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天翳なき瞳 ――禊の旅路を歩む者――  作者: ペケ
第1章 血廟に刻まれし誓い
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痩せた日々と、癒しの始まり

かつて影町で命を奪われかけた少年・アーロンは、アーデンに拾われた。

この章では、飢えと怯えに満ちていた彼の生活が、少しづつ変わっていく様子を描いています。

言葉も、信頼も、まだ何も育まれていない。けれど、確かに「始まった」場所の物語です。

ーーーー「第1話 傷だらけの少年と、夜明けのスープ」ーーーー




 

目を覚ました瞬間、アーロンは体を強張らせた。




 知らない天井。木の梁。窓から差し込む、淡い朝日。




 体は布団の上にあり、周囲には声も物音もなかった。




 




 咄嗟に起き上がろうとして、肋骨のあたりが軋む。


 痛みで顔をしかめながら、布団を握りしめる。




 どこだ、ここは——。




 昨日の夜、確かに父と母は殺された。自分も、その場にいた。


 けれど……死んではいない。気づけば、ここにいる。




 




 部屋は狭かった。けれど、整っていた。




 棚と机がひとつ。窓際には水差しと皿。


 壁は土壁、床は板張り。木の匂いが、かすかに漂っている。




 




 何より、この部屋には「臭い」がなかった。




 酒や煙草、腐った肉の匂いも——


 あの屋敷の脂の臭いや、地下室の湿気も、ない。




 




 アーロンは唾をひとつ、静かに飲み込んだ。




 “汚れていない空間”にいることが、どうにも落ち着かなかった。




 




 ゆっくりと体を起こし、布団から這い出る。




 裸足の足裏が板に触れた瞬間、冷たさに身をすくめる。




 ——それでも、不快じゃなかった。




 むしろ、何かに触れているという感覚が、現実味をくれた。




 




 そのとき、扉のほうで小さな音がした。




 アーロンは反射的に壁へと身を寄せ、息を止める。




 




 だが扉は開かず、“誰か”が何かをそっと置いていく音だけがした。




 




 しばらく待って、扉の下をおそるおそる覗き込む。




 そこには、湯気の立つ皿と、ひとかたまりのパン。




 スープの匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。




 




 その瞬間、胃がきゅうっと鳴った。




 けれど、アーロンは皿から一歩退く。




 毒かもしれない。罠かもしれない。




 ——何もされていないのに、心がそう叫んだ。




 




 あの屋敷では、「食べ物」は与えられるものじゃなかった。




 それは条件付きの報酬か、罰のあとの気まぐれな施し。




 だから信じられない。何かをもらう時は、必ず“代償”があった。




 




 足音が近づいてくる。扉の向こうに、誰かが立った。




 




 アーロンの体が強ばる。息も詰まる。




 




 「……無理に食うな。食えなきゃ、片づけるだけだ。」




 




 低く、静かな声。アーデンのものだった。




 脅しでも命令でもない。ただ、事実を淡々と伝える声。




 




 足音が遠ざかっていく。扉は開かれず、気配だけが消えていった。




 




 アーロンはその場で、しばらく動けなかった。




 もう誰もいない。音も、危険の気配もない。




 ただ、スープの香りだけが、じんわりと残っていた。




 




 やがて、おそるおそる皿を手に取る。




 パンは柔らかく、まだ温かかった。




 




 それだけで、胸の奥が、少し痛んだ。




 




 誰かが、自分のために“準備した”という事実。




 それは、これまで一度もなかった行為だった。




 




 スープに口をつけることは、すぐにはできなかった。




 




 けれどアーロンは、静かに膝を抱えながら、


 パンを一口だけ、そっとかじった。




 




 その味は、覚えていたどんな食べ物とも違っていた。





ーーーー「第2話:静けさの中の声、冷たくない手ーーーー


 



 朝の光が、窓枠の隙間から差し込み、床に細長い帯を落としていた。




 その帯は、ゆっくりと角度を変えながら、いまは部屋の隅の木箱を照らしている。


 影が移ろうたびに、空気の温度もほんの少しだけ変わる気がした。




 




 アーロンは、その光の移動をじっと見つめていた。




 そして、食べ終えた器をそっと持ち上げ、元の場所へ戻す。




 




 スープには、見たことのない具材が入っていた。


 淡く濁った出汁の中に、根菜と豆、名も知らぬ山野草の葉、柔らかな干し肉。




 どれも嚙まずに飲み込めるほど小さく切られていて、食べる人への配慮が滲んでいた。




 




 香りはやさしく、味は薄すぎず、濃すぎず。


 どこか田舎の料理のような、素朴な温もりがあった。




 




 食べながら、何度か喉が詰まりそうになった。




 空腹のせいじゃない。




 誰かが、自分のためにこれを用意したという事実が、妙に喉を締めつけてきた。




 




 ──誰が、なんのために?




 




 足元には、水桶と布、そして丸めた着替えが置かれていた。




 使っていい、ということだろう。


 言葉はなかったが、そう読み取るしかなかった。




 




 少し迷ってから、アーロンは服を脱いだ。


 そして、そっと指先を水に差し入れる。




 




 水はやや冷たかったが、不快ではなかった。




 布を濡らし、首筋を拭き、肩から背へと手を伸ばす。




 




 そのたびに、古傷が手に触れる。




 殴られた跡。焼かれた痕。刃がかすめたような線。




 




 ──風呂も、着替えも、自分にとっては“罰の後”のものだった。




 服を脱がされた時は、必ずそのあとに痛みがあった。




 




 だからこそ、何も起こらないこの静けさが、むしろ怖い。




 




 ふいに、扉の向こうから足音がした。




 ためらいのない歩幅。小さな音。




 アーロンの体が、反射的に強ばる。




 




 服を着ていない。見られるかもしれない。




 そう思った瞬間、腕で体を抱くように縮こまった。




 




 だが——扉は、開かなかった。




 




 代わりに、静かな声がひとつ。




 




 「……着替え、置いといた。合わなきゃ言え。余ってるのがある。」




 




 かすれたような低い声。




 脅しでも、命令でもない。




 ただ必要なことだけを伝える、素っ気ない語り口。




 




 けれど、その声にはどこか土を踏むような重さがあった。




 他者に何かを強制するでもなく、迎合するでもない。




 




 その“余白”に、アーロンは一瞬、呼吸を忘れた。




 




 足音が遠ざかっていく。




 扉の前の影が消え、部屋にはまた静けさが戻る。




 




 アーロンは、小さく息を吐いた。




 安心……というより、力が抜けた。




 全身を覆っていた緊張が、ようやくわずかに緩んだ気がした。




 




 水を使いきる頃には、窓の外の光がわずかに赤みを帯びていた。




 日が高くなってきたのだろう。




 床に落ちる影は、反対側へと移動していた。




 




 体を拭き、用意された服に袖を通す。




 布地のやわらかさに、思わず驚いた。




 




 着古されてはいるが、繕われた跡がある。




 何度も洗われた、やさしい感触。




 適当に与えたのではなく、誰かが“使わせよう”と考えて選んだ衣服だった。




 




 鏡はなかった。けれど、それでも思った。




 これまで着ていたのは“物”だった。




 今、身につけているのは“人の服”だと。




 




 アーロンは、小さく手を握りしめる。




 




 その手はまだ細く、震えていた。




 




 けれど──冷たくはなかった。




ーーーー「第3話:無言の訓練と、一口のパン」 ーーーー





昼を少し過ぎたころだった。




 アーロンが部屋の隅で、じっと木の節目を見つめていると——


 扉が、そっと音を立てて開いた。




 




 小さな音だった。




 けれど、それだけで空気がきゅっと引き締まった気がした。




 




 入ってきたのはアーデン。




 手には二本の木刀。




 一方は短く、軽く加工されていた。明らかに、子ども向けのもの。




 




 アーロンは息を飲んだ。




 これは“訓練”だ。直感でそう理解できた。




 




 アーデンは言葉を発さぬまま、部屋の中央に立ち、片方の木刀を床に置く。




 その仕草は丁寧で、ぞんざいなところは微塵もなかった。




 まるで、武器ではなく、壊れやすい何かを扱っているかのような手つきだった。




 




 次に、自らの木刀を構え、ふわりと重心を落とす。




 一太刀、空を斬る。ほとんど音がしない。




 




 そして、一度だけアーロンに視線を送った。




 言葉はない。けれど、その瞳が「来い」と告げていた。




 




 アーロンはおそるおそる立ち上がり、子ども用の木刀を手に取る。




 足が少し震えていた。柄が手の中で浮き、重みだけが頼りだった。




 構えは拙く、形にもなっていない。




 だが、アーデンは何も言わない。




 




 ただ、自分の動きを繰り返す。




 一太刀、二太刀。静かに、呼吸を刻むように。




 




 アーロンは、それを真似しながら、必死に体の重心を掴もうとする。




 けれど、最初の十分で腕はすでに震えていた。




 膝が言うことをきかず、ついにバランスを崩して尻もちをつく。




 




 そのとき、アーデンがゆっくりと近づいてきた。




 怒っていない。急ぎもせず。




 一定の歩幅で、ただ静かに。




 




 そして、アーロンの前にしゃがみこむと、布にくるまれた小さな包みをそっと置いた。




 




 まるで、何かを壊さないように。




 自分の動作が相手に与える影響まで、計算しているかのような慎重さだった。




 




 「……水と、パン。ゆっくり食え。まだ昼前だ。」




 




 短く、静かな声。




 語尾にかすかなやわらかさが混じっていた。




 




 そのとき、アーロンは初めて、アーデンの表情をしっかりと見た。




 




 “表情”——と呼べるほどのものではない。




 口元は結ばれ、眉も動かない。




 けれどその沈黙の奥に、何かがにじんでいた。




 




 苛立ちでも、焦りでもない。




 強いて言うなら、それは——




 




 「間違えたくない」という、ためらいのようなまなざし。




 




 不器用だけれど、真剣に相手を思おうとする者の視線だった。




 




 アーロンは、そっと包みを開けた。




 




 中には、少し硬めのパンと、水筒。




 パンは布にくるまれていて、ほんのりと温もりが残っていた。




 水筒には、ぬるくならないよう蓋が閉じられていた。




 




 アーデンは何も言わず、すっと立ち上がる。




 そして、また定位置へと戻っていく。




 




 その背中には、「訓練の続きができるか否か」を黙って委ねるような気配があった。




 




 アーロンは、手にしたパンをそっと口に運ぶ。




 少し硬い。でも、咀嚼するたびに、粉の甘みがじんわりと広がる。




 




 ——パンが“美味しい”と感じたのは、いつ以来だったろう。




 




 その温もりが、口の中から、胸の奥へと伝わってくる。




 何も教えられていない。何も約束されていない。




 




 それでも——否定されていないということだけが、心の支えだった。

ほんの少しの温かさに人は救われることがある。

この前編はそんな「何気ない日常」がどれだけ大切で特別なことなのかを描いてみました。

まだ、「家族」ではない二人の、ぎこちない距離感。

中編では、その距離感がもう少しだけ近くなる。そんなお話にしようと思っています。

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