第九章・十一章
第九章
突如、目が覚める。
嫌な予感がした。時計を見ると七時五十分を過ぎていた。このままでは遅刻だ!
新井は慌てて自宅を飛び出してエレベーターに飛び乗った。乗ってすぐに満員電車のように混んできた。タワマンの朝の通勤ラッシュはエレベーターから始まる。
ようやく一階に着くと一目散に駆け出す。
全力疾走しクリニックに着きタイムカードを押した時には八時十三分になっていた。
開業は九時からなので、それまでに入れば遅刻にはならないが新井は誰よりも早く出勤する事を自らに課していた。
「おはようございます。あら先生、今日は珍しいですね」
君江が厭味ったらしい挨拶をしてきた。
気にせず挨拶を返し院長室に入る。
あの女に先を越されたのが癪だった。
朝から気分が悪い。おまけに昼食を買い損ねた。今日は、オペもあるので忙しく昼休みに買いに行ける時間はなさそうだ。
誰かに買ってきてもらおうと思った。君江に頼むのは癪なので、しおりか麗佳に頼む事にした。多分快く引き受けてくれるだろう。
資料を読む。二件の白内障手術だ。大変だが仕方がない。オペのためナースの休憩をずらし対応しようと思った。
五分後。
院長室にやってきた麗佳にわけを話したところ「私が買ってきます!」と走って行き近くのコンビニで、おにぎりを買ってきてくれた。始業前の忙しい時間なのに文句も言わずに買いに行ってくれた麗佳に感謝した。
「院長、これで良かったですか?」
おにぎりは、好物の鮭と梅干しで食後のデザートにプリンまで買ってあったのには感心した。
「ありがとう」と言うと「いえいえ」と言って麗佳は意味ありげにウインクし、ポニーテールを揺らして出て行った。
麗佳か……なかなかいい子だな。
新井はそう思いながら、おにぎりを冷蔵庫に入れた。
第十章
土手に自転車を停めた。
省吾は土手を降り、川べりのブロックに腰をおろした。土手を談笑しながら自転車で走ってゆく女子高生たちの声が聞こえた。下校時刻なのだろう。ポケットから赤いガラケーを取り出した。年季物で色褪せていた。
誰も電話などしてこないが求職活動に必要なので持っている。
この前、求人誌を見たが、レストランの皿洗いや介護など省吾にとっては応募する気すら失せる仕事しかない。きっと応募したところで断られるだろうし採用されても三日と持たないだろう。すねかじりのダメ男。そんな自虐的な言葉が浮かんできた。
思わず石を川面に投げる。畜生! と心の中で叫びながら投げた石は水面を蹴って向こう側の中州に落ちた。
土手を見上げると自転車を押しながら並んで歩く高校生の二人連れが見えた。長い髪を風になびかせた女子高生と、元気そうな男子高校生が寄り添うように歩いていた。
その青春そのものの姿が眩しすぎて嫌になる。思わず小石を蹴った。
ふと足元がキラリと光った。目を凝らすと銀色のライターみたいなものがあった。
拾ってみると約五センチの四角形で角は丸みを帯びまるで鏡面のようだ。厚みは一センチほどで表面に小さな文字のようなものが刻まれていた。見た事のない文字だ。表面は全く傷がない。河原に落ちていたのに、その物体は見事な程に傷がなかった。思わずポケットに入れた。
突然、クラクションがけたたましく鳴り響いた。赤いスポーツカーのウィンドウが降りて若い男が首を出した。
「こんなところにチャリなんか止めるんじゃねえ! 邪魔なんだよ、邪魔!」
真っ赤な顔をして怒鳴りつけてくる。思わず省吾は車の方向へと走り出す。
「何だと! この野郎!」大声で叫ぶと、その男は馬鹿にしたような目をして車を走らせた。省吾が息せき切って土手に着いた頃には車の後姿は豆粒のようになっていた。
「馬鹿にしやがって!」省吾は豆粒に向かって叫んだ。通りがかった女子高生が急いで走り去った。年配の男が非難するような目つきをした。省吾は思わず睨みつけると、男は慌てて去っていった。
省吾は自転車に乱暴にまたがると家に向かって走り出した。陰鬱な黒雲が迫っていた。
あの事件さえなければ……そう思うと悔しさで、ペダルに力が入る。
「うあああ! 畜生!」絶叫しながら自転車を走らせた。通り過ぎる人々がギョッとした視線を向けた。頬を熱い涙が伝っていく。視界がぼやけた。怒りと黒い怨念の炎が胸の内で激しく燃え盛る。
周囲の人々がまるで狂人を避けるように離れてゆく。そうさ、俺は狂人だ。せいぜい睨みつけるがいい。
心の中でそう叫びながらペダルを踏んだ。
第十一章
数日後の夕刻。
新井たちは、町田駅近くのイタリアンレストラン「フィレンツェ」を訪れた。クラシックのかかる静かな雰囲気の中、ウェイターが運ぶパスタやピッツァ、ムール貝のソテーなどの香ばしい香りが食欲をそそる。
「先生とこんなところに来るなんて、何だか嬉しいです」
麗佳がワインをそっと口にした。
しおりは心なしか緊張しているようだ。
今日は「若手のナースに日頃の憂さを晴らしてもらう」という目的で新井が食事に誘った。麗佳と、しおり、そして飯島未祐に声をかけたが、未祐は彼氏とデートの約束があるから、と断った。そこで麗佳としおりの二人を連れてきた。
「そうだ、園崎さんは何が好き?」と新井が訊くと、しおりは質問の意味が解らない様子だった。麗佳が「お酒よ。『どんなお酒が好きかな?』って聞いているのよ」としおりに助け船を出した。
「私はビールかワインを軽く飲む程度です」しおりは恥ずかしそうに瞳を伏せた。
「ビールやワインか。僕も好きだよ」
「でも、先生はきっと高いワインとか、高いビールとか飲まれているんじゃないでしょうか?」と言って、しおりはまた目を伏せた。
「ううん、僕はワインはメルシャン、ビールは国産だよ。国産はうまいんだ。と言っても酒に弱くて、あまり飲めないから、偉そうなことは言えないね」と言って新井が笑うと麗佳もしおりも笑った。
「でもこんな高級そうな店に連れて行ってくれるなんて」と、麗佳が言うと、新井はピッツァを小皿に取り分けた。
「今日は、日ごろ頑張ってくれている二人へのご褒美だよ」と言ってピッツァを口に放り込んだ。マルゲリータのチーズとトマトソースが絶妙に絡み合いほどよく焼かれた生地のパリっとした食感が広がる。それはこの店が隠れた名店であるという事を証明していた。
この店は学生時代につき合っていた吉田真美がお気に入りの店だった。味もあの頃と全く変わらない。学業に、実習に、そして国家試験に向けての勉強に忙しかった医学生時代に暇を見つけては真美とこの店に来たものだった。
ふと、そんな昔の事を思い出した。しおりはピッツァを恐る恐る食べ始めたが、すぐ満足そうな表情を浮かべた。
「園部さん、美味しい?」と新井は訊いた。
「ええ。すごく美味しいです」恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「パスタも来ましたね」
麗佳がそう言うと若い男のウェイターが、イカ墨パスタ、あさりのボンゴレ、ブロッコリーとトマトのアンチョビパスタの三皿を持ってきた。どれも湯気が立ち上って美味そうだ。しおりが恐る恐るボンゴレに手を出し、うっとりとした表情を浮かべた。
「おいしいです」しおりの声が弾んでいる。
「この店は学生の頃、よく来たんだ」
そう言うと、麗佳が興味深そうな瞳を向けた。
「もしかしたら彼女と?」
女はなぜ、こんなにも直感が鋭いのだろうか?
「昔の、ね」麗佳が興味を持った視線を向けてきた。
「私も、先生の恋バナを聞きたいです」横から、しおりまで訊いてきた。
女と言う生き物はなぜ恋バナが好きなのだろうか、と新井は思いながら話し始める。
真美との出会い。医学部時代の熱い恋の日々。そして真美と別れた事も。
だが、あの事件の事については、やはり言えなかった。真美との別れについては「いろいろあってね」の一言だけで誤魔化した。
「えー? そこが知りたいんですよ」
執拗に麗佳が食い下がったが新井は笑って誤魔化すほかなかった。
残念がる麗佳としおりに意味ありげな笑みを浮かべて新井はパスタを口にした。
調子に乗って何杯も白ワインを飲んだためか顔が火照る。店を出て二人を駅まで送り、足早に通り過ぎる人々や通りの車の音を聞きながら歩いた。
足取りもおぼつかない。
今日は酔って麗佳も饒舌になっていた。普段は物静かなしおりも、少し陽気になり楽しそうにしていた。
二人から君江と房子の事も聞き出せたのは収穫だった。やはりこの二人は陰湿な新人いびりの常習犯でしおりも犠牲になっている事をしおり本人から聞き出せた。しおりは少し涙ぐみながら、この二人にいじめられている事を新井に打ち明けた。また、麗佳はあの二人は古いやり方に固執し威張り散らすだけで能力もない、と珍しく厳しい口調で言った。
「先生。早くあの二人を辞めさせていただけませんか?」と麗佳が言うのを聞くと放置はできない。だがあの二人を辞めさせるには父を説得しなければならない。長年勤めてきた二人の解雇には、猛反対するだろう。何と説明したらいいのだろうか。理由を述べたところで納得するとも思えない。
ふと気がつくとエクセレント町田は目の前にあった。
新井はエントランスの中へと入った。