第七章-第八章
第七章
その日の夜。
新井はリビングでテレビを見ていた。だんだん眠くなってきた。その時である。
音が聞こえた。
ピ!
ピ!
何だろう?
あの銀色の物体が音を立てたようだ。
手に取ってみた。物体の真ん中に薄緑色の文字のようなものが浮かび上がっていた。
しばらく眺めていると、文字のようなものも消えた。
気味が悪いので捨てようかとも思ったが、もう少し様子をみる事にした。
第八章
目が覚めた。カーテンを母が開けて仕事に出かけたらしく、まぶしい太陽が照らしていた。
躰を起こし毛布をどける。昨日もついアトリエで飲みすぎてしまったようだ。
体がだるい。酒も以前より弱くなった。日展で入賞し銀座の画廊たちが群がるように自分の絵を求めていた頃は、夜ごと「ロマネ・コンティ」「シャトー・シルヴァル・ブラン」「ウニコ・ヴェガ・シシリア」などの一本数十万~数百万円もするワインを金に飽かせて飲みまくったものだが、今は国産のメルシャンやトリスを飲むのが関の山だ。
ジャンヌ……。
ふと昔、パリで出会った女の名前を思い出した。ジャンヌ・ロベール。金髪碧眼の端正な顔立ちでアルプスの雪よりも白い肌を持ちエーゲ海よりも青く澄んだ妖艶な瞳の女でどこに行っても男どもの心を捕らえた。二十数年前、気鋭の新人画家として名をはせた省吾が、武蔵野美術大を中退し、パリにアトリエを構えていた頃の事だった。ある夜、場末のバーでピアノを弾いている美しい女に出会った。それがジャンヌだった。話しかけても最初は相手にしてくれなかったが省吾が何度も声をかけるうちに、ジャンヌも東洋から来た若い男に少しずつ興味を示し、演奏の合間に会話を楽しむようになった。ジャンヌはマルセーユ出身でパリの大学に通う学生だった。物価の高いパリでの生活費を稼ぐためバーでピアノを弾くようになった。日本の文化にも興味を示し、いつの日か「キョウト」「ナラ」に行きたいと言っていた。
そんなある日の夜更け。セーヌ川のほとりのアンジュ―通り沿いの小道を曲がると女の叫び声が聞こえた。
「いや! 離してよ!」
「おいジャンヌ、いいだろう? 俺たちに付き合えよ」男たちの声がした。ジャンヌが二人組の男に囲まれている。
一人は短髪で頬に深い傷のある背の高い栗毛の男で、もう一人は顔一面の醜い吹き出物と反っ歯が目立つ金髪の小男だ。二人とも一目でゴロツキとわかった。
通り過ぎる人々は関わりを恐れて足早に走り去ってゆく。
省吾は栗毛の男の肩を掴んだ。
「おい、嫌だって言っているじゃないか」
省吾がそう言うと、栗毛の男は、振り返って不敵な笑いを浮かべた。
「日本人か。怪我しないうちにさっさと消えな」と言った。
ジャンヌが怯えた眼で見ている。
「ショウゴ! 逃げて!」
ジャンヌが叫んだ。
「おい、女が『逃げて』って言っているぞ。おうちに帰ったらどうだ? ここは、てめえみたいなガキの来る所じゃねえ」
と言って栗毛は省吾を睨みつけた。
「言いたい事はそれだけか」
「何だと! このガキ!」言うや否や栗毛のパンチが飛んできた。
省吾はパンチをかわすと、その顔に強力な一撃を食らわした。
「ひい!」
男は鼻を押さえながら後ろへと飛んだ。その手から血が流れている。
「野郎、ふざけやがって!」栗毛が飛びかかってきた。ひらりと避けて回し蹴りを食らわすと男の後頭部に命中し昏倒した。
「こ、この野郎!」今度は小男が怯んで叫びポケットからナイフを取り出した。
「ぶっ殺してやる!」ナイフで突き刺してきた。
咄嗟に手首に蹴りを入れた。
夜空にナイフが飛び、すかさず強烈な突きを小男のみぞおちに食らわせた。
「ぐふ!」おかしな声を出して小男はうつ伏せに倒れた。
「ジャンヌ。怪我はないか?」へたり込んでいるジャンヌの手を取って起こした。その肩が震えていた。
「大丈夫よ。それより、逃げよう!」
「ああ」
ふたりは無我夢中で駆けだした。
どれほど走った事だろう。セーヌ川を渡りノートルダム大聖堂の近くに来た。
「ここまで来れば大丈夫だ」
「うん」
二人は道端に腰をおろした。
「怪我はないか? 本当に?」と訊くとジャンヌは首を振った。
「大丈夫よ」
「一体、あいつらは誰だ?」
ジャンヌは眉をひそめた。
「ジルベールよ。金持ちの息子だけどチビで嫌な奴。しつこく私をつけ狙っているの。ショウゴがやっつけてくれて清々したわ」
「もう一人の栗毛の男は?」
「ガブリエルよ。こいつはジルベールの友達なの。乱暴者で最近まで刑務所に入っていたって噂よ」ジャンヌはそう言うと、そっと省吾の肩に手を触れた。
「さっきは、ありがとう。ショウゴは強いのね」
「昔、空手をやっていたんだ」
そう言いながらジャンヌの手に触れると、ジャンヌはその手を握った。
「行きましょう」
ふたりは夜のパリの帳へと消えていった。
翌朝、目覚めると、隣にジャンヌの温もりを感じた。生まれたままの姿をしたジャンヌは幸せそうな寝顔を浮かべている。そっと髪に触れた。朝の陽ざしに照らされた白い肌と金髪に思わず見とれてしまう。
そっと頬に触れると、ジャンヌが目を覚ました。
「ショウゴ……おはよう」
「目が覚めたかい?」
「うん。私、実はね……」熱い瞳で見つめながらジャンヌが悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「何だい?」ジャンヌの髪を撫でる。
「昨日、ショウゴに『逃げて!』って言ったけど、きっとショウゴは私を見捨てて逃げたりしないって分かってた」
「当たり前だろう。お前を捨てて逃げたりするもんか」そう言うとジャンヌは抱き着いてきた。その柔らかくて暖かい身体を離したくないと思った。
「ショウゴ。行こう」
「どこに?」
ジャンヌは省吾の頬にそっと触れた。
「パリじゃない、どこかに」
翌日。
パリからローマまで列車に乗った。飛行機を使えば二時間で着くが、省吾もジャンヌもゆっくり鉄道の旅を楽しみたくなったのだ。
ローマまで十時間ぐらいかかったが移り行く広大な田園地帯や、どこまでも続く森の木々や大草原を眺めながら楽しく過ごした。
イタリアへの入国は実に簡単だった。列車でいつの間にか国境を越えていた。フランスもイタリアも同じEU加盟国なので、入国審査はとっくの昔に廃止され国境などないに等しい。
ローマで列車を降り駅近くのヒルトンに泊まった。奮発しスウィートルームに泊まってみた。豪華なシャンデリア、普通の日本家屋よりも広い部屋が三つもあり、バスルームは大きなジャグジー風呂でローマの夜景を楽しめる。格調高い本革のソファー、大きなテレビもあり、シアタールームすらあった。
「凄い! ショウゴは、お金持ちなのね!」
ジャンヌが驚いている。
「ちょっとギャラが入っただけだ」
涼しい顔をして言う省吾にジャンヌが抱きついた。パリジェンヌの甘い香りとその柔らかな感触に省吾は喜びを覚えた。
「ショウゴは日本で画家をやっているんだよね? どんな絵を描いているの?」
ジャンヌは興味深そうな瞳を向けた。
「俺の絵は『前衛芸術』なんて日本の画壇では言われている。奇抜な絵も描いたが俺の本当に描きたいものとは違う」
「じゃあショウゴは何が描きたいの?」目を輝かせて訊いてくる。
「そうだな。お前のような綺麗な女だ」ジャンヌは省吾の胸に飛び込んできた。
熱い愛の宴の後、省吾の腕枕の中でジャンヌは心地よさそうに寝ていた。その柔らかな金髪をそっと撫でる。白い肩がときおり震えた。
「ねえ、ショウゴ」ジャンヌが甘えた声を出した。
「何だ?」
「明日は、どこに行く?」
そうだな、と言いながら、省吾は天井を見つめた。白い天井には灯かりを落としたシャンデリアが微かな輝きを見せていた。
どこがいいだろう? コロッセオ? ピサの斜塔? フィレンツェ? ミラノ? ヴェネチア? 色々考えたがイタリアには名所が迷うほど多くあった。
「お前はどこに行きたい?」逆にジャンヌに訊いてみた。
「そうね、やっぱりヴェネチアやローマは外せないわね。でも、本当はギリシャにも行きたいわ」そう言いながら省吾のたくましい胸板を愛おしそうに撫でる。
「ショウゴの逞しい肉体は、まるでアポロンのようね」
アポロンか。
思わず苦笑した。
ジャンヌの目からは、省吾はギリシャ神話の神アポロンに見えているのだろう。
アポロン。ギリシャ神話のオリュンポス十二神のうちの一柱である。アポロンは最高神ゼウスとレトの子で、狩猟の女神アルテミスとは双子の兄になる。詩歌、音楽、予言、弓術、医術を司る神とされている。
そのアポロンと東洋から来た得体の知れない画家を一緒にされてはアポロンも困惑するだろう。そう思って苦笑したのだ。
「俺がアポロンなら、お前はヴィーナスだ。お前こそオリュンポスの神々の中で最も美しい女神ヴィーナスだ」
「本当? 嬉しいわ!」ジャンヌは省吾を固く抱きしめ背中に爪を立てた。省吾は優しく口づけをした。
翌朝、コロッセオに出かけた。古代ローマ時代に建てられたその円形闘技場が近代都市の片隅に残っている事が不思議に思われた。
「あれがコロッセオね。あの闘技場で一体どれぐらいの人々の血が流されたのかしら」しみじみとジャンヌが言うと、省吾もうなずいた。
「古代ローマには剣闘士と呼ばれた奴隷が見世物になって殺し合いをしていたんだ。時には猛獣を相手に戦ったりしたそうだ」
「ひどい話ね」
ジャンヌが眉をひそめる。
「そうとは限らないよ。剣闘士は奴隷だったが今でいうボクサーのようなもので勝てば観客から拍手喝采、多額の賞金も与えられて贅沢な暮らしもできたらしい」
「そうだったの? ボクサーみたいだね」
ジャンヌは感心したように見えた。
「ショウゴはどこかの教授みたいね」と言ってジャンヌは笑った。
「それほどでもないさ」
「ううん、凄いわ。尊敬する」その青い瞳が敬意を表していた。
「私の周りにはショウゴみたいな人、いなかったもの」ジャンヌの柔らかな手が省吾の手に触れた。省吾はそっとその手を握った。
ふたりはコロッセオの前で固く抱き合い口付けをした。時が止まる感じがした。
ふと我に返るとウイスキーの空瓶が転がっていた。もう午前十時だ。今日もまた朝から飲んで気がついたら夕方になるのだろうか。
生きていても楽しくないし、できれば早く死にたいが、なかなか死ねないから困る。
街は忙しなく動いているのに自分だけが時が止まったままだ。
ローマにいた頃は、どこに行っても女たちが振り返り、ジャンヌをよく妬かせたが、最近では女など寄り付きもしない。
五十に手が届きそうなこの顔の眉間には、深い縦皺が刻み込まれている。きっと寄り付きがたい雰囲気を醸し出しているのだろう。
今日も母の作り置きの昼食を食べ、缶ビールを開けるだろう。それから自転車に乗って出かけ、帰ってきたらまた飲むだろう。そして酔いつぶれて朝になる。
省吾は、しばらく空き瓶をながめていた。