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第一話 花曇り


 ()せ返るような緑の匂い。


 息をするたび濃厚(のうこう)な酸素が肺に取り込まれ、身体(からだ)中に浸透(しんとう)していく。


 窓から射す春の日光は柔らかで暖かく、背中を包みこむ。まるで真綿(まわた)みたいだ。


 外はそよ風が吹いているらしい。部屋の壁や床に影を落とす木漏(こも)れ日がゆらゆら揺れる。


 部屋に咲き(ほこ)るは種々の草木。


 ワイヤーを()い登る薄桃の仙人草(クレマチス)は大輪の花で壁を(いろど)り、床から伸びる葡萄(ぶどう)色の昇藤(ルピナス)ピクシー、眩しいオレンジはラッセル昇藤(ルピナス)


 幾重(いくえ)にも重なるフラワースタンドでは、鮮やかな紅いキンギョソウの花弁(はなびら)瑞々(みずみず)しい葉のコントラストが目を引く。

 天井から吊り下がる籐編(とうあ)みバスケットからは白、黄、赤のべゴニア、シュガーバインが垂れ下がる。


 遠くで小さな足音が響いたのを聞いて、僕は読んでいた本を閉じた。


 読書に夢中で気がつかなかった。もうそんな時間か。


 (はや)る気持ちを(おさ)えるようにガラステーブルの紅茶を飲み干し、居住(いず)まいを正して玄関前で待ち伏せる。


 錠が外れた。



草梨(くさり)! 今日こそ僕と合体しよう!!」


「しない」


 鋼板(スチール)の扉の先から現れた少女に飛びつこうとしたら、顔面を鷲掴(わしづか)みして拒否された。


 爪が小鼻のあたりに食い込んで痛い。これもしかして血出てない?


「出ていないわよ。そこまで強くしていないもの」


 抑揚(よくよう)のない淡々とした口調で、(いと)しい草梨は紺のボレロスカートを(ひるがえ)し室内へ進む。


 ボレロは彼女の通う名門お嬢様学校の制服だ。デザインはイタリアのハイブランドが手掛け、素材も厳選された高級既製服(プレタポルテ)


 でも、彼女のしめやかな手には似つかわしくない、庶民的なスーパーの袋がぶら下がっている。


「やあ、ほぼ毎日悪いね」


「悪いっていう割にあなた、放っておくと1週間何も食べずにいるでしょう」


 空になったティーカップの隣に袋を置きながら、草梨が振り返った。


 雪のように白い肌、(くちびる)鮮血(せんけつ)()(ガラス)(つや)やかな長い黒髪が、小さな動作のたびさらさら揺蕩(たゆた)う。


 切り(そろ)えた前髪の下の瞳が真っ直ぐに僕を射抜(いぬ)いて、(わず)かに辟易(へきえき)の表情。


 ああもう、可愛いなあ。


「わあ、今日はオムそばか!」


 そこら辺のスーパーで買って来たプラスチックパック入りのそれを見て、歓声をあげる。


 草梨の精緻(せいち)な顔はそれでもピクリとも動かない。

 通常運転だ。安心安心。


 ロボットみたいに真顔を保ち続ける彼女と向かい合わせに腰掛け、焼きそばをオムレツ部分で巻いて食す。


 ()した中華麺(ちゅうかめん)をソースで味付(あじつ)けた上に、薄く焼いた卵焼きを乗せた味。


 草梨が僕のために買ってきてくれたというだけで、フレンチのフルコースより美味しく感じるから不思議だ。


「ん? 何これ」


 名残(なごり)()しい食事を終えて不意に袋の中を見遣ると、白い和紙で包まれた(てのひら)サイズの直方体を発見した。


「ここへ来る途中でもらったのよ。近所の人から」


「ああ落雁(らくがん)か。近所の女子高生に道すがらあげるにしては、ちょっと渋い趣味だね」


「違うわ、今日はその家の葬儀(そうぎ)からここへ来たの。それは香典返(こうでんがえ)し」


「そ、葬儀!?」


 驚いて落雁の包みを落としそうになる。

 それもらったというか、慣習(マナー)として配られたやつだよね。


「向かいの園道(えんどう)さんのお宅でお子さんが亡くなったの」


 僕が用意したマグカップに赤薔薇(あかばら)の花弁みたいな唇がついて、一口(ひとくち)だけ紅茶を飲んだ。

 細い(のど)がかすかに波打つ。



「……何?」


 頭上から草梨の声が降ってきて、慌てて体を椅子に戻した。


 危ない危ない、マグカップになりた過ぎて一体化しようとしてた。


「そういえば今日は休日だもんね。草梨はお葬式のために制服を着ていたんだ」


「ええ」


 無理矢理僕の変態行為(セクハラ)をなかったことにして話を続けているのに、返事をしてくれる草梨は優しいなあ。


「にしてもお子さんが亡くなったなんて穏やかじゃないね、事故とか?」


「いいえ、原因はよく分からないけど突然亡くなったらしいわ」


「あれ、そのお子さんいくつだったの」


「生後半年」


 故人は思っていたよりずっと幼かった。


 僕は(あご)に指を当て、(のど)の奥で(うな)る。


「それはSIDSの可能性が高いのかなあ」


「あなた、また推理してるのね」


 さっき急いで除けたミステリ小説の表紙へ目線をやって、草梨が(つぶや)く。


「あはは、まあね。癖っていうか」


 長い睫毛(まつげ)縁取(ふちど)られた焦茶(こげちゃ)双眸(そうぼう)が僕を見つめる。


 この関係も1年ほど続いているので、僕には彼女の言いたいことが分かる。


「SIDSっていうのは乳幼児突然死症候群のことだよ。健康だった赤ちゃんが眠っている間に急に死んでしまう現象で、未だに原因不明なんだ」


「それは園道さんも災難だったわね」


 1ミリも感情がこもっていない草梨の同情。


 あっ、今ちょうど壁掛けプランターの琉球弁慶(カランコエ)の花が頬のあたりに被って絵画みたい。くそう、僕が天才画家ならこの瞬間を写し取って残しておけるのに!


「ねえ、その本……」


 僕が自身の才能のなさに(もだ)え苦しんでいる間に、草梨は(たお)やかな腕を伸ばして本を手に取った。


「あっそれはダメ」


 取り返そうとしたけれど遅く、草梨は表紙をめくった先の文言を声に出して読み上げてしまう。


「『意中の相手を100パーセント落とせる恋愛心理学大全』」


「違うんだ草梨!それはその、間違えてネットで注文しちゃって」


「カバーをわざわざ架け替えたのに?」


 こくんと首を(かし)げる。


 どうしてこういう時に限って可愛すぎる動きをするんだろう。


 あまりに愛らしいからとりあえず何も考えずに抱きしめようとしたけど、彼女は真顔のままひらりと身をかわして席を立つ。


「そろそろ行くわ」


「ええ〜、もう帰っちゃうの? 僕とその本の内容を語らってからでもよくない?」


「今日はこの後ヴィオラの稽古(けいこ)があるから」


 うわあ、お葬式と習い事の合間にわざわざ来てくれたんだ。感激して泣きそう!


 帰り支度を始める華奢(きゃしゃ)な後ろ姿に、僕は声をかける。


「その本曰く、人は恋をすると精神疾患の患者と同じくらいセロトニンが欠乏(けつぼう)してしまうらしいよ」


「結局どういうことなの」


 振り返りもせずあまり興味もなさそうだけれど、構わず続けた。


「恋をすると精神安定に必要なセロトニンの分泌量が減るんだって。鬱病とか不眠症とかと同じように、セロトニンが欠乏状態になるらしいんだ。だから恋愛している人は落ち込み気味になったりするって、書いてあった」


「そうなのね」


 感情のない()いだ視線。


 洋白(ニッケルシルバー)の錠が閉まる乾いた音が僕1人の部屋に鳴り渡る。


「また明日来るわ」とそれだけ言い残して、草梨は玄関から出て行ってしまった。




◆◆◆




草梨(くさり)、それはどうしたんだい」


 翌日。


 いつものように僕の誇る植物園を訪れた草梨の胸元に、白色の沈丁花(じんちょうげ)が一輪咲いている。


 三大香木の一角を成すそれは甘い匂いを強く放ち、鼻腔(びこう)をくすぐってきた。


「園道さんからもらったのよ」


 相変わらずの鉄面皮(てつめんぴ)で答えた。


 もう、この子はなんでもすぐもらって来ちゃうんだから。小さい頃お菓子あげるよって不審者に連れ去られなかった?


「葬儀の翌日でJKに花を渡すなんて、園道さんはどんな神経してるんだよ」


 唇を突き出し、沈丁花をひょいと取り上げる。


 彼女を飾り付ける花は僕の育てたもの以外は許せない。


 嫉妬(しっと)に駆られる僕も、行き場を失くした花も心底どうでもいいらしい草梨は、カレーの入った袋をテーブルに置いた。


「くれたのは園道さんのお子さんよ。通りがかったら庭に咲いていたのを摘んで持ってきた」


「えっ、お子さんもう1人いたの」


「ええ、3歳の男の子」


 唐突(とうとつ)に手中の沈丁花が僕を責めている気がして、そそくさと席につく。


 草梨の家は物凄くお金持ちだ。住んでいるところも都内のハイソな住宅地だから、向かいの家の園道さんというのも大豪邸なのだろう。


「そんなに小さいのに、弟だか妹だかが亡くなったんじゃかわいそうにね」


「亡くなったのは彼の妹さんだったわ」


 スプーンでカレーとライスを半々に取って口へ運ぶ。


 花の甘い匂いとスパイスの香りが混じり合って、なかなか刺激的な味わい。


 そんな僕の食事風景をじっと注視する草梨は今日も制服姿だ。世間は月曜日になったらしい。


 うん、今日も今日とて不変の美しさだなあ、好きだ。


「『お嫁さんのお花』とか言いながら渡してくれたの。まだ死の概念も分かってないみたいで、妹さんのことなんて忘れたみたいに元気だったわ」


「お嫁さんの花? ちょっと草梨、もうその子供に関わっちゃダメだよ」


 まさか近所にそんな刺客(しかく)が潜んでいたなんて、女子校だからって油断してた。


 3歳だろうが90歳だろうが男はオオカミ、草梨という女神を狙う僕の宿敵(ライバル)だ。


「関わらないのは無理ね。しばらくその子と奥さんの心のケアのために、園道さんの旦那さんが家にいるらしいわ。庭で遊ぶ頻度(ひんど)が増えるんじゃないかしら」


「ん? 園道さんの旦那さんは普段家にはいないの?」


「いない。海外で仕事をしているから、たまに帰ってくる程度よ」


「ふうん……」


 考え込んだ僕の思考を読んだ草梨は、


「旦那さんの居ない間、不倫の果てにできた子供だったからバレる前に奥さんが殺したんじゃないかって、近所で噂になっていたわ」


 見事僕の推測を当ててくれた。


 やあ以心伝心ってやつだよね? 僕たちそろそろ合体してもいいんじゃないかと思うな。


「そんな噂も込みで旦那さんは奥さんを助けるために帰って来ているんだろうね」


「きっとそうね」


「死因不明のままじゃ奥さんも疑われっぱなしになっちゃうよなあ」


「あなたの話した通りSIDSなら、現代の医学じゃ証明のしようがないんじゃないの」


「そうなんだけど、何か引っかかるんだよね。今の日本は世界的に見ても乳幼児の死亡率が低い国なんだ。亡くなってしまうのは1000人いても2人弱——きっと高名な病院に通っていて、生育環境もしっかりしていたはずの園道さんちのお子さんが死んじゃったのは、確率的にとても低い出来事なんだよ」


「……謎を解きたいのね」


 静かに、だけど確実な問いかけが草梨の紅い唇から漏れる。


 僕が首肯(しゅこう)で応えると、彼女は小さく息をついた。


「あなたの手先になって動いてあげるわ。近所で話を聞くくらいしかできないけれど」


「十分だよ。それだけで、僕は絶対に園道さんのお子さんの死の謎を紐解(ひもと)けるさ」


 胸を叩き、僕は草梨に笑いかけた。




 ◆◆◆




 本日の天気は雨。


 ガラスと鉄格子(てつごうし)の向こうに見える木々の葉を雨水が()ね、銀色に(きら)めいては大地へと(かえ)る。


 室内の花々もどこか物憂(ものう)げに見えるのは、僕の心もまた雨模様だからだろうか。


 どんよりとした花曇(はなぐも)りの空。地上には太陽光がほとんど届かない。


 天窓もカーテンを閉めてしまったせいか、(くき)を乱暴に手折(たお)られた沈丁花も(しお)れている。


 水分や養分を吸い上げていた地面と繋がりが切れて、3日も経ったんだ。適当な容器に水を張って浸してはあるけど、そろそろ寿命だろう。


 僕もまた椅子に腰掛けたまま天を(あお)いで数時間。


 草梨の足音が聞こえなければ、あと1日はこうしていたかもしれない。


 解錠の小気味良い音が響いて、僕は慌てて立ち上がろう、とした。


「また何も食べていなかったのね」


 立ち(くら)みで項垂(うなだ)れている僕を見下ろして、かすかな呆れの感情が言葉に混じる。


 この僕の醜態(しゅうたい)を察知していたらしく、スーパーの袋の中は数種類の食べ物が詰め込まれていた。


「きみに会えないのが寂しくて、食事も喉を通らなかったんだよ」


「謎解きの思索に夢中になっていただけでしょう?」


 笑ったり怒ったり、心の機微(きび)ってものがほとんど読み取れない草梨。


 薄暗い室内でも光って見えるような白い顔がこちらを向く。


「近所の人たちから話を聞いて来たわ」


 部屋の電気が点けられ、僕は目の前に出されたインスタント卵粥(たまごがゆ)の袋を開けた。


「んふふ、ふふぐふふっふぬ」


「食べ終わってから喋って」


「それで、何が分かったの」


 慌てて咀嚼(そしゃく)してから尋ねる。


 ああ、糖分が体に染み込んでいくこの感じ! (にぶ)っていた脳の動きも活発になってきた。


 草梨の黒髪がさらさら揺れる。


「園道さんの家は、旦那さんが個人の貿易業を営んでいるらしいわ。日本で買い付けた品を海外に持って行って売るという輸出業で、主に売り先はフランス」


「ほうほう、つまり旦那さんが普段住んでいる外国ってのはフランスなんだね」


「ええ。そして奥さんは実は後妻で、生きてる方のお子さんは死別した前妻の子。この間亡くなったのは今の奥さん本人が生んだ子だった」


「おや、なんだか複雑な家庭の事情があるんだね」




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