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きみのそばに  作者: ひろゆき


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 第三章  ~  変わること  ~  (6)

 意識が浮ついてしまう。

           5



 自分の不甲斐なさ、未熟さを心底恨みたくなる。

 今日一日、ずっと気持ちが上の空であった。

 ついさっき終わった最後の授業が何であったかも、はっきり思い出せないでいるほど、意識が浮ついていた。

 それでいて、芽衣とはちゃんと話せていない。無意識のうちに避けていたのかもしれない。

 まったくもって情けないのだけど、まだ昨日のことが信じられないのである。

 放課後、眠気もあってか体が重たく、浩介の誘いも断り、机に突っ伏してうたた寝をしていた。

「…………っ」

 意識が暗闇に紛れていくなか、声が聞こえてくる。

 どこか懐かしくもある感覚は、今朝誘われていた夢のなかなんじゃないか、と錯覚してしまう。

「ーー石原くん?」

 また大切なものが離れていくような不安に駆られていたとき、耳元で柔らかい声が弾けた。

「……また?」

 突発的に動いた唇。何を発したのか朦朧としているなか、視界には横たわった教室の机が映り込んできた。遠くに見える空も、奥で横向きになっており、瞬きをしてしまう。

「ーー石原くん?」

 寝ていたのか、と理解したとき、新たに柔らかい声が降り注いだ。声に吸い込まれるように体が起きる。

 大きなあくびが出そうになった瞬間、体が硬直して目を見開いてしまう。

 目の前に無邪気な笑顔を献上してくれる芽衣が立っていたので。

「……長澤」

 情けない声が木霊すると、芽衣はより目尻を下げて目を細める。

「どうしたの? なんか、様子が変だよ」

 まっすぐな疑問が突き刺さり、唇を噛みながら頭を掻いてしまう。

 動揺が隠せない。

 肩をすぼめてしまう姿を笑いながら、芽衣は前の席の椅子に座った。

 こちらに振り向く芽衣が新鮮に見えてしまう。普段、休み時間は浩介が占領しているので。

 もちろん、本来は浩介の席でもないのだけれど。

「なんか、緊張してる?」

 さらなる指摘に喉がギュッとなってしまう。心のうちを見透かされたみたいで。

「まさか、昨日のこと?」

 芽衣の表情が曇っていく。

 二人に漂う雰囲気に負け、溜め息がこぼれる。

「……初めてだったからさ……」

 素直に白状した。

 昨日のことが初めてであり、だからこそ緊張して動揺が止まらなかったのを。

「……それって、どっちが?」

「ーー両方だよ」

 情けない顔を見て笑顔を取り戻し、拍車をかける芽衣に語尾を強めて反論する。

 もう恥もさらけ出すしなかい。

「変に意識しないでよ、そんなにさ」

「わかってるけど、それでも……」

 照れくさそうに言う芽衣に、顎を擦ってごまかすしかない。そんなこと言われると、また直視できずに視線を上げた。

「やっぱ、意識しちゃうものなのかな」

「……意識っていうか」

「嬉しかった、とか?」

「お前、茶化してるだろ?」

 動揺するのを嘲笑うように口角を上げる芽衣。溜め息交じりに抵抗するのがやっとである。

「悪かったな。情けなくて」

「そんな、怒らないで。私も一緒だから」

 恨めしげに眉をひそめると、芽衣は呟いて頬を掻いた。

 頬を少し赤らめており、どこか恥ずかしそうでもあり、顔を背けた。その姿は可愛く見えた。

 変に強がるのが無意味に思えた。

「……ちょっと信じられなかったんだ」

 素直な言葉がこぼれた。

「なんでそんなこと思うのよ」

「いや、まぁ、ちょっとね……」

 茶化すのを楽しんでいた芽衣の目に、好奇心とは違う輝きが灯ってしまう。

 夢のことを言うべきではない、とブレーキを踏んで喉の奥に言葉を隠した。

 実際、今では夢の内容はちょっと曖昧にもなっている。

 それでも、芽衣の掴もうとして掴めなかったあの寂しさはまったく拭えないでいた。

「ちょっと不安だったのかな。昨日のことが」

 話をはぐらかしていると、芽衣はしばらく宙を眺めたあと、不意に手首を掴んだ。

 柔らかな温もりが手の平から優しく伝わってくる。

「どう? これでも不安?」

「いや、そんなことはーー」

 瞬間、芽衣は急に手に力を込めてきた。それは雑巾を絞るような容赦ない力で。

 痛みに頬を歪め、腕を引こうとしても、芽衣に拒まれて憎らしいほどに笑みを献上してくる。

 今だけは殴りたくなりそうだ。

「ーーどう?」

「お前、やっぱり茶化してるだろ」

 芽衣は力を抜くだけで、答えはしない。

「なんだったら、キスでもする?」

「ーーえっ? あ、そのーー」

 顔に熱が帯びていくなか、またしても力を込めてきた。

 また顔が歪み、苦痛に満足した芽衣は声を上げて笑うと、ようやく腕を解放してくれた。

 ホッと安堵して、痛みをごまかそうと手首を擦っていると、芽衣は顔の横で手の平を小さく振って見せた。さぞ得意げに。

「ーー大丈夫だよ」

 不思議である。たった一言なのに、それだけで救われた気がして、頬がほぐれた。

 直前まで憎らしく見ていたのに。

「帰ろ、石原くん」

 と、跳ねるように芽衣は立ち上がり、釣られて立ち上がる。

「そういえば、お前、今日はバイトの日じゃなかったのか?」

「うん。でも今日は休んだ」

「なんで?」

 自分の席に戻り、カバンを取りに行く後ろ姿に問いかけた。すると、カバンを取って振り返り、

「うん。ちょっとね」

 なぜか顔を合わせずに答えた。

「それより行こ、石原くん」

 うん、と頷きながら、机の横からカバンを取ろうとしたとき、手が止まり、頭のなかで急に霧が晴れていく。

 薄暗い闇が晴れた先見えたのは夢の光景。笑っている芽衣の姿。

 夢のなかの芽衣の唇が動いた。

「……たける?」

 耳を澄まさないと聞こえない、小声で名前を呟いた。

 夢では芽衣は「尊」と呼んでいた。

 これまで下の名前で呼ばれたのはなかったのに。

 ただの願望かもしれないけど、なぜか頭に引っかかってしまっていた。

 あれは本当に願望なのか、という違和感が。

 緊張してしまう。

   仕方がない。初めてなんだから。

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