第262話
敗北とはなんとも惨めなものだ。
今までの努力も、みんなの思いも、全てが無駄になる。
欲しいものは得られず、持っているものも失うばかり。
今まで費やしてきた時間はなんだったのか。
打つ手も無く、頬に感じる無機質な冷たさが嫌でもそれを刻んできた。
勝利を確信している魔神は、引き続きコルトの頬を撫でながら魔人二人を見上げると、無情な命令を下す。
「ふふふ、さてと、これでサボる理由も無くなったわよね」
魔族を消さないと誓約したのだから、これでもう共族に遠慮する理由は無いだろうと言わんばかりだ。
「それとネフィリス、手にあるものを頂戴な」
空気を汚染し生物を確実に死に至らしめる爆弾、それを寄越せと魔神が手を差し出した。
コルトは押さえつけられた頭を上げようと必死に抵抗をしたが、己の顔と同じくの大きさのある手はビクともしなかった。
そればかりか、少しずらして口を塞いでくる始末である。
噛んでやろうと思っても、ガッチリと顎ごとホールドされて開くことすらできなかった。
そんなコルトの僅かな抵抗を感じながら、バスカロンは己の神へ無表情の顔を向けた。
ネフィリスも手の中の爆弾を固く握りしめたままそっぽを向いている。
長年の悲願が達成されて魔族も喜んでいるはずだと思っていたのに、思ったような反応が返ってこず、魔神は小首を傾げた。
「どうしたの、聞こえているでしょ?それともソレが逃げないか心配なの?なら安心して、逃げないように封印するくらいできるわ」
言葉通り、宙から現れたあらゆる拘束具がコルトの体を締め付け始める。
「んんんんんん!」
口も塞がれ完全に身動きの取れなくなったコルトを見て、バスカロンもようやくコルトから身をどかしたが、それでもその場から動くことはない。
魔神は陶器のような顔を歪ませた。
「どういうつもり、ワタシに言いたいことでもあるの?」
少しだけ言葉に怒りを滲ませ始める魔神に、バスカロンもようやく表情を動かして頭を掻き始めた。
そして魔神とコルトを交互に見て困った顔をしつつ、口を開く。
「あー、なんだ。あんま気分の良いものじゃないな」
何が、と言いかけた魔神の声が聞こえるかどうかの僅かな時間。
そんな僅かな瞬間にコルトは足を掴まれ、体に負荷がかかると同時に視界が突然反転した。
重力に逆らって体が上昇し視界いっぱいに暗雲立ち込める空が広がったことで、ようやく己が放り投げられたことを理解する。
同時に、重力に逆らう力もすぐに無くなって従順になることも理解する。
「んんんんんんんんんんんんんん!!!!!!!!!!!!!」
口から悲鳴が飛び出すのは必然だった。
上昇が落下に変わり、慌てて半泣きで己を受け止めるクッションを作成した。
だが嘲笑うかのようにさらに下方で巨大な風圧が発生し、その風でまた体が吹き飛ばされ作成したクッションから遠ざかってしまう。
やることなすこと全然上手くいかない。
己の無力を感じながらも、それでも魔神から遠ざかることはできた。
それならまだ何か出来ることがあるのではないか。
惨めで無様でもそれでもまだ、己の意識が残っているうちは諦めきれない。
顔面グチョグチョのコルトは上下左右も分からぬ空中で、全周を覆うように再度クッションを作ろうとした。
そして再度力を行使するために意識を集中させる。
だが、突然何かに足を掴まれて、強制的に中断させられた。
「まだ意識残ってるな」
連続で己の意思を無視するような事が続き、脳の現状認識が追いつかない。
だからその声も誰だか分かったのは、己が逆さの状態であることと認識した後だった。
視界いっぱいに広がる獣の体毛と、その向こう側で揺れる尾。
コルトは視界を下げ、否、上に向けると、不敵に笑う犬耳の男がいた。
そして足と同じく獣毛に覆われた手が、コルトの口を塞いでいたものを力任せに剥ぎ取った。
「このクソ犬!!!!」
「おっ、元気そうだな」
「どういうつもりだ!!!こっちは必死こいてここまで来てやったってのに!!!」
「悪いな、こっちも必死なんだわ。でも文句言うのは早いんじゃねえの」
そういってバスカロンがコルトの体を反転させると、信じられないものが視界に飛び込んだ。
見たことのない兎っぽい獣人が魔神に向かって攻撃を仕掛けていた。
クロスレンジでの空中格闘戦を行いながら、攻撃の合間の隙を潰すように周囲に展開した4属性の細かい魔法弾を打ち込んでいる。
さらに足技を中心とした一撃がかなり重いのか、一発打ち込むごとに空気を震わせ、攻撃の角度によってはここまでその圧が届くこともあった。
「アイツは」
「転変したラヴァーニャだ。アイツは耳がかなり良くてな、お前さん達の会話が聞こえてたらしい。そんで、俺達に時間稼ぎを要求してお前さん達が乗ってきた変なのに大急ぎで向かったんだ」
そして戻って来たかと思えば転変した姿だった。
正直バスカロンはかなり驚いた。
腹芸が下手糞なりにラヴァーニャが普段の態度の裏に魔神や自分たち古参の魔族への反逆心を隠して、いつか排除する機会を狙っているのは知っていた。
おそらくそれが他の兄弟達のためであろうことも。
死が兄弟のためにならないことは本人も分かっていただろうし、だからこそ死とほぼ同義の筈の転変を選ぶとは思っていなかった。
それなのに、今ああして転変して魔神に積極的な攻撃を仕掛けている。
突然それをした理由はなんなのかと考えれば、どう考えても直前の行動しかない。
バスカロンは片手を顎にあてながら、再びコルト反転させて自分のほうに向けると、魔神と何を喋ったのか聞いてきた。
思い当たる事は1つしかない。
「魔術だろ」
ブスくれながら投げやりにそれだけ言うと、バスカロンは虚をつかれたような顔をした。
だが一を聞いて十を知ったのか、すぐに大爆笑し始めた。
「ぶわっはっはっはっは。なるほどな、そうかそうか。そりゃそういう効果があってもおかしくはないわな。なあんでそれをもっと早くに思いつかなかったんだ、ぶわっはっはっはっは」
「うわっ、こっち向いて笑うな。唾が飛ぶ」
大口を開けて笑うので、飛んできた唾をコルトはみっしりと毛の生えた脚でゴシゴシと顔を拭った。
「いやあ、悪いな。だがおかしくてよ。もっとも簡単な解決策が、ずっと前から手元にあったなんてよ、これが笑わずにいられるかってんだ、があっはっはっはっは」
バスカロンがヘンリンで”お館様”と呼び慕われるようになってから何十年たっただろうか。
少なくとも最初に呼び始めた人間の孫に孫が生まれるくらいの年月は経った。
それだけの年月、隣にいながら一度も思いつかなかったのかと思うと、己の迂闊さ滑稽さに笑わずにはいられない。
「自我である魂を魔力で無理やり強すぎる肉体に繋ぎ止めるんじゃなく、魔術で肉体側に自己が誰かを刻み込んで魂を掴ませたわけか。それなら肉体側がどんなに変化しても、己が誰かの根源である魂だけは離さない。良い能力じゃねぇの、共神」
「嬉しくないんだけど!?魔力前提なんてそんなのバグで、仕様外で、想定外だ!抜け穴最高ですって言われても、作った僕は全く、全然、これっぽっちも嬉しくない!!そもそもこの方法で魂を繋ぎ止めるなんて、魔族にしか使えないじゃないか!」
「しゃあねえな、共族は魔力耐性が低すぎる」
「当たり前だろ!」
逆さの状態でキーキー吠え立てるのは何とも間抜けな姿だが、文句を言わずにはいられないコルトだった。
とりあえず、そんな事よりも重要な事がある。
「それより鳥はどこ行ったんだよ!盗ったもの返せ!」
「あーあれな、返してもいいが条件がある。即処分してくれ」
魔族嫌いの共神が作った魔族領で使う物など絶対に碌なものじゃない、残しておいても何1つとして良いことなどない、と決めつけるように断言したバスカロンに、コルトは口をへの字に曲げた。
魔神を脅す目的で作ったものだ、用が済めば無用の長物である。
了承を返すと、バスカロンはコルトの手足の拘束具をこれまた力任せに外し始めた。
片腕でコルトを持ちつつ、空いてるもう片方で奮闘しているのだが、全く遠慮がないやり方なので普通に痛い。
そして全ての拘束が外れると、コルトはすぐに床を生成してバスカロンの腕から逃れた。
「ぐうぅ、力任せにやりやがって。肉体強度は普通の共族と変わらないんだぞ」
「そりゃ悪かったな。まっ、ほらよ」
腕を擦っているとコルトの目の前に例の爆弾が差し出された。
「お前が持ってたの!?」
「ネフィリスの奴、変な責任は負いたくないとかいって押し付けて行きやがったんだ」
らしいと言えばらしい行動ではあるが、どういう立場と考えなのかさっぱり分からない。
でもネフィリスよりはバスカロンのほうが会話しやすいので、押し付けてくれたのは助かったかもしれない。
もいつまでも持っていたくない、早く消せと催促してきたので、すぐに爆弾を受け取った。
再び手の中に戻ってきたそれ。
魔神を脅そうと思って作ったのに、あっさり奪われたのはいただけなかった。
しっかりと握ったそれに顔を向けながら、チラッと視線を魔神にやった。
兎と魔神の戦いは続いている。
ルーカスと違い、手数と素早さで攻めており、魔神のほうもなかなか捉えられないようだ。
「あの兎は魔神と戦ってるけど、お前や他の奴らはどうするつもりだ」
いつ終わるのか、どちらが勝つのか、どういう結末になるのか。
それすら分からない戦いを視界の端に収めながら、目の前の魔族に問いかけると、魔族のほうも腕を組んで難しい顔でコルトを見下ろしてきた。
「”管理者の誓約”がどの程度のもんか次第だな。経験的に魔神が勝ったら俺達も消される。それじゃあ意味がない。お前さんに用済みって言ったが……」
言葉を止めたバスカロンは目を閉じて息を吐いた。
そしてゆっくりと瞳を開いて戦っている魔神に目を向けると、魔神にもそうなって欲しいと口にした。
もうどうにもならない物を見ているような、諦めた言い方だった。
その言い方に、コルトは無意識に口角が上がる。
──なんだ、アレも信用されてないじゃん。
コルトに散々嫌われてると言っておいて、自分のほうこそ魔族に信用されてない。
人は言われて嫌なことを相手に言うと言うが、どうやら魔神もそうらしい。
コルトは手の中の爆弾にもう一度視線を落とすと、バスカロンに見せつけるように掲げ上げた。
「安心しなよ。もう世界に楔が打たれてる、破ればこの星が壊れるものだよ」
向こうに戻した半分の意識から送られてくる情報を口にすると同時に、手の中の爆弾が塵となった。




