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透明な傘

作者: 宵町あかり

# 透明な傘(最終調整版v3.0+)


## 第一章 見えない存在


梅雨の最中だった。

毎朝の通学路が、濡れた石畳に変わっていた。


私は傘を持たない。

雨に濡れることが、心地よいから。

濡れていれば、透明な自分が少しだけ見えるような気がした。


その朝も、小ぶりの雨が頬を叩いていた。

歩道橋の上で、私は足を止めた。


透明な傘。


下を歩く少女が差していたのは、完全に透明な傘だった。

ビニール傘とは違う。まるで、雨粒が空中で止まっているように見えた。


少女は振り返った。

私と目が合う。


彼女は微笑まなかった。

ただ、じっと私を見上げていた。

その目は、雨粒のように透明で、瞳孔が見えなかった。


雨が強くなった。

私の髪から、水滴が頬を伝う。


少女は歩き続ける。

透明な傘が、雨を弾いているようには見えなかった。


むしろ雨が、傘を通り抜けているような。

それでも彼女は、濡れていなかった。

肌も、髪も、服も。まるで水を拒絶するように。


私は歩道橋を降りて、彼女の後を追った。

足音が、雨音に混じって響く。


通りすがりの人々が、少女を見ていなかった。

傘を差した女子高生、スーツの男性、犬を連れた老人。

誰も彼女を認識していない。


角を曲がると、少女は立ち止まっていた。

水たまりの前で。


透明な傘を閉じて、彼女は振り返る。

「あなたにも見えるのね」

唇が、はっきりと動いた。


声は雨音にかき消されそうになったが、確かに聞こえた。

私の心の奥底に響く、氷のような声。


「私も透明だから」

彼女が言った。

「忘れられた人だから」

「昔、ここで溺れた子だから」


最後の一言が、雨音の中で震えた。


## 第二章 忘却の水たまり


次の日。雨は上がっていた。

青空が、まぶしく光っている。


それでも少女は、透明な傘を差していた。


私は声をかけようとした。

しかし足が、動かない。

昨日の言葉が、頭の中で響いていた。


「溺れた子」


少女は今日も、同じ場所で立ち止まった。

水たまりは、昨日より小さくなっている。


傘を閉じる。

少女の足が、水たまりに踏み入る。


膝まで。腰まで。

浅い水たまりが、彼女の体を飲み込んでいく。


私は走った。

けれど間に合わない。


少女は振り返った。

水面から首だけを出して、私に微笑みかけた。

初めて見た、彼女の笑顔。

それは美しくて、恐ろしかった。


「一緒に来て」

水の中から、声が響く。

「ここでは、誰も忘れない」


「待って」と叫んだ。

声が、空気を震わせる。


次の瞬間、少女は消えていた。

水たまりには、透明な傘だけが浮いていた。


私は傘を拾い上げた。

濡れた手に、冷たい感触。


透明な傘は、軽かった。

まるで存在していないように。


家に帰って、母に話した。

「透明な傘を差した少女を見た」と。


母は私を見なかった。

テレビを見たまま、首を振った。

「そんな子、知らない」


母の目は、私を素通りしていた。

まるで私が、そこにいないように。


友人に話した。

「きっと見間違いよ」と笑われた。

でも友人も、私の顔を見ていなかった。


誰も私を見ていない。

いつからだろう。

私は、いつから透明になったのだろう。


その夜、透明な傘を部屋に置いた。

月明かりが、傘を通り抜けて床を照らした。


傘は存在していた。

確かに、ここにある。

私よりも、確実に。


鏡を見た。

薄っすらと、輪郭が見える。

でも誰も、私を認識してくれない。


私は忘れられていた。

生きているのに、存在していないように。


## 第三章 透明な世界


一週間が過ぎた。

雨の日が続いている。


私は透明な傘を持って、あの場所に立った。

水たまりが、足元で静かに揺れている。


傘を開く。

雨粒が、透明な面に当たる。


いや、当たっていなかった。

雨は傘を通り抜けて、私を濡らしていく。


水たまりを見つめた。

底が見えない。

まるで深い湖のように、暗く静かだった。


「そこは忘却の水」

振り返ると、少女が立っていた。

透明な体で、雨に濡れることなく。


「入れば、すべてを忘れる」

少女が言った。

「でも、忘れられることもなくなる」


私は理解した。

この水たまりは、別の世界への入口。

透明な存在たちが住む、忘却の世界への。


「私は、もうずっと透明だった」

つぶやいた。

「誰にも見てもらえない存在として」


少女が頷いた。

「だから、あなたにだけ見えた」

「同じ透明な存在だから」


水たまりに足を踏み入れた。

冷たい水が、靴の中に染み込む。


一歩、また一歩。

水が、膝まで来た。


振り返ると、通りすがりの人々が歩いていた。

けれど誰も、私を見ていない。

誰も、止めようとしない。


私は、最初から見えていなかった。


水が腰まで来た時、気づいた。

私は完全に透明になっている。

でも、それでよかった。


水たまりの底は、思ったより深かった。

光が、水面から遠ざかっていく。

底から、無数の声が聞こえてくる。

「一人じゃない」「一人じゃない」と。


息を止めて、私は沈んでいく。


水が喉を締める。

目が、開かない。


でも、怖くなかった。


透明な傘が、手から離れていった。


水の中で、少女が待っていた。

他にも、透明な人たちがいた。

子どもも、大人も、老人も。

みんな忘れられた人たち。


「仲間がいる」

無数の声が、水の中で響いた。


少女は微笑んで、私の手を取った。

「ようこそ」

今度は、声がはっきりと聞こえた。


私たちは、水の底で手を繋いだ。

雨音が、遠くで響いている。

でも、もう聞こえなくなった。


水面を見上げた。

透明な傘が浮いている。

いくつもの傘が、雨を通り抜けている。


私の傘も、そこに加わった。


「次の人を待つの」

少女が言った。

「透明な人を」


私は頷いた。

忘れられた存在として生きるより、

忘却の世界で存在する方がいい。


私たちは、雨の日にだけ現れる。

透明な傘を差した少女として。


新しい透明な人を、待っている。

水たまりの向こう側で。


見えない存在として苦しんでいる人を。

忘れられることに疲れた人を。


そんな人が水たまりを見つけた時、

私たちは微笑みかけるだろう。


「ここでは、忘れられない」

「ここでは、みんなが見える」


そう言って、手を差し伸べるだろう。


透明な世界で、


待っている。

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