いぬの章
牧場に入れられたアミは、羊たちと馴染めませんでした。
簡単にいうと、アミは自分を「羊」だと認識していませんでしたので、羊の群れのことを、ごよごようごうごしている、無害そうな何かの群れがいるなぁ、くらいにしか思っていませんでした。
狼の家族が自分を置いて行ってしまったのは悲しかったのですが、きっとこれは、本当の狼になるための試練であって、乗り越えられたなら、また家族のもとに帰れると思っていました。
アミは、牧場で自分の居場所を見つけることにしました。
◆◇◆
牧場には、ごよごよしている羊の群れと、それを統率する牧羊犬がいました。
牧羊犬は、群れの周りを走ったり、はぐれた羊の前に伏せて睨みつけたりして、上手に羊たちを一つの群れにまとめていきます。
働く牧羊犬の姿は、きょうだいのヨルを思い出させました。
きっと、彼ら牧羊犬を見習うべきなのでしょう。ここで生きていくためには。
アミは彼らの動きを真似て、群れを追い狭めたり、伏せて睨みつけて羊たちの行く手を遮りました。
羊の群れが全部、厩舎の中に入ってしまうと、ようやくアミは「ふう」と一息を吐き、休憩がてらに、そこらの花を食べ始めました。
そこに、一頭の牧羊犬がやって来ます。
「おい、何でお前だけ厩舎に入ってないんだよ! ふわもこ!」
自分のことを言われていると思わなかったので、アミは無心に花を食べていました。苛立った牧羊犬が吠えるものでしたから、ようやくアミは気が付きました。
ふわもこって、アミのことを呼んだのでしょうか。
「お前の他に誰がいるんだい! おまえ、アミっていうのか? ……いや、そんな名前なんてどうだって良いんだ! ふわもこ!」
牧羊犬は噛んだりしませんでしたが、友好的とも思えませんでした。
あんなに手伝ってあげたのに、どうしてなんでしょう。
◆◇◆
――アミは「牧羊犬」としての活動を続けました。
頑張っていたつもりなのに、誰からも、ちっとも喜ばれませんでした。
特に絡んでくるやつ――最初にアミのことを「ふわもこ」と呼んだ牧羊犬――彼の名前はプットと言いました。
プットは、アミを目の敵にしていました。
「ふわもこ! お前が厩舎に入らないと、オイラたちの仕事が終わらないんだ!」
そんなことを言われても、アミは狼なのですから、羊たちと一緒にせまっくるしい厩舎なんかに入る必要はないのです。
それどころか、牧場にやってきてから今日に至るまで、羊たちを追う仕事を手伝ってあげていたというのに、未だに一言のお礼も聞いていないのはどういうことなのでしょうか。
アミはそこまで不満をまくし立てると、最後に、感謝して欲しくてやっていたわけではない、ということだけ言い添えました。
プットはぽかんとしてアミを見つめ返すと、言いました。
「お前みたいに変な屁理屈をこねる、反抗的な羊は初めて見た……」
◆◇◆
そんな日々が続いていた時。
プットは、あの反抗的な子羊、アミの姿が見当たらないことに気が付きました。
いつもなら群れに混じらず、プットたち牧羊犬の間をうろちょろしては仕事の邪魔をする、あのアミの姿が。
ひょっとして、ついに根を上げて態度を改めることにしたのでしょうか。
素直に群れの中に混じっているから、姿が見えないのでしょうか。
いいや……プットは頭を振りました。
アミがそんなに単純で組みし易い羊ではないということは、身に染みて分かっていましたので。
また、アミが花ばかり好んで食べているのも知っていましたので、手土産にクロッカスの花をくわえて、迎えに行くことにしたのでした。
いくら広いとはいえ、柵のある牧場。
プットは鼻も利いたので、アミを探すのはさほど難しいことではありませんでした。
◆◇◆
アミはなだらかな丘の上に、ひとりで座っていました。
見下ろす先には、羊たちの群れ。
「ははぁ」とプットは感付きました。アミのやつめ、さては寂しくなったんだ。
突っ張って牧羊犬をからかう遊びをしてみたものの、他の羊の気を引くことは叶わず、さりとて今さら群れに加わることも出来ず、ひとりで拗ねているんだ。
そう思ったプットは、たまには優しい言葉でも掛けてやるかと、アミへと歩み寄りました。
「よう、ふわもこ。らしくないじゃないか。良かったらオイラが相談にのってやるぜ……羊の群れに入れるよう、いや、うん……牧羊犬の先輩として」
アミの自尊心を傷つけないよう、プットは言葉を選びながら、摘んできた花をその足元に放ってやりました。
アミは、放られた花とプットの顔を見比べ、また羊たちの群れへと視線を移しました。
やっぱりなと、この時プットは思ったのです。
群れに入りたくて悩んでいたんだな、と。
けれど、アミの口から出たのは、予想を超えた衝撃的な言葉でした。
アミはこう言ったのです――。
もしかして、自分は狼じゃなくて羊なんじゃないか――と。
プットは、びっくりして慄きました。
「いまさら!?」
うっかり口も滑らせてしまいました。
信じ難いことにアミは真剣だったのです。心の底から自分が狼であることを信じ切っていて、今、それが揺らいでいることに悩んでいたのです……。
プットは言おうとしました。
「そうだよ! お前は……!」
羊なんだよ、……と。
けれど、プットは言えませんでした。
ずっと見て来たのです。アミが牧羊犬のように振る舞う様子を。
正直に言って邪魔でした。何の役にも立っていませんでした。
けれど、アミは一生懸命でした。
どうして、アミに言えるのでしょう。お前は狼でもないし、牧羊犬でもないと。
生まれた時から、お前は羊であって、変わりようがないのだと。
◆◇◆
――ある日の夜。
伏せていたプットは、牧場を経営する人間たちの声に、ぴくりと耳を立てました。
人々は、祭りの相談をしていました。
祭りには一頭の羊をつぶして、皆に振る舞わなくてはならない。
どの羊を生贄にしようか。
そうだ、あいつが良い。いつも群れに混ざらないやつ。
あいつを供物にしよう……ごちそうが決まった。
プットは思いました……ほらな、こんなことになった。
だから言おうとしたんだ。お前は牧羊犬じゃないんだって。
でも言えなかったんだ。お前は、自分が狼だって信じていたから。
狼に成れない代わりに、牧羊犬のように振る舞おうとしていたのを見ていたから。
今、お前のことを可哀想だって思っている。
――でもきっと、そうじゃないんだろう? アミ。
プットは、のそりと立ち上がりました。
◆◇◆
プットは、アミを牧場の端まで連れ出しました。
牧場の端っこには、柵が有ります。羊が逃げられないように。
プットは柵の下の地面を前足で掘って、アミが潜れる隙間を作りました。
アミは心配しました。
自分のことではありません。プットのことを。
あの泥だらけの前足を見たら、誰が供物の羊を逃がしたかなんて、牧場の人々にはすぐに分かってしまうでしょう。
「オイラはさ、生まれた時から牧羊犬だった……それが誇りだった」
それを聞いたアミはまた、プットのことを思いました。
アミを逃がしてしまったプットは、どうなるのだろう……優秀な牧羊犬であることが誇りだったプットは……。
アミを前に、プットは言いました。
「知ってるか、ふわもこ。心に決めてしまえばオイラたち、何でも出来るんだぜ! 例え生まれた時から牧羊犬だとしても、決めて選んだら……羊を柵の外に逃がすことだって」
でも、これっきりさ。羊を友達にするなんて、もう二度としない。
じゃあな、最初で最後の羊の友達。お前はどう見たって羊だけど……心に決めて選ぶことが出来れば、狼にだって成れるかもな。
プットはそう言い、別れを告げました。
「行きなよ、アミ。オイラたち、きっともう会うことは無いけど……森の方から狼の遠吠えが聞こえた時は、お前のことを思い出すよ」
その時……厩舎に明かりが灯りました。
他の羊たちがざわめいているのを聞きつけ、人間が起き出して来たのでした。
プットは耳をぴくりと動かし、立ち尽くしているアミに向かって吠えました。
「……何立ち止まってるんだ、行けっ!」
アミは柵の下の隙間を潜って、ついに牧場から抜け出します……振り返ると、遠くの厩舎からランタンを持った幾つかの人影が飛び出し、明かりを揺らめかせながら四方に散ってゆくのが見えました。
中には、こちらに近付いて来る光もありました。
プットに「森で暮らさないか」と言いかけ、アミはそれを止めました。
彼は柵を越えて、こちらに来るつもりが無いのだ――ということが、確かに伝わって来ました。こちらを見つめる眼差しや立ち姿から。
◆◇◆
……アミは駆け出しました。
様々な思いが胸の内で渦巻くのを感じながら、この日、アミは牧場を出て己を育んだ森へと帰りました。