第119話
それからしばらくコルトたちはまだ黒竜の背に乗って空を飛び続けていた。
ネフィリスもまだもう少し掛かるし、今のうちに竜の背に慣れておこうとなったのだ。
何よりまだ空を飛んでいたいという気持ちが強かった。
「雲って触れないんだな」
アンリは残念そうに下に広がる雲の層を見ながら呟いた。
現在、北の山脈を確実に超えられる高度1万メートルまで上昇している。
さすがにこの高さまで来るとルーカスでも生身では若干つらいものがあるらしく、大人しく黒竜の背に座って落ち着いていた。
「ただの水滴や氷の粒の集合体だからね、なんで触れると思ったの?」
「だってあんなに大量の雨を降らせられるんだから、水を貯めとく何かがあるはずだろ。だからその上なら乗れるんじゃないかって思ったんだよ」
「そんな巨大なもんが浮いてるほうが怖ぇだろ。落ちてきたら大惨事だぞ」
「雲が浮いてんだから、そこはこうなんか雲が浮いてるのと同じような感じで浮いてんのかと思うじゃん。そういやなんで水が浮いてんの?」
「風に乗ってるんだよ。上昇気流に乗って空に浮かんで、空も風がたくさん吹いてるから浮かんでるんだ。雨は雲の中の水滴がくっついて重くなると、風で支えきれなくて落ちてくる事を言うんだよ」
その他にも色々と条件やら何やらはあるが、今はこのくらいでいいだろう。
アンリも理解が追いつかないのか、大分頭を捻っている。
代わりにどうでもいい奴が口を開いた。
「そういう仕組みか。なら雪は氷の粒がデカくなりすぎて落ちてくるって事か?」
「…まぁそうなるね」
「じゃあ雷はなんだ?雲の中の氷の粒がデカいとよく起きんのは見てんだよ」
「何で中見てんだよ、嵐と変わんないだろ?」
「好奇心には勝てねぇだろ」
「命知らずのバカがやることだよ。まぁ一応説明しとくと、大きさの違う雹や霰がぶつかり合って電荷が貯まるんだけど、それが蓄えきれなくなって放電されるのを雷って言ってるんだよ」
「ははーん、これめんどくせぇ奴だな?」
「専門分野ができるくらいには複雑で奥深いよ」
模倣元の人達が長い年月を掛けて解き明かしていたものを、何故か納得顔で”めんどくさい”の一言で片付けるとは大変失礼な奴である。
なので深くため息をつくと、視界にまだ悩んでいるアンリが写った。
「どうしたの?まだ分からない事ある?」
「分からないって言えば全部分かんないけど、とりあえず風ってそんなに吹いてるか?」
首を傾げて周囲を見てそんな疑問を零している。
今はほぼ感じないがこの高さなら地上ではあり得ない速度の風が吹いているはずだ。
その風を遮断しているのが黒竜のため、コルトはその疑問に知識の上でしか答えられない。
すると代わりに答えたのは何故か上着を脱ぎ始めたルーカスだった。
嫌な予感しかしない。
「この服を地上で落としたらどうなる?」
「そりゃ普通に落ちるだろ」
何当たり前の事言ってるんだという顔のアンリに、ルーカスはニヤッと笑うと、持っていた服を横に投げ出した。
「何やってんの!?」
横に投げ出された服は最初は普通に投げられるがままに飛んでいったが、黒竜から少し離れると一瞬で視界から消えてしまった。
いやっ、消えたのではなく風で後ろに飛ばされたのだ。
そしてルーカスは、なっやべぇだろと言っているが、そういう問題ではない。
コルトはここがどこなのかも忘れてルーカスの胸ぐらを掴んだ。
「何考えてんだ、このアホ!!服を投げ捨てるバカがいるか!わざわざ軍の整備科の人がお前専用に作ってくれたんだぞ!」
「あとで回収すりゃいいだろ」
「こんなところから投げたモノが見つかるわけないだろ!仮に見つかっても綺麗なままなわけあるか!今すぐに探してこい!」
「あぁ分かった分かった、うるせぇなぁ」
「お前がこんなバカな事するのが悪いんだろうが!見つかるまで絶対に戻ってくんな!」
声を荒げて怒りをぶつけるが、相変わらず軽く受け流すルーカスにさらに怒りが湧いてくる。
なので早く行けと激怒の表情でプレッシャーを与え続けるとめんどくさそうに立ち上がり、バク転するように、だがそれよりも遥かに高くジャンプすると、最高到達点で先程の服と同じように一瞬で遥か後方に流れていき、あっという間に見えなくなった。
「大分慣れたつもりですが、時々出る魔族仕草にはやはり驚きますね」
呆れと苦笑が混ざったハウリルは、それでも僅かに楽しさを滲ませてそう零した。
「あれが魔族の常識なら、交流なんて推奨できないですよ」
「……まぁまぁそう言わずに。あれで合わせる気が全く無いわけではないですし、それなりに順応も見せているので交流が増えれば合う部分も増えると思いますよ。まずは何事もやってみなければ」
「それは…、そうなんですけど……」
新しい刺激は大事だし、行動しなければ何も分からないのは分かってはいる。
だからといって常識外の頭のおかしい行動に感化されても欲しくないと思うのだ。
「コルトさんはアレの突飛な行動にわたしたちが簡単に影響されると思いますか?そのくらいの良し悪しの判断はできますよ。でもあれを見てる分には面白いと思うのはまた別問題なので、勘弁していただきたいですね」
「………!」
クスクスと笑うハウリルに、たしなめられた気分になり少々バツが悪い。
自立が目的なら良いも悪いもこちらが干渉するのは、ただの過保護であり目的と相反する。
でも思うのだ。
干渉を止めた結果が今のこの世界なら、やっぱりこちらで善悪を判断し続けたほうがいいのではないだろうか。
でもそれを否定する自分もいた。
そんな余計な事をしなくたって、なんだかんだで彼らは社会を築いて今日まで生き延びている。
人同士での争いは絶えないが、それでもなんだかんだで前に進んでいる人たちがいる。
そしてまた恐怖に襲われた。
全身の毛が逆だって震える。
──アンリ…。僕の自我は神に近い、これはもう認めないといけない。でもそれなら僕はどうしたらいいんだ。君たちのために、僕は何を選べばいいんだ。
「そんな事よりさ、アイツがいなかったらこれどうやって降りるんだ?私らじゃ竜と喋れないじゃん」
1人悶々と思考の渦に飲まれかけたとき、アンリが至極当然の疑問を投げてきた。
ここは上空1万メートルの高さで、当然落ちれば命はない。
そして乗っているのは言葉も通じず、数時間前に出会ったばかりの魔物だ。
それこそ”余計な事”を考えている場合ではなかった。
「ルーカスがいないからって急に暴れたりしないよな!?」
「グァッ!」
「だから分かんないって!」
「…ググァア……」
「まぁそう焦らず。こちらの言葉は分かるのですから、街の近くに降ろしていただきましょう。さすがにルーカスがいない状態でのこれ以上の飛行は危険ですから。それでもいいでしょうか?」
「グガァ!」
その吠え声と同時に黒竜はゆっくりと降下体勢に入って、高度を徐々に下げていく。
こちらの言葉は通じているようだ。
そして薄い雲の層を抜けると、すぐ下にヘンリンの街が見えた。
思ったよりも近くを飛んでいたらしい。
さらに街に近づいていくと、どうやら向こうも気が付いたらしく、街から大勢の人たちが出てきた。
そのうちの何人かが何やらジェスチャーでこちらを誘導している。
「街の東に降りてほしいようですね」
「まぁ降りられそうなところってそこしかないしな」
「グルル」
黒竜は一鳴きすると指定された方向に向かって飛び始めた。
そして無事に着陸すると、ワッと人が集まってきた。
「良かった、無事だったか!」
「はい、こちらは何事もなく。どうかされましたか?」
「ネフィリスに竜は先行したって聞いてたのにいつまでも来ないから何かあったんじゃないかって心配してたんだ」
「おやっ、ネフィリスさんはまだもう少し掛かるのではと聞いていたのですが」
「あの人のことだから、竜に先行されたのが気に食わなかったんじゃないか?」
「なるほど、何となく想像がつきますね。それでネフィリスさんは今はどちらに?」
「城で寝てるよ。お館さんもそうだけど、瀑布越えは大量に魔力を消費するらしくてな、こっちに来てすぐは大抵寝てるよ」
「おやっ、竜のかれ?でいいのでしょうか、かれはこちらに来てからも上空まで飛んだりと割りと元気でしたが」
「竜や鳥は翼があるからな、魔族ほど魔力に依存した飛行をしないらしい。だから魔物の輸送も出来るんだろう」
「そういう事だったんですね」
「だからルーカスのやつ、砦で捕まってたのか」
前から疑問ではあった。
圧倒的な魔力量を持っていて、共族が何人で囲もうと圧倒できるだけの力がありながら、何故か共族の砦に捕まって死にかけていたルーカス。
どんなバカをやらかせばそんな事になるのかと思えば、何ということはない。
単純に渡航による大量の魔力消費で以前の亜人との戦闘後みたいな状態になっていたところを襲われたのなら、まぁ捕まっても納得できる。
「それで竜人の兄ちゃんのほうはどうした?」
「ルーカスは上空で落とし物をしましたので、今その捜索中です」
「……大丈夫か?」
「できないことはできないとはっきり言うタイプなので、実行したからには大丈夫だと思いますよ」
「そっ、そうか……」
ハウリルの笑顔に何かを感じ取ったのか、それ以上は聞いてこなかった。
「まっ、まぁとりあえず竜に乗った感想を聞かせてくれ。鞍とか必要じゃなかったか?」
「一度飛び始めれば問題ありませんでしたが、荷物を固定する何かが欲しいです。ですが、それについてはルーカスに聞いていただけますか?わたしたちでは竜と会話をできないので」
「分かった。ならこの後どうする?」
「私達は荷造りしないとだろ」
「そうだね。僕もカバンの中の配置とか変えとかないと……」
こちらで必要なものと、向こうで必要になるものは恐らく違うものになるはずだ。
この間のタブレットの件で使った機材を使うようになるだろう。
なら予めカバンの奥底にしまっているものを、手前にしておいたほうがいい。
「では一度解散いたしましょうか」
ハウリルのその言葉に頷くと、各々荷造りのために宿屋の部屋に戻ることにした。
ちなみにルーカスはその日の夜にちゃんと服を着て戻ってきた。
服に汚れや損傷はほとんどなく、その仕事の素晴らしさに感銘を受けた。




