月下にて 水面に燃ゆる 恋明かり
開いてくださりありがとうございます。
久方ぶりに恋愛譚を書きました。
評価・感想お待ちしています。ブックマークも是非していただければと思います。
8/23 試験的にNoveleeにも投稿します。
男の生まれ故郷には、満月の夜に泉の精に願い事をすると、叶えてもらえるという逸話があった。
尤もそれは夙に廃れたものであり、彼が生まれたときには、代々泉の番人を任されていた彼の一族以外に知る者はなかった。
彼自身、幼い頃に両親から伝えられたそれを信じてはいなかった。両親も祖父も何度か逸話の通りにしたが、実際に見たことはないというのだ。信じろという方が無理な話だろう。
男が20になろうかというある満月の夜、ふと目を覚ました彼は、唐突に泉に向かおうと思い立った。
叶えてもらいたい願いなど、特になかった。ただ、衝動に駆られただけであった。
それは、突然の邂逅だった。
月明かりに照らされた美しい少女が、泉の傍にいたのだ。特筆すべきは、少女が服を着ていなかったことだろう。彼女の身体に貼りつく濡れた金色の髪の毛と、月明かりを反射する雫とが、たった今泉から出たところなのを明らかにしていた。
少女のその様は、横にある泉にも劣らない神聖な清冽さがあり、その雰囲気は、男に心地のよい涼しさを感じさせた。
男に下卑た欲望は起こらなかった。ただ美しい芸術品を見たい一心で少女に近づいた。
僅かな物音と視線を感じた気がした少女は、そちらへ顔を向けた。
男はその瞳を見た瞬間、動けなくなった。その澄んだ宝石に吸い込まれる感覚を覚え、呼吸を忘れてしまった。
少女は顔貌も、肢体も、芸術として扱うに足るほどに美しかったが、それでも瞳は別格だと彼に思わせた。それほどの魔力があった。
何故美しい瞳に宝石という形容がなされるのか、何故人は宝石を求めるのか、彼はそれを強く実感した。
だが、少女は傍に置かれていた服を掴むと、即座に森の奥に姿を消してしまった。
男が呼吸を取り戻すのに掛かった時間は、そう長くなかった。
しかし少女が逃げ去った今、後に残るのは、僅かな水音を立てる少女の消えた泉と、静寂に落とし込まれている周囲の木々の梢ばかりであり、それが彼にはひどく物寂しく思えた。
彼は一瞬、あれは夢幻だったのかと考えた。実際、芸術と呼んで然るべき美しさがあった。それでも、瞳に囚われたあの感覚は確かな現実であると、彼の心はそう叫んでいた。
彼は次の満月も泉に行くと決心した。
次の満月の夜、男は予定通り泉に向かった。その足取りは軽やかだった。
泉の傍には、この前と同じように月光をその身に受ける少女が佇んでいた。
もう泉に入ってから暫く経つのか、既に水気の殆どは拭い去られていた。簡素な水色の服を着ており、それは彼女の金髪の美しさを強調していた。
男の視線は、再び少女の瞳へと吸い込まれた。荒い心臓の拍動を、今までにないほどに強く感じた。
一方、少女の瞳は弱々しく揺らいでいた。
そして、少女の元へ行くべく勇ましく踏み出したところで、少女は再び逃げ出してしまった。
男は少女がまたもや目の前から去ってしまったことを残念がりながらも、気を新たにすべく、泉で顔を洗った。
その透き通った水面には月が映し出されていたが、そのうちに雲に隠れてしまった。
そして、帰ろうと立ち上がった男の耳に、すぐ近くの枝が折れる音が入ってきた。
顔を向けた先には、踵を返してきた少女がおり、木の影から男の様子を窺っていた。
少女が木から離れ、男に近づこうとした時、丁度陰っていた月が再び顔を覗かせ、同時に少女の美しさが一層増した。
少女は月に身を晒しながら、数歩の距離をゆっくりと詰めた。
「貴方は......泉の番人の方ですか......?」
男が頷くと、少女は「本当にいたんだ......」と消え入るような声で呟いた。
「君は泉の精なのか?」
「泉の精......?」
「『満月の夜に泉に行くと、そこにいる泉の精が願いを叶えてくれる』。僕の家にはそんな言い伝えがあるんだ」
少女は男の補足に「それは、私たちのご先祖様の話だと思います」と言い、目を閉じると、思い出すように語り始めた。
「これはもう何百年も昔の話です。私のご先祖様は、貴方のご先祖様と、この森で出会ったのです。その方は病に侵されており、それを治せる神聖な水を求めていました。力尽きかけたその方を助け起こし、泉へと運んだのが、私のご先祖様です。......私の一族の源流は神の子孫なのです。この身に宿る力を使って人々に恵みをもたらしたことで崇められていたのですが、同時に畏怖される存在でもありました。私のご先祖様はそんな暮らしに嫌気がさし、人里離れたこの森へと身を潜めるようになりました。それ以来、あなたのような普通の人間と結ばれるようになりましたが、そのために血を継ぐごとに力は弱まっていきました。今では逆に、満月の夜にこの泉から力をもたらされなければなりません」
少女はそう言うと、泉にゆっくりと足を落とした。水に屈折する白い肌は、男には月ほどに美しく感じられた。
「私は、この力を絶やすわけにはいきません。長きにわたって月の泉を守ってくださっている番人の方には感謝をしています。ですが......」
その言葉の直後、少女の鋭くなった美しい目に映るものは、水面から男に変わった。
「乙女のあられのない姿を見るのは、感心しません。勿論、ここ数百年も番人の方が満月に来ないと聞いていて、それで油断していた私にも非はありました。......でも、二度目は聞いていません! いくら番人の方とはいえ、それは咎められるべきです!」
「ごめん。でも、君があまりに美しかったから......」
男の言葉に、顔を泉の方に背け、黙り黙りこくった。
しかし、泉に映る整った顔も、美しい金髪の隙間から覗く耳も赤くなっているのは、男にも明らかだった。
暫くの後、落ち着いた少女は立ち上がると「......そういえば、『泉の精霊に出会えたら、願いを叶えてもらえる』という話が伝わっているんですよね?」と問いかけた。
「うん」
「ならば、何か願いを叶えなければいけませんね。幸いにして、今までに浴びた力は一人の願いを叶えるくらいなら十分事足ります」
「本当にいいの?」
「......私の肌を見たのはわざとではありませんし、あなたからは悪意は感じられません。それにあなたは、ご先祖様から今に至るまでの長きをお世話になっている、番人の系譜の方です。ここで叶えなければ、末代までの恥になってしまいます。ですから、遠慮なさらずにどうぞ」
「それなら、僕と契りを結んで欲しい」
少女は目を丸くした。それとほぼ同時に、顔が再び朱に染まった。
「な、何を言って......」
「駄目かい......?」
男から向けられる目は、その発される言葉以上に真っ直ぐだった。
「......何故、私なんですか?」
「僕は君よりも綺麗な子は見たことがないし、この先も見ることはないと、そう確信している。君の顔も、髪も、肌も、一番美しい。瞳なんて、前にお貴族様が着けていた宝石だと思うくらいだった」
少女は押し黙った。その美しい瞳の揺らぐのが、男にも見て取れた。
男はじっと答えを待った。
「......分かりました。その願い、お受けします」
「本当に! ありがとう。人生で一番嬉しいよ!」
「......きっと、もっと嬉しいことがありますよ」
「そうかい。......君にも、嬉しいことは訪れるの?」
「......はい、きっと」
「それはよ――」
かった、という言葉が紡がれるところで、男は突然ふらついた。
少女は慌てて細い腕で抱き留めた。
「あぁ、ごめん。あんまり嬉しくて、力が抜けちゃった」
「心配させないでください」
「ごめん」
「そんな調子では、先が思いやられます」
「それでも、良いことは起こるんだろう?」
「......それは......はい」
「それなら、大丈夫だね。本当に良かった」
男は再び立ち上がろうとするが、まだ足元は覚束なかった。
少女は「もう!」と少し怒りながらその場に正座すると、将来の伴侶の腕を引き、体を抱き寄せ、その頭を自らの足の上にもっていった。
「暫くこのまま休んでください! 文句は聞きません!」
「そうするよ。......ありがとう。......そういえば、どうして願いを聞いてくれる気になったの?」
「知りません!」
少女がふいと顔をやったのを見て、男は追求を諦めた。
少しの後、男は疲れからか、安心からか、それとも心地良さからか、すっかり寝入ってしまった。
少女はその安らかな顔を眺めながら、自身のものとは全く違う、硬質の髪ばかりの頭をそっと撫でた。
そして、反対の手の指を自身の髪にくるくると巻きつけながら「......この先、あなた以上に真っ直ぐに見てくれる方がいるとは、思えませんでしたから」そう呟くのだった。
最後までお読みくださりありがとうございました。
前書きの通り、かなりの期間を経ての恋愛譚となりました。
昨年の同じ時期に、同じ「月」と「恋」に関わる『天満月』を書いていますが、思えばあちらも日本の古典『かぐや姫』を元にしているため、根本の発想は同じですね。
この作品のタイトルですが、どうしようか考えていたときに「五・七・五」を思いつき、ただ真っ直ぐでは面白くないし、かといって捻りすぎるのも憚られる、と考えた末に採用に至った経緯があります。
重ね重ねになりますが、評価・感想、ブックマークをいただければと思います。よろしくお願いします。