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天翳なき瞳 ――禊の旅路を歩む者――  作者: ペケ
第1章 血廟に刻まれし誓い
2/8

痩せた日々と、癒しの始まり

かつて影町で命を奪われかけた少年・アーロンは、アーデンに拾われた。

この章では、飢えと怯えに満ちていた彼の生活が、少しづつ変わっていく様子を描いています。

言葉も、信頼も、まだ何も育まれていない。けれど、確かに「始まった」場所の物語です。

「第1話 傷だらけの少年と、夜明けのスープ」


 目を覚ました瞬間、アーロンは体を強張らせた。


 知らない天井。木の梁。窓から差し込む薄い朝日。


 体は布団の上にあり、周囲には何の声も音もなかった。




 咄嗟に体を起こしかけて、肋骨のあたりが軋む。


 痛みに顔をしかめ、布団を握る。


 どこだ、ここは——。昨日の夜、確かに父と母は殺された。自分もその場にいた。


 だけど、死んではいない。なぜかここにいる。




 部屋は小さかった。だが、整っていた。


 棚と机がひとつずつ。窓際に水差しと皿。


 壁は土壁、床は板張り。木の匂いがかすかに漂っていた。




 何より、この部屋には臭いがない。


 酒や煙草、腐った肉の匂いもしない。


 あの屋敷のような濃い脂の臭いや、地下室の湿気もない。




 アーロンは、ごくりと唾を飲み込んだ。


 自分が“汚れていない空間”にいることが、どうにも落ち着かなかった。




 体を起こし、ゆっくりと布団から抜け出す。


 裸足の足裏が板に触れた瞬間、冷たさにびくりと身をすくめる。


 だが、それは不快ではなかった。ただ、自分が“何かに触れている”ことを実感させるだけだった。




 扉の方で、小さな音がした。


 アーロンは思わず反射的に壁に背をつけ、息を止める。


 だが扉は開かず、誰かが“何か”をそっと置いていく音だけが聞こえた。




 数秒待って、そっと扉の下を覗くと、


 湯気の立った皿と、パンの塊が置かれていた。スープの匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。




 その瞬間、胃がきゅうっと鳴った。


 けれど同時に、アーロンは皿から一歩退いた。


 毒かもしれない。嘘かもしれない。罠かもしれない。


 何もされていないのに、なぜか心がそう叫ぶ。




 あの屋敷では、食べ物は「与えられるもの」ではなかった。


 条件付きの報酬か、罰の後の気まぐれな施しだった。


 それが習慣になっていた。誰かが何かをくれるときは、必ず見返りがある。そう信じていた。




 足音が近づいてくる。扉の向こうに立つ影。


 アーロンは思わず身をこわばらせる。




 「……無理に食うな。食えなきゃ、片づけるだけだ」




 低く、静かな声だった。アーデンのもの。


 感情も脅しも感じられなかった。ただ、事実だけを伝えるような言い方だった。




 数秒後、足音が去る。扉は閉じたままだった。




 アーロンはしばらく、床に座ったまま動けなかった。


 扉の向こうの空気はもう静かで、危険の匂いもしない。


 スープの匂いだけが、じんわりと鼻に残っていた。




 やがて、おそるおそる皿を手に取った。


 パンは柔らかく、まだ温かかった。


 それだけで、胸の奥が少し痛んだ。




 自分のために、誰かが“準備をした”ということ。


 その行為自体が、これまでの人生では一度もなかった。




 スープに口をつけることは、すぐにはできなかった。


 けれどアーロンは、静かに膝を抱えながら、パンを一口だけかじった。




「第2話:静けさの中の声、冷たくない手」


 朝の光が、窓枠の隙間から差し込み、部屋の床に細長い帯を落としていた。


 その帯は、時間とともにゆっくりと角度を変え、今は部屋の隅の木箱を照らしている。


 影が移動していくたびに、部屋の空気もわずかに温度を変えていくようだった。




 アーロンは、その移ろう光をじっと見つめながら、食べ終えた器を元の場所へそっと戻した。


 スープは、見たことのない具が入っていた。


 淡く濁った出汁の中に、根菜と豆、それに名前も知らない山野草の葉と、柔らかな干し肉が浮かんでいた。


 どれも適度な大きさに切られていて、嚙まずに飲み込めるように工夫されていた。


 香りは優しく、味も薄すぎず濃すぎず、どこか田舎の料理のようだった。




 食べながら、何度か喉が詰まりそうになった。


 空腹のせいではない。誰かが、自分のためにこれを作ったという事実が、妙に喉を締めつけてくるのだ。




 ——誰が、何のために?




 足元には水桶と布、丸めた着替えが置かれていた。


 誰かが準備してくれたらしい。何も言われていないが、使ってもよいのだろうか。


 少し迷った末、アーロンは服を脱ぎ、水に指先を差し入れた。




 水は少し冷たかったが、嫌な感じはしなかった。


 布で首筋を拭き、肩を流し、背中へと手を伸ばす。


 触れるたびに、古傷の感触が皮膚に浮かび上がる。


 殴打の跡、焼かれた痕、鋭利な刃の名残……。




 風呂も、着替えも、自分にとっては“罰の後のもの”だった。


 服を脱がされたときは、いつもそのあとに何かがあった。


 だからこそ、何もされないこの静けさが、逆に怖い。




 ふいに、扉の向こうから足音が聞こえた。


 小さく、ためらいのない歩幅。アーロンは身を硬くする。


 服を着ていない自分を見られるのではないかと、反射的に身を抱えるように縮こまった。




 だが、扉は開かない。


 かわりに、低く、少しかすれた声が静かに響いた。




 「……着替え、置いといた。合わなきゃ言え。余ってるのがある」




 抑揚のない声だった。


 だが、その音には、どこか土を踏むような落ち着きがあった。


 人を脅す声ではない。媚びてもいない。


 短く、必要なことだけを伝えて、後は余白を残すような声。




 その“余白”に、アーロンは一瞬、呼吸を忘れた。




 足音が遠ざかっていく。


 扉の前に影はなくなり、再び部屋に静けさが戻ってきた。




 アーロンは、小さく息を吐いた。


 安心というより、力が抜けた。今まで張っていた全身の筋肉が、ようやく少しだけ緩んだ気がした。




 水をすべて使い切るころには、窓の外の光がわずかに赤みを帯びていた。


 日が高くなってきたのだろう。床に落ちる影は、今や反対側へと移動している。




 体を拭いて服を着ると、布地の柔らかさに驚いた。


 着古されてはいるが、繕われた跡があり、何度も洗われた感触がある。


 適当なものを“与えた”のではなく、誰かが“使わせよう”としているのが分かった。




 鏡はない。


 だが、自分がこれまで着ていた服と比べて、確かに“人間の服”だと思えた。




 アーロンは、小さく手を握りしめる。


 その手は、まだ細く、震えていたが——冷たくはなかった。




「第3話:無言の訓練と、一口のパン」


昼を少し過ぎたころだった。


 アーロンが部屋の隅で静かに木の節目を眺めていると、扉がゆっくりと開いた。


 音は小さく、それだけで周囲の空気がきゅっと引き締まった気がした。




 入ってきたのはアーデン。手には二本の木刀。


 そのうち一本は、短く軽く加工され、明らかに子ども向けだった。


 アーロンは息を飲む。これは“訓練”なのだとすぐに理解できた。




 アーデンは言葉を発さないまま、部屋の中央に立ち、片方の木刀を床に置く。


 その仕草は慎重で、決してぞんざいではなかった。


 まるで、木刀ではなく、何か壊れやすいものを扱うような手つきだった。




 その後、自分の木刀を片手にふわりと構え、重心を沈める。


 一太刀、空を斬る。音はほとんど立たない。


 そのまま一度、アーロンへ視線を向けた。言葉はない。ただ、目で「来い」と促された。




 アーロンは、おそるおそる立ち上がり、子ども用の木刀を取る。


 足が少し震え、木刀の柄が手の中で浮く。


 構えも、形になっていない。でも、アーデンは何も言わない。




 ただ、自分の動きを淡々と繰り返す。




 一太刀、二太刀、呼吸を合わせるように。


 アーロンは真似ながら、少しずつ体の重心をつかもうとする。


 最初の十分で、すでに腕が震えていた。


 膝が言うことをきかず、ついにバランスを崩して尻もちをついた。




 そのとき、アーデンはゆっくりと近づいてきた。


 怒るでもなく、焦るでもなく。ただ静かに、歩幅を一定に保ったまま。




 そして、腰を落とすと、布にくるまれた包みをアーロンの前にそっと置いた。


 まるで、自分の動作が相手に与える影響まで計算しているかのような、慎重な動きだった。




 「……水と、パン。ゆっくり食え。まだ昼前だ」




 言葉は短いが、語尾にはどこか引っかかるような柔らかさがあった。


 そして、そのとき初めて、アーロンはアーデンの表情を見た。




 表情——と言えるほどのものではなかった。


 口元は結ばれ、眉は動かない。目は落ち着いている。


 だがその沈黙の中に、確かに何かが“隠しきれずに”にじみ出ていた。




 焦りではない。苛立ちでもない。


 強いて言えば、それは「間違えたくない」というためらいに似ていた。


 不器用だが、真剣に他人を思おうとする者の、ぎこちないまなざしだった。




 アーロンは包みを開けた。


 中には、少し固いが、布でくるまれていたことでほんのり温もりを保ったパンと、ぬるくならないよう蓋が閉じられた水筒。




 アーデンは、何も言わず立ち上がり、また同じ定位置に戻っていった。


 その背中は、訓練の続きができるかどうか、黙って待つような空気を背負っていた。




 アーロンは、口の中にパンを運んだ。


 硬いが、咀嚼すればじんわりと粉の甘みが広がる。


 パンが美味しいと感じたのは、いつぶりだろうか。




 そして、その温もりが胸の中にも伝わってきた。


 何も教えられていない。何も約束されていない。


 けれど、否定されていないことだけが、心の支えになった。

ほんの少しの温かさに人は救われることがある。

この前編はそんな「何気ない日常」がどれだけ大切で特別なことなのかを描いてみました。

まだ、「家族」ではない二人の、ぎこちない距離感。

中編では、その距離感がもう少しだけ近くなる。そんなお話にしようと思っています。

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