第0章 影町に咲いた無垢のまなざし
罪を知る者に、救いは訪れるのか。
祝福なき地に生まれ、影の路地で息をひそめ、
人は、命を奪うことで生きていた。
殺しに意味などない。
けれど、あの夜——
ひとつの瞳が、すべてを変えた。
それは曇りなきまなざし。
恐れず、憎まず、裁かずに、ただ「在る」ことを許す眼。
天が沈黙したこの世界で、
人はそれを希望と呼ぶのか、それとも……赦しと呼ぶのか。
——これは、ひとりの少年と、ひとりの暗殺者が出会った夜から始まる、
天翳なき瞳の物語。
月が、濁った雲の裂け目からわずかに顔を覗かせ、朽ち果てた街並みに銀色の翳りを落とす。腐臭と鉄錆が入り混じる風が、軋む扉を鳴らし、割れた窓硝子を揺らす。ここは〈アノヴェス〉——犯罪と貧困の坩堝、澱影の国〈エイジウェイ〉の辺境にある影町。そこに横たわる無数の影のひとつに、今宵もまた新たな死が重なろうとしていた。
男は静かに、夜の帳の中を進む。名をアーデン。〈ルフ=アルヴェス〉の熟練の暗殺者にして、「血廟魔術」の継承者。
屋根の上を踏むたびに、月光が彼の足取りを掠め、またすぐ闇に呑まれていく。風すら欺く滑らかな動き。目指すは、赤封筒に記された標的の家。裏薬物と奴隷売買で財を築いた商人夫婦——その命運は、アーデンの刃に託されている。
標的の屋敷は、外観こそ粗末な木造だが、扉を開けた途端、内側には華美と腐臭の混在する空間が広がっていた。絢爛な絨毯、天井に吊るされた琥珀色の燭台、過剰な香が鼻を刺す。贅を尽くした装飾は、彼らの罪業の匂いそのものだった。
アーデンは表情を一つも動かさぬまま、音も気配も残さずに侵入する。壁の向こうに感じる護衛の気配——しかし、彼の動作に一切の迷いはない。すべては計算の範疇。標的の命運は、すでに彼の掌中にあった。
一閃。
刃が風を裂くと同時に、男が、女が、崩れ落ちる。悲鳴すら許されぬ速さ。血の匂いが空気に滲み、死だけが静かにその場に残された。
任務完了——そう、思ったその時だった。
「……だれ?」
か細い声が、閉ざされた扉の向こうから漏れた。
アーデンの背筋が微かに震える。無音のまま扉を押し開けると、そこにはひとりの少年が立っていた。まだ七つか八つか。痩せ細った体に、粗末な布切れを巻いただけの寝間着。頬にはかすかな擦過傷。凍えたような青白い肌。
だが——その瞳だけは、異質だった。
澄みきった青。怯えも怒りも、涙すらない。ただ、静かに、まっすぐアーデンを見つめていた。
まるで、すべてを受け入れるかのように。
アーデンは一瞬、息を呑む。その視線に射抜かれた瞬間、自分が「人間」であることを思い出してしまう。曇りなき、その瞳。まるで太陽のように、否応なく己の影を暴き立てる。
——この子も、標的なのか?
赤封筒には、確かに「家族皆殺し」とあった。つまり、少年もまた刃の対象であるはずだ。感情は不要。迷いも不要。任務は、常に絶対。
それなのに、刃が重い。数えきれぬ命を奪ってきた手が、今だけ、震えていた。
何故だ。
自分は何度も子を殺した。叫ぶ者を、泣く者を、笑う者を。それでも一度として心を乱されなかった。なのに——この少年の瞳だけが、自分の中の“何か”を壊してくる。
その時、少年が呟いた。
「……お父さんとお母さん、悪いこと……してたの?」
それは問いではなかった。まるで、夜空に溶けていくための独り言のようだった。
それでも、その言葉は鋭利な針となってアーデンの胸に刺さった。罪の上に立ってきたはずの彼の心に、小さな火が灯る。
——この子は、理解している。大人の偽善も、嘘も。けれど、それを責めもしない。ただ、自分の存在を受け止めている。
突然、気配。背後から迫る殺気。
アーデンは瞬時に身を翻し、襲い来る護衛の刃を捌き、逆手にした短剣で喉元を裂いた。血飛沫が、夜の空気を赤く染める。
だが——少年は動かなかった。微動だにせず、ただ静かにその光景を見つめていた。
その瞳が、アーデンにかつての自分を突きつけてくる。
「お前は、本当にこれでいいのか?」
「……名前は?」
自分でも意図せぬ問いかけ。だが、答えはすぐに返ってきた。
「……アーロン。」
その名に、ほんの一瞬、心が震えた。アーデンは静かに唇を噛み締める。懐から、血紋の刻まれた札を取り出した。それは〈封印札〉——任務失敗時、自らの痕跡と存在を完全に消すための禁術。その効果は絶大だが、代償として術者の“気配”までも焼き尽くすため、使用後は短時間での再行動が困難となる。
だが今、アーデンはそれを、アーロンの“庇護”のために用いる。
彼は床に膝をつき、札の角を咥えて小さく噛み破る。微細な血が染み出し、魔紋が淡く浮かび上がる。それを床に押し当て、静かに呪文を唱えた。
「——《沈影の結界》。」
青白い光が、部屋の内側から膨らむように広がり、壁・天井・床に染み込んでいく。空間そのものが“沈黙”するかのように、外界との繋がりが閉ざされていくのが分かる。音も、気配も、記憶も、ここに存在したすべてが宙に溶けていく。
少年は、その様子を不思議そうに見つめていたが、やがてそっとアーデンに訊ねた。
「ここ、もう見つからないの?」
「ああ。誰も、お前を見つけられない。しばらくは、な。」
アーデンは言葉を選んで応える。だが、それでは足りないことも、彼はよくわかっていた。
この子を、このまま“閉じ込める”だけでは……いつか、また命を狙われる日が来る。
——選ぶなら、今しかない。
彼は静かに立ち上がると、少年に背を向け、扉へと歩を進める。が、ふと足を止めた。
そして、振り返りざまに言った。
「来い、アーロン。」
少年は目を見開いた。ほんの一瞬の戸惑いののち、小さく頷き、裸足のままアーデンの後を追う。
アーデンは、上着を脱いでアーロンの肩にそっとかけた。
「冷える。……声を出すな。目は閉じなくていい。お前の“その瞳”だけは、閉じるな。」
風が、結界を越えて入り込んだかのように、室内がふっと揺れた。術式の効果が最大に達し、空間は沈黙に閉ざされた。まるで、この場所に「最初から誰もいなかった」かのような、虚無の世界。
アーデンはアーロンを腕に抱き、窓を蹴って闇の中へ飛び出した。
裏路地の屋根を飛び渡りながら、風を切る音だけが夜を裂く。アーロンは何も言わなかった。ただ、アーデンの背に顔を埋め、しがみついていた。
その小さな指の温度が、アーデンの胸にじんわりと残る。
数日後——。
〈ルフ=アルヴェス〉の裁定室。重く冷たい石の空間。そこにアーデンは立っていた。任務放棄、対象逃し。その罪は、通常即刻の処刑を意味する。
だが、一人の男が立ち上がる。ギルド幹部にして、アーデンのかつての戦友「トゥリス」。
「その子が、未来を変えるとでも思ったのか?」
鋭い問いに、アーデンは目を閉じる。そして、ただひとつの答えを告げた。
「……あの瞳を、消したくなかった。」
その言葉に、空気が凍る。やがて、重苦しい沈黙の末に下された処分は、命の猶予——訓告と監視。死ではなかった。
こうして、アーロンは死の運命から解き放たれ、アーデンの手で育てられることとなる。
名もなき裏通りで交わされた一つの出会いが、やがて世界の均衡を揺るがす禊ぎの旅へと繋がることを、このとき誰も知る由はなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この第0章は、アーロンと義父アーデンの「出会い」を描いた物語です。
裏路地に咲いた、曇りなき瞳。その一瞬の邂逅が、この長い旅の始まりです。
そして——これは、私にとっても初めて物語を“書き始めた”瞬間でした。
これまで物語の世界に触れることはあっても、
自らキャラクターを生み、世界を築くことは、どこか遠い夢のように思っていました。
でも、「もし、自分にも創作することができるのなら」
そんな気持ちでペンを握り、この第0章を書き上げました。
未熟な部分も多いかと思いますが、
それでもこうしてひとつの物語を形にできたことは、私にとって大きな一歩です。
アーロンがこれからどんな“禊の旅”を歩むのか。
その道を、読者の皆さんと一緒に見届けていけたら、本当に嬉しく思います。ここから、私にとっても本当の「旅」が始まります。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。