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天翳なき瞳 ――禊の旅路を歩む者――  作者: ペケ
第2章 影より届く、命の封
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記録区への道程

主人公アーロンが、義父アーデンの元を離れ、旅立ちの一歩を踏み出します。

観測者ミレイユとの距離感が少しづつ縮まり、二人の間に静かな関係性が生まれ始める様子を描きました。

エイジェイ特有の曖昧な風土や五セル(5日)の過酷な旅路を通して、読んでくださっている

方々にも“記録区“の重みを感じでいただけましたら幸いです。

囲炉裏の灯が消えて間もない頃、朝靄のなかでアーロンは目を覚ましていた。

というより、ほとんど眠れなかった。




 昨夜、アーデンから聞いた“痛み”――焚き火に照らされた横顔と、

記録札に封じられた「誰かの死」の話が、今も胸の奥で燻っていた。




 (……自分は、その痛みを背負えるのか)




 答えのない問いを抱えたまま、アーロンは荷を背負い、母屋の玄関を出る。


 ひんやりとした空気が肌を撫で、朝の静けさが、心の内を際立たせる。




 「……行ってきます、義父さん。」




 障子越しの薄明かりが微かに揺れた。返事はなかったが、そこにアーデンの気配があった。


 言葉よりも確かなものが、そこにあった。




 〈継承の廟〉の門前。


 ミレイユが待っていた。薄灰の法衣に黒の外套を重ね、銀灰の髪を無造作に結んだ彼女は、朝露をまとうように静かだった。




 「トゥリスさんは?」




 「少し前に、先の集落で任務があると言って出ていきました。〈フィル〉ひとつ前ほどに……

 私と貴方の二人での任務という事になりますね。」




 その声音は淡々としていたが、瞳の奥にはわずかな揺らぎがあった。


 観測者として冷静を保つ彼女の内にも、まだ癒えぬ影が残っている。アーロンは、そう直感した。




 門を背に、ふたりは歩き出した。




 エイジウェイの地は、季節の輪郭が曖昧だ。


 湿り気を含んだ風が頬をかすめ、足元では、靴裏が湿土をわずかに沈める感触を伝えてくる。


 森の木々は朝露をまとい、枯枝の砕ける音が、沈黙の中に散っていく。




 「ここを出て、幻夢戦争記録区までは五〈セル〉ほど。途中、山地と枯れた渓谷があります。

 装備に不足は?」




 「いいえ。義父がすべて整えてくれました。道具、保存食、“武器”の備えも十分です。」

 アーロンは義父から譲り受けた、「特殊な短刀」を視線がふとかすめた。



 横目でミレイユがアーロンを見る。


 かつての少年は、すでに背を伸ばし、訓練で鍛えられた身体を持っていた。


 だが、それ以上に――彼の瞳には、あの夜と同じ“曇りなき光”が宿っていた。




 霧が森の地表を這い、朝露が葉を濡らす。


 空はまだ陽を通さず、灰色のまま静かに広がっていた。


 冷たい空気が喉奥を通り抜けるたび、アーロンは無意識に肩をすくめた。




 「……この道を進めば、あと三セルで峠ですね。アーデンの養子になってから外へ向かうのは、

 これが初めてですか?」




 「はい。外出も、これほどの長旅も、初めてです。でも――不思議と怖くはありません。」




 その答えは静かだったが、芯には確かな決意があった。




 「……強くなったんですね。」




 ミレイユは立ち止まり、少し首をかしげてアーロンを見つめる。


 その目は、風に揺れる葉を透かすように澄んでいたが、どこか遠くを見ているようでもあった。




 「昔のあなたなら、きっと怯えていた。でも今は……目を背けない人の目をしている。」




 「……そう見えるのは、ミレイユさんが、そう思ってくださるからです。」




 ミレイユは視線をそらした。その横顔に、一瞬、淡い影が差す。


 まるで、過去の記憶が一滴、心に落ちたように。




 「……あなたの瞳には、まだ光が残っている。それが、少しだけ、うらやましい。」




 風が、ふたりのあいだを撫でて通り過ぎていく。


 その沈黙は、どこかあたたかかった。




 ――旅立ちは、静かに始まった。




 道が険しくなるにつれ、空気もまた変わり始めていた。


 岩肌の剥き出しになった峠を越え、霧に包まれた林を進むたび、

 世界が少しずつ“異質”なものへと変貌していく。




 「……風が変わりましたね。」




 アーロンの言葉に、ミレイユは足を止め、空を見上げた。




 「ここからは“記録区の呼吸圏”です。幻夢戦争の記憶が、空気に染み込んでいます。」




 その声は冷静だったが、指先がわずかに震えていた。

 ミレイユの様子から、アーデンが率直な見解を口にする。




 「……恐ろしくは、ありませんか?」




 「恐れは、とうの昔に失いました。でも、忘れてはいけないものを……

 私は、まだ持っているつもりです。」




 「それは“信仰”ですか?」




 「いいえ“祈り”です。……誰にも届かなくても、祈り続ける理由が、私にはあるのです。」




 アーロンははっと息を飲んだ。




 (この人もまた、何かを失ってきたのだ)




 ふたりの足元には、砕けた石片と、かつての戦争の破片――曲がった金属、

 錆びた装具の残骸が無造作に散らばっていた。




 「僕はまだ若くて……無知です。

 でも、知りたいんです。“なぜ生かされたのか”を」




 「……ええ。だから私は、あなたの行き先を見届けたくなりました。

 観測者としてではなく、一人の証人として」




 その言葉に、アーロンは静かにうなずいた。




 霧の奥に、巨大な石柱の影が見えた。


 それは“外郭部”――記録区の入口だった。




 「……ここから先は、言葉では記せない“記録”があります。」




 アーロンは義父から渡された小さな符を握りしめる。


 足元の大地が、わずかに震えているように感じた。




 (義父さん、僕はこの先に何があろうと立ち向かいます。見ていてください、僕の選んだ“道”を…)




 その一歩が、彼を“記録”の奥へと導くのだと、アーロンは知っていた。



こちらの内容では、旅立ちの朝と、道中の空気、匂い、足裏の感覚などを“視覚以外“にも感じ取っていただけるよう描写しました。

また、より深くこの世界観に没入していただきたく、

この世界ならではの単位ーー<セル>=(日数の単位)、<フィル>=(距離の単位)、

<ティア>=(時間の単位)等々ーーを登場させております。

次回は“記録“の深淵へとその先に何があるのかを書いていきたいです。

よろしくお願いいたします。

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