アミの章
森には獣道という、人の眼には見付けにくい道があります。
草の生い茂る場所でしたら、はっきりと草がかき分けられ、足下が踏み固められている「道」が見えるのですが、丈の長い草が生えていない森の中だと、あまり見分けられないのです。
森の奥に丈のある草が少ないのは、樹高の高い木々が茂っているために、十分な日光を浴びることが出来ないためです。または、それらの木々が地中の栄養や水分を独占してしまって、背高の草々に回る分が無くなってしまうからなのかも知れません。
何にしても、森では獣の通る道を見つけるのは至難です。
ある程度経験を積んだ猟師は、落ち葉が蹴散らされた道を見定め、足跡を探します。
しかし、狼のヨルにはそんな手順は不用でした。
「道」は初めから見えています。嗅覚という発達した器官を以って、ヨルは鹿たちが通る道を見定めていました。
風下に伏せ、鹿が通るのを待ちます……。
次に鹿が道を歩く時――その時に、喉笛に食いついてやるつもりでした。
カサリと落ち葉が揺れた時、ヨルは四肢に力を込めました。
獲物を仕留めようとしました。
しかし、獣道を歩いて来たのは、見覚えのある、ふわふわもこもこでした。
一瞬、呆けたヨルは言いました。
「……アミなの?」
声を掛けられて、ようやくヨルに気が付いたアミは、安心したように微笑み、その場で座り込んで眠ってしまいました。
ヨルは助けを求めて吠えました……家族を呼び集めるために。
――こうして、牧場を離れたアミは、狼の家族の元へと帰りました。
◆◇◆
そうか。アミは羊の群れの中には戻れなかったのか。
父狼のルーグは、思いのほか衝撃を受けてはいませんでした。
狼の心を持ってしまったアミは、そうか……そうなることも有るだろう。おれが始めたことだ。うん、そうか……。
――アミ。すまない。とだけは、思わないようにしていました。
家族の元へと帰ったからといって、アミは狼に成れるわけではありません。
羊は羊。生まれた時から姿を変えることは出来ないのです。たとえ狼の心を持っていたとしても。
『――な? 言ったとおりになったろう?』
ルーグは、森の暗がりから響いてくる懐かしくも疎ましい、あの声を再び耳にしました。
どうして今まで静かにしていたのに、また出て来たんだ。
うるさいんだ、お前は。
おれは決めたんだ。家族を守るってな。
『――家族を? アミもか?
考えは美しいと思うよ。でも、きっとこのままだと守れないぜ。
どうやって守るんだ。鹿は減っているのに。
他の土地に移るのか? きっとその土地にも別の狼の群れが居るぜ。
そいつらと争うのか? ……弱いアミを守りながら』
ルーグは静かな心持ちで、森の中の闇を見つめ返しました。
何を言ってるんだ、ここで暮らすに決まってるだろう。
鹿が少なくなっても、得物はいるさ。
アミは守る。家族なんだからな……花を探す狼がいたって良いだろう?
『――それが、狼らしくない生き方だとしても?』
あぁ、そうさ。
それが愛するっていうことだと、おれは思っている……そうさ。
◆◇◆
アミはしばらくの間、ふさぎ込んでいました。
ずっと何かを考えている様子で、好物の花をブネやヨルが持って来てあげても、あまり食欲がわかないようでした。
ルーグは、後悔していました。
過去から目を背けようとしたために、こうなってしまった。
アミは牧場で知ってしまったのでしょう。自分が狼ではないということを。
結局、森へ帰って来るのなら、牧場へなんて行かせなければ良かった。
……アミの幸せとは、何だったのでしょう。
あの雨の夜、ルーグがアミを見つけて、ねぐらに持って帰って来なかったら、アミは凍えて死んでいたはずでした。
そのアミを「非常食」として育てようと思い付かなかったら、アミはとっくに狼の一家のごちそうとして消費されているはずでした。
羊たちが暮らす牧場へと送られても、狼に育てられたアミは、そこに馴染めずに森へ戻って来てしまいました。
狼の心を隠したまま、羊として生きるか。
羊であることを知りながら、狼のふりをして森で生きるか。
二つに一つしかありません。
……アミはずっと考えていました。
思考に没頭するあまり、食事にすらあまり意識が向かなかったのでした。
◆◇◆
――ある日、アミは家族を草原に行こうに誘いました。
久しぶりに、ヨルと駆けっこがしたい、と。
狼の家族は喜びました。
少し元気になってくれたのだな、と。
森を出てすぐ、大きな岩の上に、ルーグとブネは寝そべりました。
眼前には、丈の低い草が茂る草原。地平の果てには荒野が広がっています。
草原の上で、ヨルとアミが転げ回っています。
夫婦は、その様子を穏やかに見守っていました。
夕暮れが近付いた時、夫婦は子供たちを呼び寄せました。
さあ、もうすぐに夜だよ。森に帰るとしよう。
ヨルはすぐに両親の元へと歩み寄りましたが――。
◆◇◆
アミはその場を動かず、うなだれていました。
ヨルは狼狽えてて、両親の顔を見比べました。
はっきりと明暗が分かれていました。
狼の家族は、木陰の中……アミは、西日が差す、草原の中。
ルーグは思いました……この子は、狼であることを諦めたのだと。でもこの子は生まれた時から羊であって……。
あるべきものが、あるべき所へと戻ったのだと、ルーグは思いました。
「――牧場で、羊として生きることに決めたのかい?」
あぁ……そうに違いない。
アミは羊になることを決め、家族から離れる決心をしたのだと。
しかし、ルーグの問いかけに、アミは首を振りました。
狼でも羊でもなく――アミはどう在るというのでしょう。
アミは、岩に駆け上がって言いました。
「アミはね、『アミ』になるよ!」
◆◇◆
家族は、アミを見上げました。
皆、アミが何を言っているのか分からなかったので、ぽかんとして見上げました。また行ってしまうの……アミ。と、ヨルが問いかけます。
アミは笑って答えました。
「ヨル、お母さん……お父さん」
その時、ルーグはアミの眼の中に狼が宿っているのを見ました。
それは他でもない、アミの瞳に映っている自分の姿でした。
アミが旅立とうとしている、と気が付いたのは、この時でした。
「……狼のように生きて!」
その言葉を聞いた時、ルーグは気付きました。
本当は、自分は何だって出来るということを。
選び、決めさえすれば。
どんなことだって出来る……。
アミの首根っこを咥えて、森に連れ帰ることだってできる。
ブネとヨルを連れて、アミの旅路に寄り添うこともできる。
どんなことだって出来るのに、ルーグは森で狼として生きることを選びました。
◆◇◆
アミの背中が、地平の果てで黒い点となり消えるまで、家族は見守っていました。ヨルはきょうだいが去った方向をいつまでも見守り、ブネはそっと寄り添いました。やがて日が暮れ、昼と夜との境界が分からなくなった時。
ルーグは吠えました――高く遠く。
どうか、地平の果ての荒野を歩む、あの子のもとに届きますように――。
この時、森の動物たちや、近くの牧場の人々は思いました。
――あぁ、狼が帰って来た……と。
◆◇◆
……羊が、果てのない荒野を旅しております。
時おり乾いた空を眺めて、少し休んではまた立ち上がり、羊は歩いて行きます。
何処かを探し求めて、歩いて行きます。
羊は今も、何処かを探し求めて旅を続けています。
――この羊の名前は、アミと言います。
アミが狼の家族と出会った日……見上げた雨上がりの夜空が、樹々の梢に張られた蜘蛛の巣に貯まった雫が、あまりにも美しく輝いていたので、父狼のルーグがそのように名付けたのです。
……ただ一つ、確かなこと。
アミは狼の子です。
――おしまい。