言葉を持たぬ心と、名もなき居場所
生活にリズムが生まれ、アーロンとアーデンの距離にも小さな変化が現れ始めます。
でも、それは簡単なことではなく、過去の痛みや不安が何度も心を揺らします。
言葉もない「居場所」に名前を付ける準備の物語。
ーーーー第4話:「微笑みはまだ遠くー朝日の匂い」ーーーー
夕暮れの光が差し込み、部屋の空気に、ほんのり赤味が混じりはじめていた。
窓際に映る影は長く、床を静かに這うように伸びていく。
訓練を終えたアーロンは、両膝を抱えながら、その影の変化をじっと見つめていた。
筋肉の芯が、まだ熱を持っている。
全身に広がる鈍い疲労感。
けれど、それは不快ではなかった。
むしろ——痛みの中に、“誰にも壊されなかった一日”という確かな感触が残っていた。
そのとき、扉が音もなく開いた。
入ってきたのはアーデン。
手には、皿と、湯気を立てる器。
「今日は、これで終わりだ。明日も、動けそうなら続ける。」
短くそう告げた声は、昨日よりも、ほんのわずかに角が取れていた気がした。
彼が器をアーロンの前に置くと、空気がふっと変わった。
ふわりと、湯気が立ちのぼる。
温かく湿った香りが、鼻先をやさしく撫でていく。
香ばしく煮込まれた根菜。
ほろほろに崩れる干し肉。
野山の葉の、かすかな青み。
そして、湯のなかに漂う卵の、淡く甘やかな匂い。
それらすべてを、ひとつの器が静かに包んでいた。
アーロンは、一瞬、息を呑んだ。
“香ばしい”と感じたことなど、かつてなかった。
今までは、匂いではなく、“臭い”が世界を支配していたから。
器の下には布が敷かれ、手が熱くならぬよう工夫されていた。
湯気は静かに揺れながら、まるでこう言っているようだった。
——ここにいていい。
アーデンは背を向け、無言のまま部屋を出ようとする。
その背中を、アーロンは無意識に目で追った。
そして——
「……あの。」
喉が、勝手に動いた。
自分でも信じられないほど小さな声。
けれど、それは確かに、“言おうとした”声だった。
アーデンが、ゆっくりと振り返る。
その顔には、やはり笑みはない。
眉も、口元も動かない。
ただ、視線だけがまっすぐ、アーロンを捉えていた。
そしてその奥に、ほんの一瞬だけ、変化があった。
——目が、わずかに細められた。
それは“微笑”ではなかった。
けれど、警戒でも、軽蔑でもない。
強いて言えば、それは——
「誰かを、受け止めた」者の目。
ほんのわずかにまぶたが下がったその仕草は、
不器用な人間が“心を隠さずに返す”ための、最小の表現だった。
アーロンは、何も言えなかった。
けれど、小さく頷いた。
その仕草を見届けると、アーデンは静かに言葉を落とした。
「……寒くなったら、毛布を足せ。棚の下にな。」
そして、扉を閉めた。
音はなかった。
けれど、扉の向こうに、温もりが残った気がした。
アーロンは、器を両手で抱きしめた。
湯気が頬を撫で、まつ毛に触れ、あたたかな香りが胸の奥へと沁みていく。
——まだ、笑うことはできない。
それでも、自分が“何かを返したい”と感じたのは。
生まれて、初めてのことだった。
ーーーー第5話:「はじめての“ただいま”」ーーーー
夕暮れが終わりかけ、空の端に藍が滲みはじめていた。
アーロンは脱いだ上着を丁寧に畳み、軋む肩を回しながら、廊下をゆっくり歩く。
両腕と太ももの奥に、じんとした重みが残っていた。
慣れない訓練の疲労が、じわじわと身体を支配している。
それでも、その疲れは嫌ではなかった。
筋が軋むたび、身体が「使われた」感覚を返してくる。
殴られた痣じゃない。物を運ばされた疲れでもない。
——“自分のために動いた”痛み。
そう思える何かが、どこかで確かに芽吹いていた。
階段を昇る足取りは重い。
壁に手を添えながら、一段ずつ戻っていく。
けれど、ふと足を止めて、窓の外に目を向けた。
裏庭の物干し台に、洗われた布が風に揺れている。
その下を、アーデンが通り過ぎていった。
アーロンは声をかけない。
ただ、背を向けたまま去っていくその人影に、小さく息を吐いた。
部屋に戻ると、小さなランプが灯っていた。
誰がともしたのかも知らないまま、芯の先で炎が静かに揺れていた。
その明かりが、天井の木目を淡く揺らしている。
足を洗うため、桶の前にしゃがみこむ。
冷たい水に足を浸した瞬間、鋭く疲労が押し寄せてきた。
けれど、それすら心地よい。
「今日は、もう何もしなくていい」——そんな感覚をくれる冷たさだった。
粗末な布で足を丁寧に拭き、片方ずつ、布団へ乗せる。
ゆっくりと、焦らず、慌てず。
こんなふうに、誰にも邪魔されず、自分の動きを最後まで完結できたことが——
かつてあっただろうか。
アーロンは膝を抱え、しばらくそのまま、炎の揺らぎを見つめていた。
そして、ふいに——
「……ただいま」
ぽつりと、小さな声が漏れた。
誰も聞いていない。返事もない。
けれどその言葉は、自分の胸に向かって投げかけたものだった。
かつて、「帰る場所」などなかった。
ただ仕事が終われば、檻に戻り、眠るだけ。
命令されるまで、動いてはいけなかった。
でも今、自分の足で戻り、自分の手で灯りを見つめ、静かに布団に入る。
誰の命令でもなく、自分の意思で。
そのすべてが、胸を締めつけるほどに、あたたかかった。
アーロンは、布団を引き寄せ、小さく息をついた。
筋肉はまだ痛い。心の奥にも、まだ「怖さ」は残っている。
けれど、今夜の自分は——
昨日よりも、ほんのわずかに、軽い。
視界の端で、ランプの火が小さく瞬いた。
そしてその夜。
彼は音もなく、深く、深く眠りについた。
ーーーー第6話:「“おかえり”のない朝」ーーーー
朝の光は、まるで眠りにそっと触れるように、静かに部屋に差し込んでいた。
窓辺から射すその光は、天井の木目を淡く染めながら、
昨夜と同じ場所に、違う色を映している。
アーロンは目を開け、しばらくその光をじっと見つめていた。
部屋は静かだった。
けれど胸の奥には、かすかな余韻が残っていた。
──昨夜、言葉にした。
「ただいま。」と。
誰にも返されなかったその声が、ふと頭をよぎる。
けれど、不思議と胸は苦しくならなかった。
むしろ、あの一言を言えたことが、
今の静けさを、そっと包んでいる気がした。
目をやると、机の端にランプが置かれていた。
昨日と同じ、あの小さな灯り。
火は消えていたが、ガラスの内側には煤がうっすらと残っている。
──昨日、ここに灯りがあった。
それを示す、確かな痕跡だった。
アーロンは布団を静かにたたみ、桶に足を差し入れる。
水は冷たかった。
けれど、顔をしかめることはなかった。
丁寧に足を拭きながら、自分の所作が少しだけ落ち着いていることに気づく。
──昨日までの自分なら、この時間は「不安」でいっぱいだった。
けれど今朝は、なぜか「この先に何があるのか」を知ろうとしていた。
扉を開けると、炊事場の奥から鍋の煮える音が聞こえた。
火のはぜる音。布を絞る音。
そして、淡く広がる朝の香り。
煮込みの匂いに、アーロンの鼻がわずかに反応する。
「……起きたか。」
声がした。
背中越しに、アーデンが言った。
鍋に向かうその姿は、昨日と変わらない。
けれど、あの無言の背中とは、どこか“輪郭”が違っていた。
アーロンは黙ったまま椅子に腰を下ろす。
木の椅子がきしむ音が、妙に心地よかった。
やがて差し出された器には、麦粥とやさしく煮込まれた根菜。
湯気がふわりと立ち上がり、野菜の輪切りが穏やかに浮かんでいる。
その温もりが、昨日よりもほんの一歩、近くに感じられた。
スプーンを手に取ると、アーロンはぽつりと口を開いた。
「……昨日、帰ったとき……」
声が掠れ、続きを探せない。
だが、アーデンはその言葉を途中で受け取ってくれた。
「聞こえてた。『ただいま』、だろ」
アーロンの手が止まる。
「……返す言葉が、見つからなかっただけだ。……悪い。」
それだけ言うと、アーデンは火を落としに行った。
表情は見えなかった。
けれどその短い一言が、胸のどこかで、あたたかく灯った。
アーロンは器に目を戻す。
湯気の向こうに見える、切られた野菜と薄い塩の匂い。
味は淡いのに、不思議と記憶に刻まれる。
それは、ただ“食べさせる”だけの食事じゃない。
“暮らすため”の食事。
──“おかえり”は、なかった。
けれど、気づいてくれていた。
それだけで、もう十分だった。
アーロンは、静かに食事を進めていく。
この場所に“戻ること”を、少しだけ楽しみにしていた自分に、そっと気づきながら。
そして、心の奥に灯った感情は——
昨日までの彼には決して芽生えなかった。
それは、かすかに輪郭を持ち始めた——
「信頼」という名の、最初の芽だった。
「ただいま」、「おかえり」なんていう挨拶言葉がこれほどに重く、遠いものとして
書くことになるとは思いませんでした。
しかし、何気ないやり取りの中にこそ絆は育まれます(そう信じたいです…)
そんな空気感のようなものが伝わっていただけたら幸いです。
後編では、「力」を継ぐ場面をメインに書こうと思っております。