第一章(前半)
若き眼科医 新井信二は、道端で奇妙な物体を拾った……その物体が導く不思議な出来事とは……そして世界はどうなっていくのだろうか?
歩道の落ち葉が鋭く光った。
新井信二は辺りをよく探してみた。
すると何かがある。拾ってみると五センチぐらいの四角形をした銀色の物体であった。
後でよく見ようと思いポケットに入れた。
晩秋の身を切るような寒さに思わずコートの襟を立てて急ぎ足で家に向かった。
玄関を開けた。暖房を強めにかけておいたので少し暑いぐらいだ。
この「エクセレント町田」最上階の三十五階の3501号室が新井の自宅だ。三年前に二億円で購入した。5LDKの物件なので一人で住むには十分すぎる広さだ。
夜にもなればリビングから西の歌舞伎町と称される町田の夜景を眼下に楽しめる。木目模様が美しいフローリングのリビングには八五型の8K液晶テレビや白い大きな本皮のソファーが置かれテーブルの上にはノートパソコンが置いてある。眼科医として忙しく働いているので日曜ぐらい家で過ごすのも悪くないが、少しもったいない気もする。
先ほど拾った物体を眺めた。厚さは一センチほどで奇妙な事に全く傷がない。また文字らしきものが刻印されていたが、何の言語なのか解らなかった。とりあえずテレビ台の上に置いた。
それから五分後。
新井は地下駐車場のポルシェ・カレラ911のエンジンをかけた。乾いた空冷エンジンのエキゾースト音が響き渡る。ギアをローに入れて一般道に出た瞬間、渋滞に巻き込まれた。
思わず苦笑する。
アクセルを踏み込めば時速〇キロから一〇〇キロへの加速が僅か四・二秒、最高速は時速二九三キロを誇るこの車も渋滞に巻き込まれたら無力である。道路のずっと先まで続いている車列にうんざりしてため息をついた。
横浜青葉インターから高速に乗ったのは午前十時頃だった。道は比較的空いており、アクセルをついつい踏み込む。空冷エンジンが咆哮し、シートに体が押し付けられメーターの針が一気に二百キロを超える。
遠くで点滅するハザードが見えた。渋滞のようだ。思わず舌打ちをした。
渋滞が思ったより長引くので海老名サービスエリアに入り、車を止めシートを倒すと、眠気が襲ってきた。
その時である。
コツコツ!
窓を叩く音が聞こえた。
大きな丸い黒のサングラスをかけている女が、こちらを覗き込んでいる。
女は笑いながらサングラスを取った。
「あ!」思わずパワーウィンドウを下げた。
「先生、おはようございます!」
同時に元気な声が聞こえた。篠崎麗佳だ。一年ほど前から新井クリニックに勤めている若いナースである。いつもの見慣れたナース服ではなく白のミニに黒のショートブーツ、ピンクの上着を羽織っており、豊かな胸には金色のハートのネックレスが光っていた。
その端正な顔が微笑んでいる。
いつもはポニーテールをしているが今日は長い黒髪を自然に風になびかせていた。
「おはよう、篠崎さん。髪型がいつもと全然違うね」思わず声が上ずった。
「お休みですから」麗佳は前髪をそっとかき上げた。その白い指には赤のマニュキュアが鮮やかに光っていた。
「先生がいたので、びっくりしましたよ」
「ああ、休もうと思って。どこかへ行くところなの?」
「いえ、特に」麗佳は微笑んだ。
「そうなんだ。いつも篠崎さんはよく働いてくれるから、すごく助かるよ」
「いえ私なんて。園崎さんの方がずっと動いていますよ」
園崎とは園崎しおりの事である。麗佳の同期だが一つ年下である。
「二人ともよく頑張っているね」と、新井が言うと麗佳は嬉しそうに笑った。
「先生が一生懸命にされているから、私たちも頑張れるんです。先生は凄くお忙しいのに私たちに何かと気を使ってくださるし……」
麗佳は前髪をかき上げた。
「今日は、どちらへ?」
麗佳は興味深そうな目を向けた。
「特に決まってないんだ」
「そうなんですか」
「そう言えば篠崎さんは、誰かと来たの?」
「いえ、一人です」麗佳が微笑んだ。
なぜか嬉しく感じた。
「どこに車を停めたの?」
「そこですよ」
麗佳が隣を指さした。
ピカピカの赤いクーペだ。トヨタ86である。きっと新車だろう。
「あ、86じゃないか。いい車に乗っているんだね」
「つい無理してローンで買っちゃったんですけどね」そう言いながらも嬉しそうだ。
「中はどんな感じ?」新井は車の外に出た。
中を見ると女性らしく小さなマスコット人形が吊り下げられていたが、同時に86らしいスパルタンな感じもした。思わず興味を覚えた。
「篠崎さんは車が好きなんだね、86って、いい車だね」麗佳は首を振った。
「そんな事ないですよ、先生のポルシェの方がずっと素敵な車です」
「いや、実は僕、86を買おうと思っていたんだ。でもディーラーをやってる友人に泣きつかれて仕方なしに買わされてね」
それは本当だった。86を買おうと思っていた矢先に、学生時代の市川という友人に泣きつかれて仕方なしに買っただけだった。もちろん、ポルシェも悪くはないが、86は学生時代からの憧れの車だった。その憧れていた車に、麗佳が乗っているのが実に嬉しく思えた。
「ちょっと乗ってもいい?」麗佳が頷いたので運転席に座ってみた。
目の前に見えるインパネに、二六〇キロまで刻まれているスピードメーター、回転系が収まり、またスパルタンな六速トランスミッションのシフトノブが黒く光っていた。足元に銀色に光るペダル類が見えた。もちろん、ポルシェの性能とは比べ物にならないが、新井はこの車を運転してみたくなった。
その時、助手席が開き、麗佳が乗り込んできた。
「気に入りましたか?」麗佳は微笑した。まるで新井の心の内を知っているようだ。
「ああ、そうだね」ふと甘い香りが鼻をくすぐる。その長い髪が豊かな胸の膨らみに垂れていた。
「どうかしましたか?」麗佳は微笑した。
「ううん、ところで86はやっぱりいいね。俺も欲しくなっちゃったよ」麗佳が笑った。
「先生はポルシェに乗っているじゃないですか」と言って前髪をかき上げる。
「高いだけだよ。本当は86のが、いい車かも知れない」そうやって褒めると麗佳は嬉しそうな目をした。
「よかったら乗ってみます?」
「いいのかい?」
「ええ。また戻ってきたらいいじゃないですか」麗佳は微笑んでいる。
「そうだね。じゃあ、ちょっとドライブしてみようか」
「はい」麗佳が嬉しそうに答えた。
エンジンのスタートボタンを押すと、イグニッションが水平対向四気筒DOHCエンジンを点火させ、くぐもった重い感じの音が響いた。2リッターとは思えないエンジンだ。
普段乗っているポルシェ・カレラ911のややかん高い音とは、また違った音だ。
それがまた新鮮だ。ギアをローに入れ、ゆっくりと車を出す。サービスエリアの車もいつの間にか少なくなってきていた。本線もあまり混んでいないかも知れない。
「行くよ」
「はい。先生が運転するところを見るなんて初めてです」麗佳の熱い視線を感じた。
なぜか心臓がドキドキしてきた。
本線に入る。いつの間にか渋滞は解消しスムーズに流れていた。飛ばしてみたいと思ったが安全運転を心がける。
「道、空いてますね」
「そうだね。さっきまで混んでいたのが、嘘のようだ」
「飛ばしてもいいですよ」
麗佳がふと、そう言った。まるで新井の心の内を読んでいるみたいだ。
「じゃあ、少し飛ばしてみる」
ギアをシフトダウンし一気に加速した。レーシングカーのような音が咆哮する。
シートに押し付けられて思わず麗佳が可愛らしい悲鳴を上げた。
構わずアクセルを床まで踏み込んだ。
奇跡的に空いていた追い越し車線を一気に走り抜ける。メーターの針は時速180キロを振り切り走行車線を走っている車がまるで止まっているように見える。
やがてゆっくりと減速し何事もなかったように再び走行車線に戻った。
「凄い、86がこんなに速いなんて……」
麗佳は驚いた声で言った。きっとここまで飛ばした事がないのだろう。
「そうだね。僕も86で飛ばしたのは初めてだ」
「凄いですね。それに先生って運転がお上手ですね」麗佳は新井を見て微笑んだ。麗佳に運転を褒められて嬉しくなった。
厚木インターはそのまま通過した。
伊勢原大山インターで降りて引き返そう、と思ったのだ。
「先生は、休日はいつも何をされているのですか?」
「そうだね……最近は疲れていて、昼まで寝ていたりするよ」麗佳はうなずいた。
「この前も確か遅くまで残ってお仕事されていませんでしたか?」
心配そうな目を麗佳が向けた。
最近では、色覚異常に関する遺伝的影響や白内障治療の臨床的見地からの意見などをまとめた医学論文を執筆していた。自宅だと誘惑が多いので、一人でクリニックに残って遅くまで論文を仕上げる事が多い。
「ああ。学会で発表する論文の期日が迫っていてね」
「大変ですね」麗佳は心配そうに眉を寄せている。
「でも何とかするよ。本当はドライブどころじゃないんだけどね」新井は笑った。
「いいんですか、先生」麗佳が心配そうにしている。
「大丈夫だよ。家で書いてばかりいても能率が悪い。こういう気分転換も必要だ」
「そう言ってもらえると、安心です」
伊勢原大山インターの表示が見えた。
「次で降りるよ」
「はい」
伊勢原大山インターで高速を降り、しばらく走ってコンビニで停めた。
「良い車だね」
「ありがとうございます」
「あまり走行距離もないね」
まだ一万キロも走っていない。
「ちょっと降りよう」
「はい」二人は車を降りた。
コンビニで飲み物を買い、また走った。
「先生。せっかくですからお茶でもしませんか?」麗佳が指さした方向を見ると、小さな白い洋風のカフェが立っている。
「それもいいね」車をカフェに停めた。そしてカフェのドアを開ける。
カラン、カランとベルが心地よく響いた。
中は空いている。奥の方にヤシの木に似た観葉植物がある。黒いソファーに白いテーブルがあり静かなムード音楽がかかっている。品の良い落ち着いたカフェだ。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ!」
明るい声が響く。
一番奥の窓際の席に案内された。
先ほどのウェイトレスがメニューと水を持ってきた。
「ご注文が決まられましたら、そこのボタンでお願いします」と言ってウェイトレスは去って行った。
麗佳が、そっとおしぼりの袋を破って、その白く細い指を拭く。鮮やかな赤いマニュキュアの映えるその指が、妖艶にみえた。
思わずじっと見る。
「どうかしたんですか?」首をかしげて麗佳がそう訊いてきた。
「奇麗な指だね」少し心臓がドキドキした。
「ありがとうございます」
麗佳は静かに微笑んだ。
新井に指を褒められて、気を良くしたのだろうか。
「落ち着いた感じの店ですね」
「そうだね」
「先生は何になさいます?」麗佳はメニューを広げた。
「コーヒーのホットで」
「私はダージリンティにします」
麗佳がボタンを押すと、ウェイトレスに注文した。
「そうだ。篠崎さんの趣味は?」
「趣味って程でもないんですけれど」麗佳はグラスに口をつける。
「どんな趣味なの?」
「最近は風水に凝ってますね」新井は興味を覚えた。
「風水か。あまり知らないけれど『気』の流れ、とかいうやつだよね?」と言うと、麗佳は「そこに観葉植物があるでしょう? あれが気の流れを良くして邪気を払っています」と説明してくれた。
「へえ、なるほど。篠崎さんは、家でも風水に気をつけているの?」と訊くと、麗佳は軽く笑った。
「ええ、できる範囲ですけれどね」
「どんな感じで?」と尋ねると麗佳は何から説明しようか考えているようだった。
「そうですね、ドライフラワーは置かないようにしています」
「どうして?」
「ドライフラワーは『陰』の気があるからです。こういうものを玄関に置いたりすると良くないので」注文のコーヒーとダージリンティが来た。
「ドライフラワーはダメなんだ」新井はコーヒーに口をつける。なかなか美味しい。
「ええ。他には……」麗佳はダージリンティに口をつけた。
「ほかには?」
「恋愛運を高めたければ北側にピンクの物を置くと良いです。仕事運を高めたければ東に青いものを置くと良いですね。黄色のものを西に置くと金運を高めますし、ライトグリーンの物を南西に置くと健康運を高める事ができますよ」麗佳は紅茶を口にした。
「面白そうだね。ちなみに篠崎さんの好きな色は何色?」あえて色を聞いてみた。好きな色で性格が分かるような気がしたのだ。
「そうですね、赤が好きです」
麗佳の86も赤だ。赤と言えば情熱の赤、イタリアンレッドを連想させた。情熱的な性格なのだろうか。わりに活発な方だ。
「赤が好きな理由は?」
「赤は風水で『火の気』を持つ色として一番強い色ですから。仕事運や健康運や人気運がアップします。それに私自身、もともと赤が好きですね」
麗佳は穏やかな笑みを浮かべた。
「先生のお好きな色は?」麗佳が興味深そうな瞳を向けた。その白い指が、そっと髪を撫でる。ふっくらとした胸の上に金色のハート型のネックレスが光っている。
甘い匂いが漂ってくる。新井は思わず唾を飲み込んだ。
「僕は青が好きだね」
「青ですか?」麗佳の瞳が輝いた。
「ああ。青が好きだね」
「青って知的な感じですね。先生に似合います。ちなみに風水では仕事運に良い色です」
そう言って麗佳は窓の外を見た。
「いい天気ですね」
抜けるような青空がみえる。秋の日差しに照らされた麗佳の顔が輝いて見えた。ほっそりした指がカップを掴み、また紅茶を口にした。