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第一章(後半)

 カフェを出てまた車で走る。こうして二人でいると、まるでデートをしているような気がした。麗佳の事だから多分彼氏はいるに違ない。ふと見ると、いつの間にか麗佳は寝ていた。そっとしておこうと思った。ちょっと走ってみる事にした。伊勢原大山インターとは違う方向にハンドルを切った。


「篠崎さん、着いたよ」

 新井は心地よさそうに寝ている麗佳に声をかけた。だが起きない。そっとしておいた。

 外に出る。

 抜けるような青空だ。

 木々は美しく彩りを深め、湖面を揺らす風は微かな冷たさを秘めていた。

 湖畔に小さなコテージが見えテラスでは子供たちが楽しそうに、はしゃいでいた。

 こうして都会の喧騒から離れると、心が穏やかになる。

 車に戻ると麗佳はいなかった。探したがどこにもいない。

 トイレにでも行ったのだろうか。

「先生!」麗佳の声がした。振り向くと麗佳がソフトクリームを二つ持って立っている。

「どうぞ」麗佳がソフトを差し出した。

「ありがとう」

 受け取って食べてみた。濃厚なミルクの味がして、とても美味しい。

「おいしいね!」麗佳が笑顔を見せた。

「結構並んでいたんです。やっぱり正解でした」麗佳もソフトを頬張った。

 目が合った。

「やだ、私が食べるところをあまり見ないでくださいよ」照れくさそうに笑う。

「何だか美味しそうに食べているなぁと思ってね」麗佳が恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「そんな、何だか食いしん坊みたいで恥ずかしい」麗佳は照れくさそうにした。

「すみません、つい寝てしまって」

「いつも頑張っているからね」麗佳は嬉しそうな目を向けた。

「ありがとうございます。ここ、津久井湖ですよね?」

「そうだよ。よく来るんだ」

「いい所ですね」

 麗佳はそう言って湖面に目を向けた。

「少し、散歩してみない?」と誘ってみた。「ええ、いいですよ」と麗香は言った。

 ふたりは公園の周りを歩き始めた。

 人工湖でもある津久井湖は、都心からアクセスが良く休日には多くの人で賑わう。津久井湖周辺は、城山ダムや、レストランや公園などレジャー施設も林立している。休日なのに公園は閑散としていた。遠くに丸い球体のオブジェや噴水が見える。

麗佳の黒いブーツが軽やかに歩みを運ぶたび白のミニスカートが秋風にはためく。麗佳は楽しげだ。

「あそこに座ろうか」

「はい」ふたりは、ベンチに腰を下ろした。

 津久井湖が見える。山々の燃えるような紅葉が映えていた。

「もう、すっかり秋だ」と新井が言うと麗佳も楽しそうに足を組み、「そうですね」と言って長い髪をといた。その白い足と黒のブーツのコントラストが実に艶めかしく見える。

「スポーツはされているんですか?」と麗佳が尋ねる。新井は大学時代にラグビーをやっていたが、今は何もしていない。

「昔、ラグビーをやってたよ」

「ラグビーですか、かっこいいですね」麗佳の目は憧れを見せていた。

「篠崎さんは?」新井が尋ねると麗佳の目が一瞬、戸惑いをみせた。

訊いてはいけなかったのだろうか?

「やってませんね」と、言って麗佳は微笑した。

「今は僕も同じだよ」

「忙しいですものね」麗佳は湖面に目を移した。前髪をそっとかき上げている。

「きれいですね。見てるだけで心が穏やかになる気がするんです」

「そうだね」

 やがて直径二メートルほどのコンクリートでできた丸いオブジェが見えた。立ち止まり二人はしばらくそれを眺めた。

 


「じゃあ、お疲れさま! 気をつけて帰ってね」

「ありがとうございます。先生も、お気をつけて」

 海老名パーキングエリアで麗佳を見送った時、ヨットマスターは午後六時半を差していた。ポルシェに乗り込み走り出した。

 ふと麗佳と付き合ったら、どうだろうかと思った。

 だが今はそれどころではない。

 論文の締め切りが迫っていた。

 本線に入るとアクセルを踏み込む。空冷エンジンが咆哮し矢のように走った。



 それから一か月が過ぎた。

 街路樹の落ち葉が積もり、殺風景な冬の光景が出現した。年の瀬も迫っていた。

 いつしか、あの物体の事も忘れ、新井は忙しい日々を過ごしていた。

 ある日の昼下がり。新井は院長室のソファーで一息ついた。無事に論文も提出し、午後の診察まで休憩したり文献を読むようにしている。

 ドアをノックする音がした。

「どうぞ」静かにドアが開いた。そこには若いナースが立っていた。白のナース服が眩しく感じられる。

「失礼します。コーヒーをお持ちしました」

 女はそう言ってそっとコーヒーとクッキーを置いた。ほっそりした白い指をしている。

「ありがとう、園崎さん」と言うと園崎と呼ばれた女はおずおずと頭を下げた。

 園崎しおり。麗佳の同僚のナースだ。麗佳の一つ下だ。活発な麗佳とは対照的で、おとなしく無口であまり笑わない。

 黒のショートヘアと丸い大きな目が幼さを感じさせ、二十四とは思えない。女子高生のように見える。緊張で、うなじが微かに震えていた。幼顔に似合わぬその豊かな胸の膨らみと美尻に、つい目が行ってしまう。

「園崎さんは頑張ってるね」と言って新井はコーヒーに口をつけた。

「いいえ、私なんて。まだまだです」と言ってしおりは目を伏せた。

「そんな事ないよ。園崎さんは人一倍、頑張っているよ」と言うと、しおりは嬉しそうな目をした。

「……では失礼します」しおりは恥ずかしそうに出て行った。新井はしおりの奥ゆかしさに心を動かされた。今時の子にしては珍しいと思ったのだ。麗佳が美しい薔薇とすれば、しおりは可憐な桜である。新井はどちらも気に入っていた。

 深々と黒革のソファーに身を沈める。日頃の疲れが一気に襲ってきた。心地よい眠気に包まれて意識が薄れていく。

「失礼します。先生、手術の資料をお持ちしました」ノックの音と共に、ドアが開く。

 ハッと我に返り、慌てて身を起こす。

 麗佳が、そんな新井の様子を見てクスッと笑った。

内心慌てながらも新井は平静を装った。

「ありがとう」と言うと麗佳が深々と頭を下げ出て行った。左右に揺れる黒いポニーテールが目に入る。この前の楽しい記憶が唐突に蘇った。

 机の上の資料を見る。

明日予定している白内障手術だ。患者(クランケ)は四十五歳の男だ。水晶体の白濁部位を撮影した写真を見てみる。こうにも高度な水晶体の混濁が見られては点眼薬も効果がないだろう。

現在の医学では、一度濁った水晶体を透明な状態に戻せる薬はまだ存在しない。代表的な薬としてカリーユニやタチオンがあるが進行を遅らせるだけだ。

 白内障も投薬で治せるようになればいいのだが、と新井はいつも思う。

 壁にかかっている絵画がふと目に入った。まるでピカソのような奇抜な絵だ。院長室にかける絵としてはふさわしくないかも知れないが気に入ってかけている。

 絵の片隅にオレンジ色の字で、「Shogo Toyama」とサインが書かれている。

 ショウゴ・トオヤマ。そんな画家など聞いたことがない。無名画家の作品だろう。昨年の冬、クリニックの倉庫の中で埃を被っていたのを見つけて院長室にかけた。

 その絵の奇抜な色使いの様子……例えば人々の背後に赤や青や黄色や緑などの幾何学的な模様が無茶苦茶に広がり狂人が描いた意味不明な絵画のようにも見えるが強烈な印象を与える。だが無名画家の作品など誰も見向きもしない。だから倉庫に放置されていたのだろう。

 新井は、その絵が可哀そうに思えて自分だけでも価値を認めてやろうと思い、院長室に飾った。

 しばらく新井は、絵を眺めていた。

 

 

 その夜。新井達は居酒屋にいた。

居酒屋で飲み会を開催したのだ。

 幹事は古株のナースの吉田君江である。吉田は既に六十二である。定年は六十だが嘱託として勤務している。今も師長としてナースたちをまとめ上げている。

「先生、揃ったみたいですわ」と君江は言った。相変わらず豚のように太った女だ。

「そうですね、吉田さん。みんなで何人だったかな?」

「総勢十三名です」と言って君江はコップに手を伸ばした。それから隣にいる若林房子に何やら話しかけて意地悪くクスクス笑っている。どうせ若いナースの悪口だろう。

 隣のテーブルは、麗佳やしおりたちなど若手のナースが座っており、おしゃべりに興じていた。しおりは黙ってうなずいている事が多く、あまり笑っていないようだ。こういう飲み会の場など、苦手なのだろう。それに比べると麗佳は同僚のナースたちに溶け込み話に華を咲かせている。二人の対照的な姿が印象的に思えた。

「院長。そろそろ始めますね」

 そう言ってから君江が大声を出した。

「皆さん! おしゃべりはそこまでですよ。今から始めますよ!」

 そう言うと、それまでおしゃべりをしていたナースたちが水を打ったように静かになった。

「院長、ご挨拶をお願いします」君江はそう言って新井に発言を促した。

「お疲れ様です。皆さんのおかげでクリニックの業績も昨年度に比べ大幅に良くなりました。また我々医療従事者の地域社会で果たす役割も年々重要性を増しています。近年コロナウイルスの流行など、大変厳しい状況が続きましたが、これからも地域医療の担い手として頑張って行きましょう」と言うと、大きな拍手が起きた。

「それでは、吉田さん、乾杯の合図、お願いします」

 そう言って君江に乾杯の合図を促した。

「じゃあ! みなさん! 乾杯!」

 君江がグラスを上げて音頭を取ると、

「乾杯!」「乾杯!」「乾杯」

 あちらこちらから元気な声が上がる。

 それを合図に賑やかな笑い声が起きた。

 師長の君江と房子は結構な酒豪だ。最初こそ遠慮していたが酒が回ってくると、一滴も飲めない新井にまで、しつこく酒を勧めてくる始末であった。

 鬱陶しいので小用を口実に席を立った。しおりの寂しそうな顔が見えた。周囲にあまりうまく溶け込んでいないようだ。

席に戻ると君江と房子が、若いナースたちのテーブルに陣取って管を巻いているのが見えた。二人とも相当酔っている。どうやら若手にお説教をしているらしい。

「ダメよ、そんな検査のやり方。緑内障は視野の欠損があるでしょう? だから……」

 君江や房子の太い声が響き渡り、周りのナースたちは神妙にしていたが、内心うんざりしているようにも見えた。新井はそれを見ながら、そっとコップにオレンジジュースを注いだ。

 

 午後九時半ごろにお開きになり、帰り際に君江と房子が二次会を呼びかけた。ほとんどのナースたちが参加していく。二次会に出るのは野暮と新井は別れを告げ帰る事にした。

 賑やかな繁華街を抜け歩道を歩く。夜の銀杏並木が街の明かりに照らされて幻想的な雰囲気を醸し出していたが道行く人々の目には入っていないように見えた。

 すっかり冷えて思わず身震いした。

 間もなく冬が到来するだろう。

 怪しげな風俗店の前には、黒服の男たちがたむろしており、さすがに「西の歌舞伎町」と称される事だけはある。

 やがて小田急町田駅を過ぎて、しばらく歩くと「エクセレント町田」が夜空にそびえたっているのが見えた。

 エレベーターに乗り三十五階で降りた。

 自宅の玄関を開け、居間の照明をつけた。あの物体が目に入った。

 それにしても一体何なのだろう?

 それよりも今日の飲み会でのしおりの寂しそうな様子が気にかかった。

 仕事は熱心にやっているが、君江や房子などに言わせると「どこか抜けている」と言っていた。では具体的にどこが抜けているのかと尋ねても曖昧な返事しか返ってこない。陰でこの二人がしおりにつらく当たっている、と言う噂も聞いた事がある。

しおりは誰かの悪口を言ったり職場の不平を言っている様子もないが内に秘めた悩みやストレスが相当あるだろう。

 彼女をもう少し気にかけなければ。

 そう思いながら窓の外を見た。

 地上に散らばった宝石のような街の灯りが目に入る。

 しおりと麗香。二人の対照的な性格はまさに光と影。白と黒のように感じられた。

 麗佳は大丈夫と思うが、しおりはうまくやって行けるだろうか?

 心配な気持ちが新井の胸の中に広がった。


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