おおかみの章
羊が、果てのない荒野を旅しております。
時おり乾いた空を眺めて、少し休んではまた立ち上がり、羊は歩いて行きます。
何処かを探し求めて、歩いて行きます。
……群れからはぐれた羊というのは、狼や鷲などに狙われやすいのです。
普通なら、あっという間に捕らえられ、餌食にされてしまうでしょう。
けれど、この羊はとても賢く、すばしっこかったのです。
誰もこの羊を捕らえることは出来ないのでした。
羊は今も、何処かを探し求めて旅を続けています。
――この羊の名前は、アミと言います。
◆◇◆
だいぶ昔のこと――。
荒野よりも遠く離れた土地に、針葉樹の森がありました。
あまり陽が差さず、いつも湿っていて、森の底にはコケが生い茂っていました。
コケは鹿にとっての大好物でしたので、この森にはたくさんの鹿が棲んでいました。もちろん、鹿を獲物とする者も森に棲んでいました――狼です。
森には、狼の一家が暮らしておりました。
父狼のルーグ。母狼のブネ。幼い子供のヨル。
ルーグは体格に優れ、知略に長けた、若く強い狼でした。
小さな群れではありましたが、ルーグに掛かれば、どんな獲物も――それが例え、勇壮な牡鹿であろうとも、逃がしはしませんでした。
けれども、近頃は獲物となる鹿の数そのものが、だんだんと減りつつあるとルーグは感じていました。
おそらくは、森が削られて羊を飼うための牧場が作られたせいで、森は多くの鹿たちを養えるだけの力を失ったのだろう、とルーグは考えていました。
愛する子供のヨルが、大人の狼になる頃には、この森はどうなっているだろう。
そればかりが、ルーグの気がかりでした。
◆◇◆
――ある雨の降る夜。
ルーグはおみやげを持って、家族の待つねぐらへと帰りました。
おみやげとは、哀れな一匹の子羊でした。
頸元を咥えられ、ぶら下げられて、すでに意識はありません。
不幸なことに、親からはぐれたのでしょう。
もしかして、捨てられていたのかも知れません。
まだ赤ちゃん同然の羊だから、牧場の柵をくぐり抜けられたのでしょう。
その先が、どんな危険な場所かも知らずに。
それを見た母狼のブネは「まあ、ごちそうね」と喜びました。
すぐに、お腹を空かせて眠っている子供のヨルを起こしに行こうとしたブネでしたが、それをオルグは呼び止めました。
待て、これはすぐに食べようと思って連れて来たのではないんだ、と。
分けがわからなそうな顔つきで立ち止まったブネに、ルーグは言いました。
おれはこの子羊を育てようと思う、と。
そしていつか、本当に食べ物に困った時、この子羊を食べよう、と。
母狼のブネは「そしたら、名前を付けてあげなきゃ」と言いました。
ルーグは、そんなものは必要ないと思いましたが、いつか子羊は自分に名前が無いことを疑問に思うかも知れませんでした。それは困ります。
悩んだルーグが頭上を見上げると、すでに雨は止み、夜空は晴れていました。
高い樹々の枝に、幾重にも張りめぐらされた蜘蛛の巣が見えました。
それに引っ掛かった雨露が、まるで蜘蛛の巣に捕らえられた星々のように見え、ルーグは思いつきました。
星を捕らえる網、アミ。
いつか食べられる子羊の名前は、アミにしよう。
◆◇◆
――それから、ルーグたち一家は、アミを育て始めました。
アミは初め、弱っていました。
ルーグやブネが、草木の葉っぱを運んで来ると、それをもそもそと食べます。
アミが好きな物は何だろうと考え、ルーグは試しに良い香りのする花を、アミのために持ち帰りました。
アミは喜んで食べました。アミは花が好物だったのです。
ルーグは狩りをする時にはいつも、綺麗な花が咲いていないか、周囲を探るようになりました。
幼いヨルは、突然に現れた、自分の姿とは似ても似つかない新しいきょうだいを、大変に疑りました。
そろそろ近付いては、匂いを嗅いで逃げ、そっと前足を触れさせては逃げ……。
けれど、やがてアミが元気になると、すっかりふたりはうちとけて、追いかけっこをして、転げ回って遊んでいるのでした。
そんなヨルとアミを、母狼のブネは優しげに見守っています。
そんな家族の様子を、穏やかな心持ちで見ている自分に、ルーグは気付きました。子羊のアミを育て、家族で食べるつもりでいました。しかし――。
いつか、本当に獲物が獲れなくなってしまった時。
愛する子供のヨルが「お腹が空いた」とひもじさを訴えた時。
おれは、アミをこの牙にかけることが出来るのか……?
……いや、出来る。
そのために育てたんだ。そう、きっと出来るとも。
ルーグは、自分にそう言い聞かせました。
◆◇◆
狼と羊の食べる物は、違います。
狼は捕らえた獲物の肉を食べますが、羊は肉を食べません。
食事の際、アミは一家の食べる物とは別に花束を与えられ、それを食べていました。
お前はまだ小さい子供だから、肉を食べれないんだ。
父狼ルーグがそう言ったので、アミはそれを信じて花を食べていました。
味も悪くありませんでした。
……子羊のアミは、自分が羊だと思っていませんでした。
というより「羊」が何なのかを知っていませんでした。
自分がふわふわもこもこなのは、まだ子狼だからで、いずれは年上のきょうだいのヨルのように、真っ直ぐな硬い毛に生え変わって、立派な牙と爪も生えてくるはずだと信じていました。
そして、やがては家族と一緒に狩りに加わるのです。
こんなに美味しい花の味を忘れてしまうのは残念でしたが。
……狼に育てられたアミは、自分は狼だと信じて疑っていなかったのでした。
◆◇◆
ある日のこと。
いつものように、ヨルと一緒に遊びに出掛けていたアミは、ちょっとした怪我をして帰って来ました。
どうやら、追いかけっこをしていた途中、ヨルが興奮してアミに噛みついてしまったようなのです。
ヨルはきょうだいに怪我をさせてしまったことに、すっかりしょげていました。
母狼のブネは、アミの傷を舐めてあげていました。
アミは――幸いなことに、怯えていないようでした。
ルーグは、我が子のヨルに言いました。
血を流すことに怖気づくな、と。
これは狩りの訓練の結果だ、怪我をしたり、させるのは仕方ない。
本当の狩りになったら、手心を加えることでこちらの命取りになることもある。
お前が本当の狼ならば、一度通した牙は貫き通せ。
自分を曲げない、それが狼の魂だ、と。
ヨルとアミは、じっとルーグの言葉に耳を傾けていました。
不意にオルグは気恥ずかしくなり、眼をそらしました。
付け足しのように――アミ、お前だって噛みつかれたら、やり返したって良いんだぞ。
そんなことを言って。
◆◇◆
――そんな家族に、本当に厳しい冬がやって来ました。
鹿は何処へ行ってしまったのでしょう。
ルーグは兎を狙いましたが、あいつらはあまり雪と見分けがつかない上に、捕まえたとしても満足のいかない獲物でした……家族で食べる分としては。
家族は、食糧に困っていました。
皆が元気を失う一方、アミだけはいつも通りに元気でした。
ルーグたちが肉を食べられないとしても、アミはその辺の、樹木の皮なんかを食べられるのですから。
ねぐらの外では、しんしんと雪が降り積もっています。
時折、どさりと枝から雪が落ちる音が聞こえました。
狼の家族は、もう何日も食べ物を口にしていませんでした。
ルーグは思いました。
いよいよ、この時が来てしまった。
アミを、この牙にかける時が……分かっていたこと。ルーグ自身が始めたこと。
おれは狼だ。羊を噛みころすことくらい、何とも思わない――。
自分に言い聞かせ、アミの姿を探しましたが……アミは見当たりませんでした。
ルーグは狼狽えました。
母狼のブネも、子供のヨルも、アミが何処へ行ったか知らないと言います。
◆◇◆
アミは家族に告げずに、こっそりとねぐらを抜け出したのです。
ルーグは不安になりました。
あの子は――アミは気付いていたのだろうか。自分が狼でないことを。
いつか自分が食べられてしまうと知っていたから、今日がその日だと感じ取って、逃げたのだろうか。
……逃げたあの子を、誰かが傷付けやしないだろうか。
性悪なキツネやイタチに、いじわるをされていないだろうか。
いや、それ以前に、あの子はこの寒さをしのげているのだろうか。
ルーグは、この不安の元が何なのか分からなくなりました。
家族が飢えている今、あてにしていた食糧が逃げてしまったことに対する不安なのか。この雪が降りしきる中、アミの行方が分からくなってしまったことに対する不安なのか。
ブネが「アミを探しに行くわ」と立ち上がった時――、
近くの茂みが、がさりと揺れました。
そこから歩み出て来たのは、アミでした。
「アミ!」
狼の家族は、アミに駆け寄りました。
帰って来たアミはずぶ濡れで、泥だらけでした。
そして、へとへとに疲れていました。
ルーグは、アミを叱りました。
こんなに雪の降る中、どこで何をしていた。冬眠してない熊にでも会ったらどうする。お前には牙も爪も無いのだから――というように、くどくどと。
アミは、怒るルーグを前に、耳を垂れながら言いました。
皆のごはんを探しに行っていたのだと。
ルーグはいったん、言葉を呑み込みました。
アミは、何かを皆の前に差し出しました。
それらは、秋を越してしなびてしまった、森の果実でした。
サルナシにキイチゴ……。
本当は兎を捕まえて来たかった、とアミは悲しそうに言いました。
でも、自分には牙も爪も無いから、これしか取って来られなかった――と。
ブネが何も言わずに、アミにそっと寄り添いました。
ヨルが疲れ果てたアミの身体をなめました。
ルーグは、自分はこの子羊を噛みころすことが出来ない、ということを悟りました。どんなに飢えても。そんな感情は狼らしくないと知りつつも。
――アミは、大切な家族でした。