ひつじの章
ルーグは、いつだって子供たちのことが気がかりでした。
ヨルについては、我が子として信頼していました。
強い相手には、ひとりで挑んではならないということを言い含めていましたし、何よりヨルはひとりで兎を狩って来るくらいに成長していました。
アミは……自分が狼だと信じています。
いつか、牙と爪が生えてくるのだと信じています。
懸命にヨルの真似をして……いつか立派な狼になれるのだと、疑っていませんでした。
しかし、アミは本当は羊である、ということが真実なのでした。
どんなにアミが「自分は狼だ」と信じていたとしても、
ルーグは、アミのことが心配でした。
森には、狼の他にも羊にとって危険な生き物が棲んでいるからです。
ブネと共に狩りに出ても、アミのことが心配で注意を削いでしまうことが、しばしばありました。
ヨルには――アミを守ってあげなさい、あの子には、まだ牙も爪も生えそろっていないのだから――そんな風に言い付けてました。
◆◇◆
ルーグは苦悩しました。
アミは、自分が狼であると信じています。
そのように育てたのは、他ならぬルーグでした。けれど……。
アミを、本来の居場所である、牧場へと帰してあげるべきなのでしょうか。
そうするべきだ――己の内で、狼ではない自分が囁きました。
『――もともと、羊の子を拾って育てようなんて考えが、狼らしくなかったんだ。
どうしてそんな事を思い付いた? どうして喰ってしまわなかった?
見ろ。情が移ってしまって、この有様じゃないか。』
そんなことは、改めて確かめなくとも分かっている事でした。
それでも、あの雨の夜、アミと出会わなければ良かったとは思えませんでした。
育てようなどとは考えず、獲物として食べてしまっていれば良かったとは、どうしても思えなくなっていたのでした。
今や、ブネやヨルと同じくらい、アミは大切な家族になっていたのですから。
……そうだ。
アミに自分が狼ではないことを気付かせず、守り抜いて暮らして行けば。
そうすれば何も問題は無い……何も。
立ち直りかけたルーグの心に、またそいつが囁きました。
日の差さない、見通せない森の奥から、そいつは語りかけて来るのでした。
『――なぜ、アミを牧場の羊の群れの中に帰してやらないんだ?』
なぜって……アミは、自分のことを狼だと思い込んでいるんだ。
上手くいきっこないさ。羊の群れに帰したって……不幸になるだけだ。
それよりも、おれたちの側に居て自分は狼なんだと信じ続けて、生涯をまっとうする方が、よっぽど……。
『――幸福だって? 暗い森で獣に喰われることに怯えて生きることが?
……ルーグ。お前はもしかして、怖いんじゃないのか。
アミが羊の群れに紛れちまった時、もう見分けがつかないんじゃないのか。
それを恐れているんじゃないのか。アミを見失うことを。
所詮は、狼の一家と他所の羊だったんだ。
離れ離れになっちまったら、もう――。』
そんなことは無い!
羊の群れの中に居たとしても、アミを見間違うはずはない!
アミだって、おれたちに気が付くはずだ。
そう、夕暮れが近付いたら、牧場の近くで遠吠えをするんだ。
他の羊どもは怯えて逃げるだろうが、アミは、アミだけは近付いて来るんだ。
そして、牧場の柵越しに、家族の会話をするんだ。
……どうだいアミ。新しい暮らしには慣れたかい、ってな。
そしたらアミは、元気に暮らしてるよ。お父さんたちは? って返すんだ。
もちろん、おれも母さんもヨルも、変わりないよ……って。
何も変わらない! 暮らす場所が変わっただけで、何も!
『――つまり、アミを羊の群れの中に帰そうと思っているんだな?』
「………………」
ルーグは、絶望と安堵が入り混じった心持ちで、森の暗がりを見つめました。
最後にそいつは、また語りかけました。
『――柵を隔てて共に生きるか。
噛みころすのが良かったと思うぜ。初めに決めた通りに。
狼の魂は、誇りはどこにやった?
ルーグ。お前……まだ自分が狼のつもりでいるのか?』
だまれ……、もうだまれ。
ルーグは自分の影に唸りました。影はもう、何も話しませんでした。
◆◇◆
ルーグは自分の心には何も応えず、アミを羊の群れに帰すことを決めました。
ヨルは、出会った時と同様、突然にいなくなってしまうきょうだいのことに、混乱するでしょう。きっと悲しむでしょう。
ブネには初めから「最後に食べるつもりで育てる」ということは伝えていました。
でもブネは、どんなに家族が飢えても「はやくアミを食べましょう」とは言いませんでした。ブネもアミを愛しているのでした。
でも……結局はアミを羊の群れの中に帰すのだと告げたら、どんなに悲しむでしょう。
――ある晴れた日の朝。
ルーグはアミに言いました。
お前には、本当の居場所があるんだよ、と。
アミを拾って以来、ルーグは牧場の柵の中に侵入して、羊を狩ろうと思ったことはありませんでした。
まず、築かれた柵の中に侵入し、二つ足の獣――人間の銃撃をかいくぐって獲物を持ち去るということが困難だったので、避けていました。
アミを養い初めたころには「アミに羊の姿を見せるのはまずい」と思っていました。アミが「自分は狼だ」という認識に疑問を持つかも知れませんでしたから。
アミを家族と感じた時には、羊という生き物を食物だと思えなくなりました。
ルーグとブネは、アミを羊の群れの中に帰すことにしました。
◆◇◆
「……アミがいっぱい居る」とヨルは言いました。
牧場の柵の向こう、ずっと遠くで、多くの羊たちがひしめいていました。
――夜を待ちます。羊たちが厩舎に入れられる時間を。
柵の下を掘って、アミが通り抜けられるくらいの抜け穴を作ると、ルーグはそっとアミを押しやりました。
可哀想に、自分の境遇が分からないアミは、抜け穴を辿って狼の家族のもとへ戻ろうとします。
声を詰まらせたルーグの代わりに、
「これからここで暮らすのよ、アミ」とブネが言いました。
離れてしまっても、家族であることに変わりは無いわ。
月の出ない晩には、牧場の近くに出向いて、狼の歌をうたいましょう。
そしたらアミ、あなたも、わたしたち家族が近くにいるって分かるでしょう……?
「いやだ! アミといっしょにいる!」とヨルが騒ぎました。
きょうだいであるアミとの別れを察したのでしょう。
ルーグはヨルの首根っこを噛んで持ち上げました。ヨルはだいぶ大きくなっていましたが、ルーグに掛かればまだ子狼も同然なのでした。
「キャン!」というヨルの鳴き声が、牧場に響きます。
厩舎の羊たちはびくりとして身を寄せ合い、人間たちは目を覚まします。
――狼が来た。撃退しなければ。
もはや、一時の猶予もありません。
ルーグたち家族は、すぐにここを後にしなければなりませんでした――アミを残して。