第四章
第四章
日曜。しおりは東海道線に乗っていた。
陽ざしに目を細め青い海を見ていた。腕時計は午前十時を差していた。
もうすぐ熱海に着く。在来線を乗り継いで来た。躰を揺らす心地よい列車の揺れと日頃の疲れで眠気を感じる。突然、暗くなる。ゴーッという音と車窓にトンネルの照明の筋が走る。自分の瞳が寂しげに写っている。
今日は二十四歳の誕生日だ。高校を卒業し一度別の仕事に着いた。それから看護師になり、初めての誕生日が来た。
幼い頃からの夢だった看護師になれたけど職場では未だに受け入れられていない。とりわけ師長の吉田君江、古株の若林房子との関係がうまくいかない。ちょっとしたミスでもすぐに叱責の声が飛んで来る。他の看護師は同じようなミスをしても笑って許してくれるのに、しおりのミスはどんな些細な事でも槍玉に挙げられる。
金曜日の午後。君江が些細なミスに罵声を浴びせた後、「あなた、この仕事に向いていないんじゃない? そろそろ考えたら?」と言った。隣で若林房子も笑っていた。
あの事が頭から離れない。
「負けちゃダメ」
と、自分を励ますが、意に反して熱い涙がこみ上げてきそうになる。なぜ自分だけが?
と思うと言い知れぬ悲しみが湧いてくる。
しばらくして青い海と多くのホテルが見えてきた。
ホームに降り改札を抜け、駅前に出ると賑やかな様子が目に飛び込んできた。平和通り商店街を歩いていくと、店先に並んだ蒸し器から湯気がたちのぼり観光客が温泉饅頭を求めて立ち寄っていた。老夫婦が土産物を品定めし、別の家族連れが饅頭を頬張っていた。みな楽しそうだ。
不意に寂寥感が襲ってきた。
足早に店先を通り過ぎ商店街を抜け坂道を下る。湯気が立ち上り人々が腰を下ろし足湯を楽しんでいた。
海岸沿いの大通りに出た。南国を思わせるヤシの木が道沿いに生えていた。
堤防が見える。
海だ。
晩秋のビーチは閑散としており散策をしている人もまばらだった。
砂浜に足を踏み入れた。スニーカーが柔らかな砂にめり込む。打ち寄せる波の音と潮騒の香りが心地よく感じた。
大きな木の幹が転がっていた。かなり古いようで風化し表面はまるで磨いたようにつるつるとしていた。流木だろう。しおりはそれに腰を降ろし海を眺めた。
小さな蟹が歩いていく。蟹の足元に小さな波が来た。波で濡れた蟹が海に向かう。やがて大波が来て蟹は消えた。
波に乗ったんだ。
しおりはそう思った。それに引き替え自分は? 職場では、何かと君江と房子が目の敵にするから他のナースたちも関わり合いを恐れ、よそよそしく接してくる。
麗佳だけは君江や房子の目を盗んでこっそり助けてくれるが、他に頼れる人はいない。もし麗佳がいなければ、とうに辞めていただろう。だから麗佳には恩義を感じるが同時に自分の無力さを思い知り複雑な気分になる。でもどうして麗佳は自分を助けてくれるのだろう? それがしおりには不思議だった。
子供の頃の夢は叶ったが、君江や房子の陰湿ないじめで神経がおかしくなる。いつの日か、自分もあの蟹のように波に乗れるだろうか。しおりは思わずかぶりを振った。