テスト勉強で
高校生になってはじめての定期テストが近づいている。
普段は休み時間になる度にくっちゃべって光希の耳を煩わしている野球部の連中も、机に腰かけて騒いでいる奴らも、坊主頭のように背中を丸めて机の上の参考書と睨み合いしている。
それは水無月たちチャラグループも例外ではなく、いつものメンバーで集まりながらも、やっていることは勉強だった。
光希ははじめてのテスト勉強期間に見るはじめての光景にちょっとした感動を覚えた。普段勉強をしている自分が肯定されたような気分になった。
「ねーここどうやってやんのー?」
「俺に聞かれてもよお」
彼の前の席――つまり水無月の席の周りで頭を突き合わせているチャラグループは、学校指定の問題集を開いて苦悶の表情を浮かべている。普段から勉強してないツケだな、と彼は思った。と同時にいつか払わされるであろう青春のツケを思うと気が塞がった。
(俺は花の十代をこうして無為に過ごしている……勉強なんてのはいつでもできるが高校生活は3年しかないのに、な)
「あ、そーだ」
不意に、水無月が閃いたように呟いて、自らの座っている椅子を90度回転させ、光希と向かい合った。
「(なんだ……)……?」
「コーキくん、あたしらに勉強教えて!」
「え?」
「あ、それいいじゃん」
チャラグループの一人で、先日駅前で見かけた茶髪ストレートの女が同意する。他のいつメンも、口には出さずとも期待するような眼差しを光希へ向けていた。
(なんか、悪くないな……)
「いいかな?」
「あ、うん(ヒーローは遅れてやってくる、ってな)」
「マジで!? やった! で、ここなんだけどさ……」
彼らが教えを乞うたのは、4月頃に授業で学んだことの基本的な問題だった。
「(高校で浮かれ気分のこいつらならいかにも忘れてそうな時期だな)えーっと、これは〜の公式を使うんだよ」
「……?」
(あれ?)
水無月はしかめっ面をして問題を睨みつけたままだ。
「あ、あの、公式って覚えてる?」
「いや……そんなの習ったっけ?」
水無月の言葉に、マイメンは一斉に首を振った。
(おいマジかよ、ドラゴン桜じゃねえんだYO!)
「てことでさ、なんか公式知らなくても点数とれる勉強法教えて!」
「……ない」
「え?」
「そんなものはない!」
熱くなって立ち上がり、机を叩いた。
クラスメイトの視線が集まる。
(あ、やべ……)
彼は顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりしながら座り直した。
「す、数学は公式覚えて何度も問題を解くもんだから……近道とかないから……」
「あ、知ってる。学問に王道無しってやつでしょ」
「(なんでその言葉は知ってるのに乗法公式知らないんだよ。中学でもやっただろうが!)ま、まあ、だからまずは教科書開いて重要事項を覚えるところからはじめようよ」
「えーめんどくさ」
茶髪女の不満に、彼はもう少しで誰にも振るったことのない拳を繰り出すところだった。幼稚園の時、相楽左之助の二重の極みに憧れて石を殴って血まみれになって以来振るったことのない拳だった。
「まあまあ、コーキくんが言うんなら間違いないでしょ!」
「でもよ、あとテストまで2週間しかないのに、そんな覚えられっか?」
黒髪ツンツンの男が言う。コイツは確か茶髪ストレート女に袖にされてる奴だっけ、と彼は記憶を掘り起こす。
「(できるかどうかじゃなくてやるかどうかだろうが)でも、こうしないと数学は点数取れないから……」
「コーキくんが言うんならそうなんじゃないか?」
そこで助け舟を出したのは、茶髪ピアスのイケメンだった。
「勉強って日々の積み重ねが大事だから。だろ?」
「(けっ、また神対応っスか?)う、うん……」
「でも彰人は勉強できっからなー」
黒髪ツンツン男がぶーたれる。が、光希に対するほどではなく、しぶしぶながら教科書を取り出して読み始める。
それを皮切りにして、最高の仲間たちも自分たちの勉強に戻った。水無月も「ありがと、コーキくん」と言って、問題を解き始めた。
***
ある日、光希は気分転換に図書室へ行くことにした。と言っても勉強のためではない。
ドアを開けると、普段は図書委員以外は人のいないガラガラの部屋に、自習スペースを中心として所狭しと生徒が座って勉強に励んでいる。中学の時は見られなかった光景だ。
彼は机には座らず、本棚を眺め始めた。
(ラノベはブギーポップとキノの旅しかないしな……夏目漱石でも読んでみるか。夏目つながりで)
とりあえず『草枕』の収録された一冊を取り出し、カウンターへ向かった。
カウンターには女子生徒が一人座っていて、退屈そうに本を読んでいる。
「あ、あの……」
「はい?」
彼の声に女子生徒は顔を上げた。
「(うわ、めっちゃ美人やんけ)本借りたいんスけど……」
「ああ、じゃあそこの貸出票から自分のをとってください」
言われるがまま、「夏目光希」と書かれた票を取り出す。
「じゃあここに、今日の日付と本のタイトル、裏表紙に貼ってある番号と……貸出期限には今日から3週間後の日付を書いてください」
「あ、はい」
「……夏目漱石、好きなんですか?」
「あ、はい」
「私も好きなんです。あまり周りには読んでる人がいないんですけど」
「あ、はい」
印象的な切れ長の目が細められた。彼女の笑顔は同年代にしては大人びていて、あでやかだった。濡れ羽色の艶やかな髪が、夜の海のように波打った。
必要事項を書いて渡すと、女子生徒はスタンプを取り出して押した。
「はい、じゃあ期限までに返してください」
「あ、はい」
帰り際、もう一度自習スペースを見てみると、特徴的な金色の髪の毛が見えた。
(あ、水無月さん)
今はいつもつるんでいる連中はおらず、一人で勉強しているらしい。いつもは笑顔を浮かべている顔も今日は真剣に引き結ばれている。
(そうそう、勉強は一人でやるもんだ。誰にも邪魔されず、独りで静かで豊かで……)
彼は図書室を後にした。
理由はあえて言わないが、これからは足繁く通って本を借りようと思った。
***
定期テストが終わっで一週間が経った。
すでに個々の授業でテストは返されているが、今日は順位表も含めて返却される日である。
勉強が苦手なクラスメイトは「まぢむり」などと言って絶望の表情を浮かべている中、光希は図書室で借りた本を黙々と読んでいた。
(結果の分かりきった戦など、恐るるに足らず……)
やがて彼の名前が呼ばれた。
教卓の前で受け取ると、「素晴らしいですね」という褒め言葉をかけられた。
(もっと褒めてくれ)
机に戻って順位を見ると、案の定236人中1位という数字が書かれていた。
国語は少し伸びなかったが、他のテストで軒並み高得点をマークしている。
(国語はまあ満点は取れないだろうから、可もなく不可もなくと言ったところだな)
彼が順位表を見て頷いている前の席では、水無月たちが順位を発表しあっている。
「俺174位」
「あたしは123位」
「俺は2位だな」
「2位!? 2位ってすごすぎんぜ彰人!」
黒髪ツンツンが驚きの声をあげる一方で、彰人こと茶髪ピアスの神対応イケメンは苦笑いを浮かべていた。水無月など他のメンバーも口々にほめたたえている。特に茶髪ストレート女は羨望のまなざしを越え、瞳に熱っぽい色を帯びていた。
「まあ、ちゃんと勉強はしてるからな」
「っかあ〜羨まし〜! 俺にも分けてくれよ脳みそ!」
「殺す気か」
そんなふうに和気あいあいとしている彼らを見て、光希はどこか羨ましさを感じていた。
自分にも友達がいたら、あんな風に笑いながら話し合えただろうか。
自分と水無月たちの間には底の見えない深淵が広がっていることを、彼は改めて思った。