鋼の門をくぐるとき
――それは、「門をくぐる」物語。
現実と幻想、過去と未来。
その狭間を旅してきたアーロンとミレイユが、ついに〈ルフ=アルヴェス〉という名の“境界”へと
辿り着きます。
本章では、世界の重みを感じさせる風土と、その中心にある鋼鉄の門、
そして沈黙の奥に潜む選別の意志を描いています。
読者の皆さまには、彼らと共に一歩一歩を踏みしめながら、この地に満ちる“空気の重さ”と
“眼差しの冷たさ”を感じ取っていただけたら嬉しいです。
静かに始まり、静かに“問われる”章。
どうか、ゆっくりと読んでみてください。
それは、奇妙な旅だった。
血の匂いと熱がなお残る〈幻夢戦争記録区〉を後にしてから、アーロンとミレイユは五セル――五日間にも及ぶ道のりを歩んだ。
けれど、歩みを重ねても、季節の移ろいはどこか停滞していた。
風はどこまでも湿り気を含み、重く、肌に纏わりつくようだった。空は曖昧な灰色に染まり、
日差しはおろか、空の“高さ”すら分からなくなるほど鈍い。
昼夜の境界さえあやふやなこの風土には、どこまでも一定の冷たさと沈黙が横たわっていた。
時が動いていないのではないかと錯覚するほどに。
それこそが、澱影の国〈エイジウェイ〉が秘める“本性”だった。
地形もまた、まるで意志を持つように姿を変え続けた。
砂利道は苔むす林道へと姿を変え、朽ちかけた石橋を渡れば、次には急峻な山道が待ち構えている。そのすべてが、忘れ去られた記憶の断片を綴り直すかのように、過去と現在の境界を曖昧にしていた。
夜。
宿のない日は篝火を焚いた。湿った枝がぱちぱちと音を立て、火は静かに横へと流れた。
風が吹いているわけでもないのに、煙はまるで留まりたがるように、空へと昇らず、地を這った。
その煙のかたちは、記憶――あるいは後悔のように、形を持って揺れていた。
ミレイユは、旅のあいだ、ほとんど言葉を発さなかった。
だがその沈黙は冷たさではなく、ひとつの“信頼”として存在していた。
たとえば、ある日。
細い崖道でアーロンが足を滑らせかけた瞬間、ミレイユは反射的に手を伸ばした。
迷いなく掴まれたその腕――無言のまま離された指先には、わずかに汗が滲んでいた。
それを見たアーロンは、胸の奥が、そっと緩んだ。
彼女の沈黙は、拒絶ではない。
言葉にしない“祈り”であり“見守り”なのだと、ようやく気づくことができた。
そして五日目の早朝。
霧が深まり、空が灰に沈んだそのとき、視界の先に――異質な“断片”が現れた。
地形の先に浮かび上がる黒い稜線。
それは、自然という概念そのものを否定するように、静かに、しかし圧倒的に存在していた。
それが、〈ルフ=アルヴェス〉の本拠地だった。
黒い。
それ以外に、言葉が見つからなかった。
門が、塔が、壁が――すべてが“防御”ではなく“拒絶”のために築かれていた。
大地の脈を封じるように、鋼鉄で構築された竜骨の門が口を閉ざし、
訪れた者を“迎える”という発想そのものを欠いていた。
石畳の裂け目を越えた瞬間、空気が変わった。
重たく、肌に纏いつくような密度。微かに鉄の匂いすら感じるほどの濃度。
霧が頬を撫で、風が吹いていないはずなのに、耳元で誰かの囁きが響いた。
言葉ではない。しかし“意図”は、確かにあった。
目の前の門は、まるで巨獣の肋骨のように湾曲した鋼鉄の構造だった。
漆黒の金属が幾重にも絡み合い、無数の封鎖印が、そのひとつひとつで“選別”の意志を刻みつけていた。
門の左右にそびえる高壁には、苔すら生えていない。
この場所だけが、時間の進行を拒絶し、ただ“在る”ことを選んだかのようだった。
門は山間の断崖に築かれ、その背後には切り立った崖と、遥かな雲海が広がっていた。
足元の石畳には古代語の紋章が精密に刻まれており、踏み込むだけで識別の術式が作動するのがわかる。
空気は澄んでいた――だが、それゆえに、何かが“研ぎ澄まされている”感覚があった。
アーロンは、視線を感じた。
高台の監視塔。あるいは霧の中に潜む別の“眼”。
結界か、生身の殺意か。どれであっても、そのすべてが命の価値を静かに値踏みしていた。
ふと視線を落とすと、石畳の片隅にわずかな焦げ跡があった。
誰かが、ここで拒絶された――その痕跡かもしれない。
この門は、意志なくして越えられない。受け入れを前提としない門。
背後で足音が止まり、ミレイユがそっと息をつく気配がした。
「……ここが、〈ルフ=アルヴェス〉の心臓部よ。息が詰まりそうでしょう?」
その声は柔らかかったが、同時に、何かを試すような響きが含まれていた。
アーロンは小さく頷き、深呼吸を一つ。
「はい。でも……少しだけ、落ち着きました。風が……きれいです。」
その言葉は、意外にも自然に口からこぼれた。
この場所の空気には、わずかな草の香りが混じっていた。無機質と術式に支配された空間に、それでも自然の気配が残っていることが、不思議な安心をもたらしていた。
「そう。恐れるべきは、鋼でも術式でもないわ。――“眼”よ。」
ミレイユの声は低く、それでも優しかった。
その言葉に、アーロンは一人の人物の言葉を思い出す。
――「見られてると思ったときは、“隠す”んじゃなくて“見せたいもの”をひとつ決めておくんだ。
お前が決めたものだけを、奴らに見せてやれ。」
アーデンの声。
遠く、でも確かに届いてくるその言葉が、彼の背中をそっと押す。
門の隙間から、金属が擦れるような微かな音が響いた。
「名を。そして、推薦者を。」
その声は姿を持たず、空間そのものが問いかけているようだった。
アーロンは、一歩前へ出る。
「アーロンと申します。トゥリス=ハインツ殿の推挙により、正式に入門の許可を得ております。」
ミレイユも、静かに一歩進み出る。
「そして私も、〈澄眼派〉観測者ミレイユ=リリスとして、彼を推薦の対象者と“記録“しました。」
沈黙が、空間を満たす。
門の術式構造が淡く脈動し、古代の紋章が呼吸するように光を放つ。
やがて――封鎖の一部が、低く、重たく、解除されていく。
だが、それ以上は動かない。
――まだ“問われて”いるのだ。
ミレイユはアーロンの隣に並び、そっと肩越しに囁いた。
「緊張しすぎよ。でも無理もないわ。ここは“選ばれし者”でさえ膝を折る場所だから。」
その言葉に、アーロンは小さく笑った。ほんのわずかに、だが確かに。
そして――
目の前の門の奥へと、意志を込めて視線を向けた。
この門の先に待つものは、過去でも未来でもない。
ただ、“今”という名の試練だけだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
そして、更新まで少しお時間をいただいてしまい、申し訳ありません。
約10日ぶりの投稿となりましたが、待っていてくださった
皆さま、本当にありがとうございます。
〈幻夢戦争記録区〉という過去の熱から、〈エイジウェイ〉の静謐へ。
そして、〈ルフ=アルヴェス〉という“拒絶と選別”の地へと、アーロンとミレイユは歩みを進めました。
本章では、キャラクターたちの沈黙や視線の奥にある感情、そして“試される場”に立つという緊張感を、少しずつ丁寧に描くことを意識しました。
「門をくぐる」という行為は、単なる移動ではありません。
それは、覚悟であり、信念であり、ときに過去との訣別でもあります。
アーロンの踏み出した一歩を、あなた自身の“一歩”と重ね合わせて感じていただけたなら、
嬉しい限りです。
もしよろしければ、感想やご意見をお寄せいただけると、とても励みになります。
登場人物たちの言葉や仕草、場面の空気感など、どんな些細なことでも構いません。
そして最後に、ひとつお知らせを――
明日中に、いくつかのエピソードを必ず更新いたします。
物語の“核”に触れていく展開となる予定ですので、どうか楽しみにしていてください。
また、次のエピソードでもお会いできますと幸いです。




