第118話
それは雄大さをそのまま形にしたような生き物だった。
黒い鱗に覆われた巨体を空で滑るように走らせ高く嘶きながら頭上を旋回し、時にコルト達の近くを通り過ぎては、凄まじい風圧を叩きつけている。
幻想の中の生物が、今自分の目の前に存在していた。
それだけで胸が沸き立つ。
──人の夢見た幻、確かにこれを幻想のままにしておくのは惜しい。
人の生活に不要か否かで言えば、間違いなく不要な生物だ。
だが、これを見せられて自分の世界を好きに作る事ができるとなれば、間違いなく作ると思うだけの力があった。
今更になってただ機械的に再現しただけの世界が惜しくなる。
そしてそれは地を震わせながらも静かに降りたった。
四足型の地に降りた姿は空を飛んでいた時よりもさらに大きく感じる。
しっぽの先から鼻先までで50メートルを越えるのではないだろうか、口を開けば人ひとり分がすっぽり収まりそうである。
「……!………、……………!」
「グルゥ」
ルーカスが片手を上げ、なにやら口をパクパクさせながら竜に近寄っていく。
竜もそれに答えるように一度だけ鳴いて伏せるように顔を近づけると、そこから先は口が半開きのままだ。
ルーカスの様子からどうやら喋って会話をしているのは分かるのだが、近くにいるはずなのに全く声が聞こえないため、何を喋っているのかさっぱりわからない。
口の動きからある程度分からないかとも思ったが、どうやらこちらの言語形態とは違うらしい。
それに何故か恐怖を感じた。
「あれが竜にだけ聞こえるという声でしょうか?」
「うーん、傍目から見てると口をパクパクしてるだけにしか見えない。本当に喋ってんのか?」
「こちらからは内容が分かりませんからね、そうだと思うしかありませんが。それより、竜の実物を始めてみましたが、聞いていたよりも大きく感じますね」
「だな、これじゃ確かにトカゲじゃないわ。でもさ、でもさ、これに乗ってあの山越えるって思うとワクワクしない?……コルト、どうした?さすがのお前もビビってんの?」
「えっ、うぅん。そういう訳じゃないけど」
恐怖を感じたのは確かだが、それは竜の大きさに対してではない。
未知のものに対して興奮を感じるアンリの反応を見て、神すら知らないモノに初めて触れて恐怖を感じたのだと理解することができた。
「よしっ、お前ら、紹介する。こいつは黒竜の#……×……△…だ」
思わず真顔になってしまった。
名前の部分だけがはっきりと聞き取れないのだ。
人体の可聴域を超えているのか、高音のようにも聞こえるし、その逆の低音のようにも聞こえる。
心地良いような不快なような音で、感想にも困る音だった。
他の2人を見ても、アンリは口をへの字に曲げているし、ハウリルも曖昧に薄く笑っていた。
2人ともコルトと同じく聞き取れなかったようだ。
「すいません、もう一度お名前を伺っても?」
「……やっぱ聞き取れねぇか?」
「さっぱり分かりません。一部音が出ているのは分かりますが、それを認識できただけです」
「そうそう、なんかすっごい高い音が鳴ってるのは分かったけど、なんかそれだけだよな」
「聞き取れないのは最初から分かってただろ、紹介する気があるならもうちょっとこっちに寄り添えよ」
口々に文句を言われ今度はルーカスが口をへの字に曲げた。
黒竜はそれを哀れな目で見て一舐めしている。
「竜の名前は音の高低で表すから、こっちで言う一音にあたるモノがねぇんだよ。だから音域を圧縮して聞こえるように発音したつもりなんだが……」
「人体の可聴域を舐めるな、もっと圧縮しろ」
「そういうお前は竜の文化舐めてんだろうが」
「まぁまぁ2人とも、その辺でやめてください。それより、ネフィリスさんはどこです?姿が見えませんが、別行動ですか?」
コルトとルーカスに割って入って言い争いのエスカレートを止めたハウリルは、ネフィリスの姿を探してキョロキョロしている。
そう言われると、この状況にグチグチ言ってきそうなネフィリスがいない事が気になると言えば気になる。
まさかとは思うが、こちらに戻ってくるのを渋っているのではないだろうか。
だがルーカスはさすがにそれは無いと言い切った。
さすがにそういう無責任な者が居座れる程議会は甘くないらしい。
ならどうしたのかと言うと。
「置いてきたぁ!?」
まさかの回答にアンリが素っ頓狂な声を上げた。
「一緒に飛ぶのが嫌だから、先に来たってさ」
「えっ、それ私らも大丈夫か、背中に乗る予定だろ?魔族も嫌ってるのに乗せてくれんのか?」
「それだけどな、なんかお前らはいいってよ。俺も割りと真剣に頼み込むつもりだったんだけどな、どういうわけか二つ返事でいいってよ」
そう言ってどういう風の吹き回しだと竜の鼻をバシバシと叩き、逆にブフゥーーーウとかなり長い鼻息を吹きかけられている。
それだけでこの黒竜とルーカスが気の知れた間柄である事が伺えた。
「なるほどなぁ。まぁよろしくな!えぇっと、でっかい竜!」
そんな明るいアンリの挨拶を受けた黒竜は、薄く開けた口の隙間からクックッと音を漏らした。
「では無事に合流できましたし、一度戻りましょう」
「だな。よしっ、じゃあ早速乗ってくか」
「いいのか!」
するとそれを聞いた黒竜は乗りやすいように首の位置を下げ、アンリがウキウキで鱗に足を掛けて一蹴りで一気に首に跨った。
続いてコルトもアンリに引き上げられ、なんとか広い背中に乗る事ができたが、硬い甲殻鱗で尻の座り心地が悪い。
ハウリルも背中のほうに魔術で飛び上がり、ひらりと着地している。
「首はやめとけ、背中のほうにしろ」
「分かった。でもこれどこに掴まってればいいんだ?コルトとかすぐ落ちるだろ」
否定したかったが、尻の座りどころに集中していて言い返せなかった。
そうこうしていると、竜が突然立ち上がった。
急に立ち上がったので、体がついていかずバランスを崩すが、前から後ろからと支えの手が伸びて墜落する事だけは免れた。
そして視線がかなり高い、体高10メートルは軽く超えている。
「ほらっ、やっぱコルトダメじゃん。馬には乗り慣れてるけどやっぱ勝手が違うし、さすがに支えるのも限界あるぞ」
コルトを助け起こしたアンリが、いつの間にか空中であぐらをかいてこちらをみているルーカスに文句を言った。
「飛び上がりは確かに安定しねぇけど、飛び始めたら魔力で気流の安定が入るから大丈夫だろ。竜に乗るのを推したのは、飛び始めてからの安定感が一番高いからだ。万が一落ちても俺がすぐに拾ってやるよ」
「これでさらに荷物もあるんだぜ、本当かよ」
「今のは急に立ち上がったからだし、街までとりあえず乗って感触をみてみるよ。…さすがに僕だけこれじゃ情けないし、大丈夫なんとか頑張るよ」
「本当か?本当に大丈夫か?」
今までが今までなので、いまいちアンリは信用してくれない。
今も不安そうな顔で本当に大丈夫なのかとハラハラしているのが、ひしひしと伝わってくる。
「本人が頑張るって言ってんだから少しは信じてやれ」
「……分かったよ」
そう言ってアンリはコルトを支えていた手を離すと、前を向いた。
コルトも頑張ると決めたのでなんとか掴まる場所を探すべく、手を鱗の上で滑らせた。
座り心地は悪いが甲殻鱗なので、幸いにも指を引っ掛ける場所はすぐに見つかった。
「そんじゃ……………!ついてこい」
「グルルゥ」
それを合図に黒竜は大きく翼を広げ、少し駆けると大きく跳躍して一気に空に舞い上がった。
「うわあああああああああああああ!!!!!」
「うわあああ、すっげぇ!!!!!」
大空を駆け上がり、地上がみるみるうちに遠ざかる。
コルトはそれに悲鳴を、アンリは歓喜の声をあげた。
あっという間に木々の一本を認識することすら出来ない高度まで上がると、それから数秒で竜の体勢が安定し、同時に高高度を高速で飛んでいるにも関わらず気流の流れも温度の変化も全く感じない。
そうなってようやく周りの景色を見る余裕が出てきた。
北の遠方に巨大な石造りの壁がそびえているのが見えた、ヘンリンの街だ。
この距離と高度からでも認識できるその巨大さを、機械もなしに人の手のみで造り出したのは、まさしく称賛に値する。
「見ろよコルト!あれって私らが通ってきたところじゃない!?って、うわぁ、海すげぇ!広い!」
すっげぇすっげぇと興奮しっぱなしのアンリが東を指さしながら振り向き、そしてコルトの背後に見える海を見て目を見開いた。
アンリの言葉にハウリルも振り返る。
すると、その声に反応したのか黒竜が旋回して海のほうを向いて飛び始めた。
「大瀑布はここからでは見えませんね、これでは本当にあるのか疑わしいものですが」
「かなり距離あるからな、この高さからじゃもっと近づかなきゃ見えねぇよ」
いつの間にか背中に降り立ったルーカスが一番後ろに立って同じく遠くを眺めている。
「瀑布は見りゃすぐ分かるぜ。あれは底が見えねぇくらい深いから、光が届かなくて黒く見える、それが南北数百キロ続いてる。東西は完全に一周するって言われてるが、誰も確かめたことがねぇから実際は分からねぇ」
「そういえば大地が球体という話でしたね」
「それな、見てみろよ、地平の端と端を。湾曲してんのが見えんだろ?自力で一周できねぇお前らでも、あれが見えれば納得できんだろ」
そう言われて、アンリとハウリルは目を凝らしたり、腕を前に構えて水平をみたりしている。
「あっ、本当だ。なんかちょっと曲がってる」
「なるほど、だからここからでは北の山も見えないんですね。遠くに行くほど地面が曲がるので隠れてしまう。曲がった向こうは見えませんからね。とはいえそれだけで本当に一周できるかは分かりませんよ。魔族でも一周できないなら、もしかしたら瀑布の端は繋がっているかもしれませんし、また別の形になっているかもしれません」
「んな事言われても知らねぇよ。俺は自分の経験で言ってるだけだし、それが信じらんねぇならお前らの技術で証明しろ」
「それはいつか誰かに期待しましょう」
「あはははは、ハウリルはそういうの興味なさそうだもんな」
「そんなことはありません。この光景は素晴らしいと思っていますし、兄にもいつか見て欲しいと思っています。ただ、それを実現する技術に興味はありませんし、仮にいまからどうにかしようと思っても、生きている間になんとかなるとは思えません。そういうアンリさんも楽しそうではありませんか」
「当たり前だろ、すっげぇ楽しいじゃん!地面から見えるのなんてほんの一部でさ、それが空からならたくさん見える!でもそれすらほんの一部でさ、知らない世界がもっともっとずっと向こうの空からでも見えないところにあるんだろ。楽しくないわけないじゃん!しかもそこにこれから行くんだぜ!」
そう弾む声で遠くを指差すアンリの姿にコルトは無性に嬉しくなった。
心の底から湧き上がり、全身が震えるこれは、間違いなく喜びだと断言できる。
遠くを眺めた。
そこには知らない世界が広がっていた。
いやっ、知らないわけではない。
でも人の体を持たなければ、一生見ることはなかった光景がそこにはあった。
どこまでも広がる豊かな緑と、そこに覆いかぶさる蒼穹。
人も街もこの大地と空の前ではちっぽけで、ここにたった1人で放り出されたら間違いなく途方にくれるだろう。
──だから人は集まって助け合うんだ。
神の視座でこれを見た記憶はコルトには無い。
──これを神は見たのかな。
見て欲しいと思った。
アンリが嬉しそうで、背中からもハウリルがいつになく興奮している事が伝わる。
彼らが喜ぶこの世界を見て欲しいと思う。
人に不要と言われても、この世界を彼らは肯定してくれている。
世界は神の思ったようにはならず、人も世も滅茶苦茶になってしまった。
何がどうしてこれを是としたのかも、または失敗したのかも分からないが、今を生きる2人の姿はコルトには慰めになった。




