契りは血に、父の名は風に
長く、苦しい訓練の日々、血の滲むような魔術の修行。
アーロンは、力を得ようとしたのではありません。
その過程で、誰かと繋がる感覚を知ったのです。
この章では、アーロンが初めて「誰かの子」として、立ち上がる物語です。
第7話:「木刀の音、ふたたび」
朝霧がまだ地を這う中、アーロンは一本の大樹の前に立っていた。
幹は三人がかりでも抱えきれないほど太く、その根元には、朝露を含んだ落ち葉と苔が柔らかく積もっている。
木刀を握る手は少し震えていた。
掌には水ぶくれと擦過傷。けれどそれは、昨日より「確かな痛み」に感じられた。
目の前には藁でできた人形が立っている。
竹を芯にして組まれた簡素なものだが、何度も振るった木刀の跡が、その胸元に重なっていた。
アーロンは一歩前へ出た。
湿った地面に足を置くと、朝露がくるぶしを撫で、冷たさが身体の奥を引き締めてくる。
ふと、上空で羽音が鳴った。
一羽の鳥が、大樹の枝から勢いよく飛び立つ。
枝葉が揺れ、葉陰から朝陽が斑に差し込んだ。
——その瞬間、アーロンの呼吸が静かに整う。
光と風の流れの中で、自分の存在が一つの流れに溶けたような気がした。
そのまま、木刀を構える。
肩に力は入っていない。ただ、風の中に刃を“通す”という感覚だけを信じていた。
鋭く振る。
——ギィンッ。
藁人形の胸に白い裂け目が走る。音が、昨日よりも深かった。
「……肩の力、抜けてきたな」
背後から聞き慣れた声がした。
振り向くと、アーデンが大樹の陰から現れていた。
黒衣をまとい、腕を組んで、じっとアーロンを見つめている。
「けど、まだ“打ち込んでる”だけだ。「預ける」んだ、刃を」
そう言いながら、足元の小枝を拾い、軽く振ってみせた。
力が抜けているのに、風の軌道だけがはっきりと見えるような動きだった。
「刃は、斬るんじゃない。通すんだ。「生きてる相手」になら、それがわかる時がくる」
アーロンは頷くと、再び構えを取る。
今度は深く踏み込み、腕の振りに余分な力を込めず、木刀を走らせる。
音が変わった。
藁の中心が、わずかにへこむ。
それを見て、アーデンの目が細められた。
微かな笑みにも見えたが、それは風のいたずらだったかもしれない。
「……どうして、教えてくれるの?」
問いが口をついて出た。自分でも、なぜ今それを訊いたのか、うまく説明できなかった。
アーデンは少しだけ目を伏せ、そして静かに言った。
「お前が、「ここ」に戻ってきたからだ。……そしてたぶん、おれ自身も……」
言葉はそこで途切れた。
けれど、その余白にこそ、本当に言いたかった何かが宿っていた。
アーロンは、木刀を見つめた。
それは、今の自分の“証”だった。
もう一度、振る。
その音が、かすかに風を切って響いた。
第8話:「継承の廟、名の刻まれる夜」
夜の冷気が濃くなったころ、アーロンはアーデンに連れられ、母屋の縁側を静かに歩いていた。
薪の匂いと、どこか甘やかな乾草の香りが、月の光と共に流れてくる。
母屋の奥、板張りの廊下を抜けた先——そこには、外からでは見えぬ離れがあった。
林に隠れるように建てられたその小さな建物は、風雨に晒されながらも、どこか神聖な気配をまとっていた。
「ここから先は、もう日常には戻れない」
アーデンの低い声が、足元の砂利を踏む音と共に響いた。
「……”継承の廟”だ」
その言葉に、アーロンの胸が少しだけざわめいた。
言葉の意味はわからずとも、扉の向こうに何かが“待っている”のを、身体の奥が察していた。
扉は重く、鉄と黒檀が組み合わされた造りだった。
アーデンが懐から取り出した封印札に手をかざすと、魔術的な光が走り、扉が静かに音を立てて開いた。
中からは、鉄と古い血の匂いが微かに流れ出た。
けれど、アーロンは不思議と、恐れよりも懐かしさに近いものを覚えていた。
廟の内部は、地下を掘り下げたような円形の空間だった。
石で組まれた壁には、赤黒い魔術紋様が刻まれ、中心には銀の縁取りがされた祭壇と、黒い石板が据えられていた。
天井から垂れる鎖、燭台に灯る青い焔。そのすべてが、現実と夢の狭間のような世界を作り出していた。
「血廟魔術は、「特別な血」にのみ応える。誰もが扱える術じゃない」
アーデンはそう言い、静かに祭壇のそばに歩を進める。
「……俺と、そしてお前だけが、その資格を持つ。だから今日、お前は“継承”される」
アーロンの足が、自然と祭壇へ向かった。
目の前の黒い石板は、何も語らぬ無機質な存在であるはずなのに、どこかで見たことがあるような錯覚を誘った。
「刻むんだ、「名」を。術者としての仰々しいものじゃない。お前自身の、たった一つの名前を」
アーデンは儀式用の小刀を取り出す。
柄に埋め込まれた赤い宝石が、燭火の下で淡く光った。
アーロンは、手を差し出す。迷いは、ほんの一瞬だった。
刃が掌をわずかに裂き、温かい血が一滴、石板の上に落ちた。
その瞬間、石板が脈動を始めた。
血は吸い込まれるように広がり、赤い紋様を描いていく。
まるで、アーロンの存在を記憶し、それを芯にして紋が育っていくかのように。
やがて紋様は一つに収束し、中央に赤い光点を残して、静かに鎮まった。
「……これで、お前の“名”は、この廟に刻まれた」
アーデンは、アーロンの掌から流れる血を古布でそっと拭う。
その動作は不器用だが、確かに優しさを含んでいた。
「この術は、力ではなく“繋がり”だ。血で結ばれた者にしか、託せない」
アーロンは黙って、石板を見つめていた。
そこに浮かぶ紋様が、まるで心音のように微かに光を灯していた。
“これが、自分の始まりなのだ”と、どこかでわかっていた。
だが同時に、胸の奥に沈んだ問いもあった。
この魔術は贖いのためのものか、それとも新たな罪の始まりなのか——
答えはまだ出ない。
けれど、この「血」が、確かにアーデンと自分を結んだことだけは、疑いようもなかった。
第9話:「血に染まる水面、父と子の距離」
季節が、ふたつ過ぎた。
かつて痩せこけ、骨の浮いていたアーロンの身体には、今や明確な輪郭がある。
肩には肉がつき、背はわずかに伸びた。腕には訓練で刻まれた新たな傷と、硬くなった皮膚。
朝の光に晒された肌には、かすかに日焼けの色も差していた。
血廟魔術の継承から数ヶ月。
アーロンは、血の滲むような訓練を続けていた。
字義通り——彼の血は、幾度となく水に落ち、魔術に飲まれ、あるときは破裂し、あるときは凍りつき、あるときは蒸気に変わった。
この日もまた、廟の裏手にある訓練場に朝の風が流れていた。
敷地の南端に拓かれた、石と砂利の地。
そこに据えられた桶には、今朝も冷たい水が張られている。
アーロンは、桶の前に膝をついた。
深く息を吐き、指先を短く傷つける。
血が、ひとしずく、水面に落ちた。
水は微かに震え、その中心に紅い渦が滲んでゆく。
アーロンは目を閉じ、意識を一点に集中させた。
「焦るな。血は、お前の中から来て、お前に戻る」
低く静かな声が、後方からかけられる。
アーデンだった。
腕を組み、何も言わずに佇む男。
口数は少ない。けれどアーロンは、彼が常に自分を見ていることを知っていた。
遠くで鳥の鳴き声がした。
アーロンの呼吸が静まり、水面が波を止める。
意志を注ぐ。血が中心に引き寄せられ、水の中で形を変え始めた。
赤が芯となり、槍のように細長い形状が水面上に現れる。
しかし——。
「……っ!」
集中が一瞬、乱れた。
昨日見た夢が、ふと脳裏を過ぎったのだ。過去の影、両親の姿。
その瞬間、形が崩れた。泡立ち、熱が生じ、白い蒸気がぱあっと立ち上った。
アーロンは咄嗟に手を引いた。指先に熱が走る。
だが、背後から怒号は飛ばなかった。
代わりに届いたのは、短く、深い声。
「もう一度だ。流そうとするな。「通す」んだ。血も、魔も、想いも」
アーロンは小さくうなずいた。
呼吸を整える。
胸の奥に巣くう混濁を押しのけ、ただ、今の“自分”だけを見る。
二度目の血が、水面に落ちた。
赤が溶け、意志が染み込む。
指先から放たれた感覚は、血と水を通じ、再び形を取り始めた。
今度は崩れない。
呼吸とともに、血が応え、水が導かれる。
凛とした氷の槍が、静かに立ち上がった。
中心には、紅く光る血の核。
陽を受けてきらめくそれは、どこか祈りの灯火のようだった。
アーロンは、その槍を見つめ、口元をわずかに引き結んだ。
汗が額を伝い落ちる。
だが、胸の中には、確かな“達成”があった。
「やった……」
小さく、呟いた。
視線を横に向けると、アーデンが変わらぬ立ち姿で佇んでいた。
その顔に、微かだが……確かに微笑の影があった。
普段は無表情に近い男の、ほんのわずかな表情の変化。
けれどアーロンには、それが何より嬉しかった。
「見ててくれて……ありがとう。……とうさん」
言ってから、自分でも驚いた。
けれど、もう取り消す気はなかった。
アーデンは、何も言わず、ただ一歩だけ近づいた。
そしてアーロンの肩に、そっと手を置く。
その手のひらは、大きく、少し硬くて、けれどあたたかかった。
手が言葉より多くを伝えてきた。
「よくやった」
「もう、お前は一人じゃない」
「誇りに思う」
そんな想いが、確かにそこにあった。
アーロンはその手の温もりを感じながら、胸の奥で密かに思った。
血で結ばれたこの魔術よりも、
心で結ばれたこの時間の方が、きっと——大切なのだと。
書いていて、驚くほど自然に「とうさん」という言葉がでてきました。
アーロンと、アーデンの「親子」としての絆が「力」としても継承される同時に心の再生にもつながった。
そんな章として書かせていただきました。