Fragment:白石 彩花Ⅰ
──Side 富ノ森南学園 3-C 白石彩花──
──母は、よく笑う人だった。
夜でも、朝でも、男と一緒なら大声で笑った。
赤い口紅、甘い香水、アルコールで潰れた声。
男が変わっても、笑いは変わらなかった。
私は笑えなかった。
母に捨てられてしまった父に似たから。
真面目で、不器用で、暗くて、つまらない。
母にとって私は、面倒な家具みたいに置き去りにされる存在だった。
母が私を見る目は、倉庫の曇ったガラスを覗くように冷たかった。
だけど、顔も身体も母に似た。
誕生日を迎えるたびに、少しずつ。
白い肌は透けるように光を弾き、男の眼球を吸い込んだ。
細い腰は歩くだけで揺れて、後ろからの視線がぴたりと貼りついた。
胸が大きく重たくなっていく。
外を出歩くたび、肌に舌を這わせるような目線がまとわりついて、肺を掻きむしった。
長いまつげが影を落とすたび、鏡の中の自分が母に重なる。
唇の厚み。髪の艶。指先の細さ。首元の小さなホクロも、母と同じ位置にある。
母と同じ、男を惹きつける「部品」が、私の身体に順々に組み上げられていった。
母の中身は受け継げなかった。
母の明るさも、母の図太さも、母の自由も。
気づけば、父の暗さがこの器に居座っているだけの不完全なコピー。
鏡を見るたび、吐き気がする。
母の器に父の影を縫い付けたような自分。
誕生日が来るたび、もっと自分が憎くなる。
母との思い出に、いい思い出と呼べるものはないと思う。
唯一嫌いではなかった時間は、幼い時に不思議の国のアリスを一緒に読んだこと。
◆202X年2月14日午前0時58分
富ノ森東町アパート 303号室 白石家
玄関の時計の針が夜を這いずる音を、私は今でも忘れられない。
母の恋人のひとりが、家にいた。
焼酎とタバコの混ざった匂いが、狭い居間を満たしていた。
母はどこか別の男の家へ泊まりに行っていて、男だけがソファに腰を沈めていた。
「なあ……似てるよな、彩花ちゃん」
酔った舌が、臭気を孕んで私の頬をなぞったような気がした。
「若いぶん、あいつより……ずっといい」
母と同じ顔。母と同じ体。
母の代わりにされている。
男の目は、私の胸に貼りついて離れなかった。
腕を掴まれる。熱が移る。爪が食い込む。
酒と煙草の匂いが皮膚に染みつき、肺の奥にまで侵入してきた。
アルコールの湿った吐息が首筋を濡らし、骨の芯まで凍りついた。
私は振り払った。乱暴に、必死に。
玄関を突き破る勢いで飛び出した。
咄嗟に履いたサンダルのベルトが踵を擦り、すぐに血がにじんだ。
夜風は氷の刃だった。肺の奥にまで突き刺さった。
それでも止まらなかった。その夜家に戻ることだけは、もうできなかった。
空を仰ぐと、冬の星々が澄み渡っていた。
高く、遠く、冷たく、美しかった。
私の恐怖も屈辱も、何一つ照らすことはなかった。
◆202X年2月14日午前1時11分
富ノ森駅前廃映画館前
夜の道を、ただがむしゃらに走った。
サンダルのベルトが擦れ、踵に赤い線を刻みつける。
痛みは熱に変わり、足跡のひとつひとつに血が混じっていく。
駅前に飛び込んだ。
昼間はまだ人が歩いている場所なのに、夜は空っぽだった。
光だけが残っていた。
黄ばんだ街灯──古い蛍光灯がチカチカと瞬き、ジジ、と軋む音が耳にまとわりつく。
自販機のモーター音が腹の奥に響き、冷たい風と混ざって鉄と埃の匂いを運んできた。
吐いた息がすぐに白く凍る。胸が痛い。二月の夜気が、骨まで噛み砕いてくる。
だからこそ、笑い声が響いたとき、心臓が跳ねた。
街灯の下に三つの影。制服を着崩した男たちが、コンビニ袋を片手にふらついていた。
酒の甘ったるい匂いが、凍った空気にべたりと張りついている。
私の足音に気づき、彼らの目がこちらを向いた。
「おい、あれ……クラスの……白坂?いやちがうな、白石!」
「地味巨乳じゃん」
「マジで? 夜にひとり歩きとか、ご馳走だろ」
「なにしてんの?」
足を止める間もなく、腕をつかまれた。汗ばんだ指が、私の皮膚に食い込む。
「血、出てんじゃん。ほら、足」
にやりと笑いながら、ひとりが私の足元を指差した。血がサンダルの縁を汚し、赤黒く滲んでいる。
「やばいな、それ。ほっといたら歩けなくなるぜ。手当てしてやるよ」
「ほら、すぐそこ。ちょうどいい場所あるから」
抵抗の言葉は喉で潰れた。爪痕の痛みと血のぬめりが、逃げ道を塞ぐ。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと休めばいいだけだから」
笑い声が左右からかぶさる。
肩を押され、背中を引かれ、私は歩道の外へと誘導されていった。
廃映画館。
錆びた看板が夜気に軋み、剥がれたポスターがひらひらと揺れている。
「ここなら人来ねえし、ゆっくりできるだろ」
埃の匂いが鼻腔に絡みついた。
肩を押され、腕を強く引かれる。
錆びたシャッターの隙間から、湿った空気が吹きつけてきた。
埃とカビの匂いが喉にまとわりつき、息が詰まる。
背中に夜風、顔に闇。境界を越える足が、血でぬめり、もつれそうになる。
逃げなきゃと頭で叫んでも、身体は引きずられるまま。
笑い声が背後から重なり、私の中の何かが凍りついていった。
◆202X年2月14日午前1時18分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟
◆202X年2月14日午前1時57分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟
◆202X年2月14日午前2時19分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟
◆202X年2月14日午前2時58分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟
◆202X年2月14日午前3時46分
富ノ森市・旧映画館《アートシネマ富ノ森とみのもり》廃墟
暗闇に閉じ込められて、何時間経ったのか。
時計を見なくても、皮膚が覚えている。
血のにじみは乾いて再び裂け、冷えた汗は塩を吹き、呼吸は砂を呑んだように荒れていた。
「ほら、映ってんぞ」
誰かが笑いながら、私の顔の前にスマホを突き出した。
黒い画面に、私の歪んだ姿と、左上の数字が映り込んでいた。
03:46。
……秒針が笑ってる。
壁なんてないのに、ずっと「カチ、カチ」って私の骨を叩いている。
03:46。
耳の奥にその数字が釘みたいに打ち込まれて、抜けなくなった。
熱い吐息が頬に落ちて、氷みたいに冷たかった。
煙草の匂いは鉄に変わり、鉄の匂いは舌に刺さって、血の味になった。
嗅いでるのか、舐めてるのか、もう分からない。
体が揺れる。揺らされる。揺れている。
上下が何度も裏返って、天井と床が溶け合った。
壁に擦れる音が、皮膚の内側で鳴っている。
背中が砕けた気がしても、次の瞬間にはまだ繋がっている。
壊れても、すぐ繋ぎ直されて、また壊される。
赤い光。
レンズの点滅がまぶたの裏に焼き付いて、まるで私の心臓を撮っているみたいに打ち続ける。
笑い声。アルコール。鼻の奥が焼ける。
耳元で囁く声が誰のものか分からない。
「俺」? 「次」? 何度も聞いた。何巡目か分からない。
もしかしたら最初から同じ言葉を繰り返してるだけで、時間なんて進んでないのかもしれない。
声の入れ替わりと一緒に脈が狂って、視界がぶれる。
03:46。
03:46。
03:46。
針は進まない。私だけが崩れていく。
寒いのに、熱い。
冷たいのに、汗が溶ける。
温度の境目が裏返って、皮膚の内側と外側がひっくり返ったみたいだった。
笑い声が耳を裂いて、裂け目から別の匂いが入り込む。
息を吸うたび、アルコールが涙になり、涙が耳の奥で泡立っていく。
泣いてるのか笑ってるのか、自分でもわからない。
時間だけが、ずっと止まっていた。
永遠の03:46。
壊れたまま、針の音だけが私を刻み続ける。
03:46に閉じ込められたまま、終わりは訪れなかった。
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202X年2月14日 04:42
消えて




