File2:飲食店内不審死事件 202X年5月16日
本作品は演出の都合上、物語世界の時系列順にエピソードを公開しているわけではありません。
また視点や場面が目まぐるしく変わる手法を採用しております。
本作品を御覧いただく際には、視線の主、日付、ロケーションを本文内に掲記しておりますので、こちらを注意深くご覧いただけるとより楽しんでいただけるかと存じます。
──Side 富ノ森署 捜査一課 警部補 森崎 達也──
202X年5月16日 午後1時20分 カフェ・リュミエール
店のドアを押した瞬間、空気の重さに喉が詰まった。冷房の風は確かに頬を撫でているのに、熱を孕んだ湿気が皮膚にまとわりついてくる。外の陽射しがガラス張りの壁から突き刺さり、白い床とテーブルを灼きつけていた。
その白の中に、唐突な「黒」が転がっていた。
遺体だ。
胸は潰れ、顔は判別できないほど歪み、喉から吹き上がった血が床に広がり、まだ乾かない。鉄の匂いが強すぎて舌の奥に金属の粉をまぶされたような味が残る。呼吸をするたび肺の奥がざらついた。
しかし異様なのは、それが「一点」にしか存在しないことだった。
机の上のカップは震えもせず、半分残ったコーヒーの液面が蛍光灯の光を返している。フォークに刺さったままのパンの切れ端は、今すぐ齧れるように湿ったまま。スマートフォンの画面は通知を弾ませ、機械的な音をこの静止した空間に投げ込んでいる。
ガラスも食器も食卓も息をひそめて無傷のまま。そこだけ別の映画のコマが重ね貼りされたみたいに、この仏さんだけが平べったく凹んでいる。
力は確かに通ったのに、通り道だけが世界から消されていた。
近づくと、靴先のすぐ目の前で血が黒光りしていた。
あと半歩踏み込めば、革靴はたちまち染みを吸っただろう。踏み入れてはいないのに、鉄の匂いが足裏にまで張り付き、脛の奥に冷たい感覚が這い上がってくる錯覚があった。
俺は唇を噛み、視線を遺体から逸らそうとしたが、目の端にこびりついて離れない。
改めて仏さんの様子を見る。
スーツはくたびれて皺だらけ。ポケットから出てきた財布は革がひび割れ、手の中で汗に濡れたように湿っていた。
免許証に記された名前――佐伯充、三十六歳。
顔写真の疲れ切った目が、今の潰れた肉の影と重なり、吐き気を伴う違和感を背骨に這わせた。
さらに財布に挟まれていた紙片。薄い封筒には督促状の印字、雑なメモには「返済」「廃業」「娘」と殴り書きがある。細部を読むまでもなく、生活に押し潰されかけていた痕跡が伝わった。
鉄の匂いはさらに濃くなり、呼吸と同時に体内へ押し込まれる。耳の奥では、誰かの息を呑む音がやけに大きく響く。静寂は静寂ではなく、何もない音の中にざわざわとした震えがある。
視線を外へ投げる。
ガラス越しに外を見れば、交差点中央に大型トラックが斜めに止まっていた。
フロント部分は鋼の箱を無理やり握り潰したように歪み、バンパーは折れ曲がって路面に擦りつけられ、ヘッドライトは砕けてガラス片が陽光に鈍く光っている。ラジエーターからは白煙が絶え間なく吹き出し、焼けた金属とオイルの臭いがガラス越しにも漂ってきそうだった。
当該トラックから店内の仏さんまでの距離は、およそ三十五メートル。
交差点の中央から、ガラス張りの壁までは一直線だが、間に遮蔽物もなく、突入すれば店ごと粉砕されていたはずの距離だ。
だがガラスは一枚も割れていない。店内の家具も無傷。にもかかわらず、この遺体だけが「轢かれた」ように胸を潰し、死んでいる。
耳に残るのは、客席に取り残された人々の震える声。
「いきなり椅子ごと浮いて……」
「何かにぶつかったみたいに、でも何も……」
「気付いたらもう潰されたみたいな……」
断片的で、しかしどれも同じ「衝突」の感覚を示している。
俺は呼吸を浅くし、胃の奥の重さを押し殺すようにして立ち上がった。十五年刑事をやってきて、飛び降りも、焼死も、腐乱も見てきた。だがこれは違う。
筋道がない。
事故と死が同時にここにありながら、その間をつなぐ線だけが世界から消えている。
胸ポケットの中で手帳が重たく感じられた。
ペン先が震え、書き込んだ文字はただ一つ――「理解不能」。
冷房の風が首筋を撫でる。
だが額から垂れる汗は止まらない。
視界の端で血の艶がまだ呼吸をしているように見えた。ガラス越しに揺れる陽炎を睨みながら、俺は手帳を握りしめ、思わず呟いた。
「……月曜の通り魔事件といい、いったい何がどうなってんだ」
ただそれだけを吐き出し、現場に立ち尽くすしかなかった。
【2025/09/18追記】
ご覧いただきありがとうございます。
まさかの公開から1日と13時間で、日間ランキング ローファンタジー連載中部門65位にランクインすることができました。
これもひとえに、拙作をご覧いただいた皆様のおかげです。心から感謝申し上げます。
この作品は13年ぶりの復帰作で、皆様からの評価や感想が何よりの執筆モチベーションとなります。
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次回の更新もお楽しみに。