還る者、告げる者
死地から戻ったアーロンが、再びアーデンもとへと帰ってきたところから幕を開ける。
一言の「ただいま」に込められた彼の変化と、その後に訪れる正式なギルド任務の告知、
そしてミレイユによる推薦の真意が交錯します。
これは、かつて守られていた少年が、自らの意思で“旅を選ぶ”者へと変わる節目の物語。
アーデンの言葉、ミレイユの信頼、それらすべてを背に、
アーロンの歩みは新たな章へと向かいます。
空は鈍色のまま、時間だけが無音のうちに過ぎていた。
五セルにわたる長い旅路を終え、アーロンとミレイユは
ようやく見慣れた樹々の佇まいと、懐かしい土の香りを背に帰ってきた。
風が吹けば葉が揺れ、草が擦れ合い、記録区での緊迫した空気とは対照的な穏やかさが
ふたりを優しく迎え入れてくれる。
「……静かですね。」
アーロンがぽつりとつぶやいた。
「ええ。まるで、何もなかったように。」
ミレイユの返答には、淡い疲労と安心が混じっていた。
だが、何もなかったわけではない。あの場所で、アーロンは確かに“記録”を継ぎ
“声”を受け取った。血の記録、魂の断片、英雄の断末魔――
それらすべてが、今も胸の奥で燻り続けている。
彼は、もう一歩も引かぬと決めていた。
石畳の先、懐かしい屋敷の輪郭が見え始める。
ふいに、アーロンの足が止まる。
ミレイユもまた、その気配に応じて立ち止まった。
「……行って、いいですよ。」
ミレイユは微笑む。
「あなたの“帰りたい場所”でしょう?」
アーロンは小さく頷き、再び歩き出した。
そして、玄関の戸を開けると同時に、声を発した。
「――ただいま。」
それは、ごくありふれた一言だった。
だが、その言葉に宿った温もりは、アーデンの胸を静かに打った。
囲炉裏の前にいたアーデンは、ゆっくりと振り返った。
無事に戻ってきた我が子。傷を負いながらも、目を逸らさずに立つその姿。
たった一言が、彼の胸をぎゅっと締めつける。
「……おかえり、アーロン。」
それだけを、彼は絞り出すように返した。
アーロンは少し照れたように笑いながら、荷を下ろす。
ミレイユも遅れて室内に入ると、腰を下ろし、封文具をそっと机に置いた。
「任務は……無事に完了しました。」
ミレイユの声は、報告であり、祈りでもあった。
アーデンは頷いた。だが視線は、机の上に置かれた“封文具”に吸い寄せられていた。
彼には、分かっていた。それが何であるか――そして、そこに込められている痛みの重さを。
「記録核は……継がれました。」
ミレイユが言葉を添える。
アーロンは黙って、それを受け止めた。
彼の胸には、まだ微かに《灰燼》の気配が残っていた。
血が熱を帯び、静かに彼の“芯”を照らしているようだった。
「……義父さん。」
アーロンは口を開いた。
「“あの人”……義父さんの戦友だった人は、最後に笑ってました。」
アーデンは目を閉じた。
記憶の奥に、戦場で血に染まりながら笑っていた“彼”の姿が、鮮やかに蘇る。
それはもう、過去の断片ではなかった。――継がれた、今の記憶だ。
「……あいつは、強い男だったよ。……最後まで、誰よりも強かった。」
室内に、沈黙が降りた。
やがて、それを破ったのはミレイユだった。
「アーロン・リヴァンス」
ミレイユがアーロンを正面から見つめる。
その声には、微かな緊張と、確信があった。
「あなたに、派閥“澄眼派”への推薦を行います。」
「……え?」
アーロンは思わず息を飲んだ。
ミレイユは、ふと視線を落としたまま言った。
「……あなたがあの記録区に入ると決まったとき、正直、私は懸念していました。」
アーロンが静かに視線を向ける。ミレイユは続けた。
「あなたはまだ若い。戦場の記録も、幻夢戦争の残響も、血廟魔術の重さも……
その全てを抱えるには、あまりに繊細に見えたから。」
それは、初対面の頃からずっと抱いていた評価でもあった。
だが――違った。
「でも、あなたは“見た”。恐怖も痛みも、逃げずに。あの幻影の咆哮に飲まれず、
記録の核に手を伸ばし、他者の想いを継ぐ覚悟を選んだ。……
それは、私には真似できなかったことです。」
アーロンは言葉を失っていた。
ミレイユは、ゆっくりと、彼の目を覗き込むようにして言葉を重ねた。
「澄眼派が守るのは“記録”と“真理”です。ただ戦う力ではない。……けれど、記録を繋ぐには、
目を背けずに“見る”力が必要なのです。」
ミレイユは小さく笑った。
「そして、あなたは、それができる。」
彼女の言葉は、静かだったが確かな響きを持っていた。
だからこそ、続く宣言もまた、ゆるぎないものとなった。
「なので、アーロン・リヴァンス。あなたには澄眼派へ来ていただき
その“視える目“で私を補佐してもらいたい。」
「あなたの視る目は曇っていない。記録と記憶の狭間を歩いてもなお、
真っ直ぐ前を見ている。その目こそ、澄眼派が必要とする視座です。」
ミレイユは、静かに微笑んだ。
「正式な選定はギルド本部で行われますが、これは私個人の“意思”でもあります。」
アーロンは言葉を失った。
思わずアーデンの方を見たが、アーデンはただ穏やかに頷くだけだった。
「……ありがとうございます。でも、俺なんかで……」
「“俺なんか”と思う人間ほど、後の剣となるんですよ。」
ミレイユの言葉は、冗談めいていたが、その目は真剣だった。
アーロンは一呼吸置き、深く頭を下げた。
「……推薦、光栄です。身に余る言葉です……」
そのとき、ふすまが音もなく開いた。
「ほう。ようやく戻ったか。遅いな。」
黒衣の男――トゥリスが立っていた。
彼は片眉を上げ、少しだけ口元を吊り上げる。
「随分と成果を挙げたようだな。六爪たちも喜ぶ。」
「……トゥリスさん……」
「本日をもって、アーロン・リヴァンス。お前を正式に〈ルフ=アルヴェス〉の一員として迎える。
明朝、ギルド本部へ移動だ。準備を整えておけ。」
「……はい!」
アーロンの声には、はっきりとした熱が宿っていた。
屋敷の外では、まだ風が木々を撫でている。
その音はまるで、これからの旅を祝福しているかのようだった。
アーロンはもう、誰かの背中に守られて歩く者ではない。
自らの意志で歩き、誰かの背中となる――その旅路が、ここから始まる。
こちらのお話ではアーロンが“ただいま”と告げるその一言に、
この物語の第一部が一つの終わりと始まりを迎えました。
守られる側から、繋げる者へ。
過去を背負うだけでなく、それを未来へと紡ぐために歩む彼の覚悟が、
読者の方々の心にも届いていれば幸いです。
次章からは、より広い世界と、多様な人物
そして試練が彼を待ち受けます。
それでも、次からは新たな章へと移ります。
お手すきの際、もしくは気が向いて読んでみようかなと思った時などに一読いただけたなら
幸いです。




