(とみのもり)市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟


 暗闇に閉じ込められて、何時間経ったのか。

 時計を見なくても、皮膚が覚えている。

 血のにじみは乾いて再び裂け、冷えた汗は塩を吹き、呼吸は砂を呑んだように荒れていた。


「ほら、映ってんぞ」

 誰かが笑いながら、私の顔の前にスマホを突き出した。

 黒い画面に、私の歪んだ姿と、左上の数字が映り込んでいた。


 03:46。


 ……秒針が笑ってる。

 壁なんてないのに、ずっと「カチ、カチ」って私の骨を叩いている。


 03:46。


 耳の奥にその数字が釘みたいに打ち込まれて、抜けなくなった。


 熱い吐息が頬に落ちて、氷みたいに冷たかった。

 煙草の匂いは鉄に変わり、鉄の匂いは舌に刺さって、血の味になった。

 嗅いでるのか、舐めてるのか、もう分からない。


 体が揺れる。揺らされる。揺れている。

 上下が何度も裏返って、天井と床が溶け合った。

 壁に擦れる音が、皮膚の内側で鳴っている。

 背中が砕けた気がしても、次の瞬間にはまだ繋がっている。

 壊れても、すぐ繋ぎ直されて、また壊される。


 赤い光。

 レンズの点滅がまぶたの裏に焼き付いて、まるで私の心臓を撮っているみたいに打ち続ける。


 笑い声。アルコール。鼻の奥が焼ける。

 耳元で囁く声が誰のものか分からない。

「俺」? 「次」? 何度も聞いた。何巡目か分からない。

 もしかしたら最初から同じ言葉を繰り返してるだけで、時間なんて進んでないのかもしれない。

 声の入れ替わりと一緒に脈が狂って、視界がぶれる。


 03:46。


 03:46。


 03:46。


 針は進まない。私だけが崩れていく。


 寒いのに、熱い。

 冷たいのに、汗が溶ける。

 温度の境目が裏返って、皮膚の内側と外側がひっくり返ったみたいだった。


 笑い声が耳を裂いて、裂け目から別の匂いが入り込む。

 息を吸うたび、アルコールが涙になり、涙が耳の奥で泡立っていく。

 泣いてるのか笑ってるのか、自分でもわからない。


 時間だけが、ずっと止まっていた。

 永遠の03:46。


 壊れたまま、針の音だけが私を刻み続ける。

 03:46に閉じ込められたまま、終わりは訪れなかった。

【白石 SNS非公開アカウント投稿ログ】

アカウント:@ayk__private(フォロワー0)


202X年2月14日 04:42

 消えて

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― 新着の感想 ―
まだ途中までしか読めていませんが (闇落ちした?)白石さんの今後が気になります。 能力的に最強に思えますが、 それを上回る能力持ちとか出てくるんでしょうかね。
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