31. 朝5時の来客
「ーーこれがブルーポピーの芽ですか⁈ほう、蓮の芽も出たと!何て素晴らしいんだ、この国で実物にお目に掛かれるとは‼」
温室で小躍りする中年男性をフェリシテとウォルターが見守る。
小型のスケッチブックを抱えて、夢中でペンを走らせる表情が輝いて眩しいーー
くるくるした天然パーマの焦げ茶色の髪と、理知的なアイスブルーの瞳。くせっ毛が爆発して頭が大きく見え、体が痩せぎすなので、マッチ棒の様だとウォルターは密かに思った。
ひとしきり植物の形状をスケッチした後、ぐっと額の汗をぬぐってマッチ棒ーーいや、ドナヒュー・シンクレア博士は、良い笑顔を浮かべてスキップしながら二人の元へ駆け寄った。
ーーそう、早朝から馬車を乗り継いでやって来たのは、何と王都の中心部にある優秀な貴族しか入学できない学舎、この国の学問の最高峰、王立アカデミー植物学教授である、ドナヒュー・シンクレア博士46歳(独身)であった。
先触れなく大きなトランクひとつを持ち、別荘の門を叩いた彼はフェリシテの手紙を握りしめており、開口一番、自己紹介する前に「ブルーポピーの芽が出たんですか⁈」と、出迎えたベンジャミンに飛びつき、度肝を抜いた。
心当たりのあったフェリシテが駆け付けことなきを得たが、不審人物で追い返される寸前であった。
ーーーーまさか、直接やって来るとはーーーー
フェリシテの"心当たり"とは、先日、ローゼル商会から手渡された分厚い植物図鑑だった。
ルマティからのプレッシャーに動揺したフェリシテは、きっと物知りであろう本の著者へ、栽培のアドバイスを求めて手紙を書いたーーーー確かに、書いた。
手紙を読んだ博士は、原産地以外で生育を始めた珍しい事例に興奮し、その日のうちに学生の授業をうっちゃって学院長から休暇をもぎ取り、取るものも取り敢えずやって来たらしい。
王都まで手紙が届き、そこからこちらへ来るには馬車で十日はかかるのに、一週間前に出した手紙で来るのは早すぎないかと思ったら、途中まで鉄道に乗り、駅を降りた後は寝ずに馬車を乗り継いだという、とんでもない強行軍で突撃してきた猛者だった。
二日ほど寝ていないらしいが、疲れどころかピンピンしてすぐに植物の元へ直行し大はしゃぎだ。
むしろ、ふだん六時起床なのに、朝五時に叩き起こされたフェリシテとウォルターの方が、あくびをして目をこすっている。
「いやあ、本物はいいですね!見事な腕をお持ちで。土はふかふかでミミズやトビムシも元気に活動している最高の土壌だ。花が咲くのが楽しみでしょうがありません‼」
声がかなり大きい。
国内最高頭脳の植物学者に褒められるのはまんざらでもなくて、フェリシテとウォルターはにっこり笑って礼を言った。
ーーーーありがたいが、せめて七時ーーいや、八時頃に来てほしかったーー
突然の来客に、今頃、厨房はてんてこ舞いだろう。
料理人が辞めたので、使用人の女性達三人で代理をしている。明らかに人手が足りていない。
シンクレアはもう一時間半はしゃべり通しなのに、まだまだ絶好調で眼鏡を押し上げ、流れる様に説明を始めた。
「このブルーポピーは、西方の国の高山に育つ希少なケシ科植物なんです。標高三千m以上に育つ種でしてね、土の少ない岩肌にしがみつくようにして生えるなど厳しい環境下で生きているんです。栽培方法をご存じないのに、トレリスで西日を遮るなどの工夫をされていて、とても素晴らしい!これは暑さに非常に弱く、日陰などの冷涼さを好みます。雨の直接当たらない場所が最適で、こちらの石灰質土壌ともとても相性がいい様だ。灌水量もこのままでいいと思います。順調にいけば、二か月程度で開花が望めるかもしれませんよ!」
息継ぎせずに一気にまくしたてられ、フェリシテとウォルターは「は、はい……」とかろうじて頷いた。
「蓮もひとつしか芽が出ないと思う事はありませんよ。この植物は元々根茎で増えてゆくので、実生で育てるのは難しいのです。ちなみにこの鉢では小さ過ぎるので、育ってきたら植え替えて下さい。池があれば池に移し替えて下さい。花の大きさは人の頭部くらい、葉は赤ん坊が乗れるくらい大きくなりますので」
とんでもない事をサラッと言われ、フェリシテとウォルターが耳を疑う。
「ちょっと待ってください、スイレンみたいな物なのではーー?」
焦って聞き直すフェリシテに、シンクレアはズバッと言った。
「ハハハ、全く違いますよ。原産地では私の身長より幾分低い程度でしたからね。この鉢じゃ、全然足りませんねえ」
想定外過ぎる。今度池に植え替えるしかないのか……?
しかしあそこにはスイレンとアイリスが咲く。これは……穴を掘るしか……?
「庭に穴を掘るなら、私もお手伝いしますよ?いいですねぇ、穴掘り!ずっと机に向かってばかりで退屈していたんですよ。いやあ、植物がいっぱいで、ここは落ち着きますね!あっ、温室わきにハーブ畑が‼おお、あれはゴマダラチョウ‼」
ーーーー正直、一ミリも落ち着いていない。
子供の様に瞳をキラキラさせて、温室の外に飛び出していこうとするシンクレアをウォルターが呆れて見送る。
アリの巣を発見して大喜びする博士を温室のガラス越しに見て、フェリシテはたらりと冷や汗をかいた。
「ーーーー王都の頭の良い人ってのは、皆、ああなのか?」
「……いえ、あの方は珍しいタイプかと……」
歯切れ悪くごにょごにょ言いったフェリシテは「多分」と付け加えた。




