ある日、学校で
教室のドアの前に立って、夏目光希は深呼吸をした。
県立芦原高校に入学してからもう2か月が経つというのに、いまだにこの瞬間だけは慣れない。
なにも難しいことは求められてないのだ。
彼はクラスのトップカーストでもなければ中堅でお調子者をしているわけでもなく、むしろ友達のいない日陰者、いるかいないか分からない奴という認識をされている。だから、朝の挨拶で人気お笑い芸人のボケを振られることだってないのだから、ただ教室を開けて席に座るだけでいい。
でも、だ。
再び深呼吸。
廊下を行き交う生徒たちは時折彼の方へ怪訝なまなざしを投げかけた。それすらも槍のように刺さって、胸がじくじくと痛むような錯覚がする。
意を決して横開きの取っ手へ手をかけ、威勢よく開け放した。
(やべっ、音デカすぎた……)
案の定、すでに登校して勉強するなり談笑するなりしていたクラスメイトが作業を中断して、教室の入り口――光希の立つ入口へと視線を送る。
途端に、クモの巣にからめとられたかのように、身体が言うことを聞かなくなってしまう。
(あ……)
いつの間にか握りしめていた拳の中で汗がにじみだす。
けどそれも一瞬のことで、「なんだ、あいつか」という得心をしたクラスメイト達はさっさと思い思いの時間へ戻っていった。
今度は安堵のため息が出て、いそいそと彼は自分の席へと向かう。教室の中央列、前から三番目が彼に与えられた居場所だった。
今日も花瓶が置かれていないこと、机の中に猫の死骸を入れられていないこと、椅子に画びょうがばら撒かれていないことを確認してから腰を下ろし、肩掛けのバッグから教科書類と筆記用具を取り出す。それからブレザーのポケットからウォークマンとイヤホンを取り出し、音楽をかける。
「よし、やるか」
知り合いから譲り受けた数学2の参考書を取り出した。
これが彼の朝のルーティーンだった。もはや勉強以外に学校ですることがないガリ勉の一日は、こうして始まる。
耳に流れる音楽の向こうからも聞こえる教室の雑音が大きくなった。人間が口から立てるざわめきだった。
(なんだろう)
顔を上げると、つい今しがた到着したクラスメイトに人が群がっているところだった。
ああ、水無月さんか、と彼は一人合点した。
人の山の中心に、よく手入れされた金髪が見えた。その人物は如才なくクラスメイトと雑談を交わすと、教室中央前から二番目の席――つまり彼が今必死に三角関数の問題と取っ組み合っている席の前に来た。そこが彼女の席だった。
「おはよっ」
「あ、はい」
と返してから、挨拶にあ、はいで返す奴があるかと自分で自分にツッコミを入れる。このやり取りは入学してからずっと二人の間に交わされていたのだが、「おはよう」に「おはよう」で返せたためしがない。いつもどもってしまって、それであたふたしている間に向こうは義務を終えたような横顔をして前を向いてしまうのだった。
ところが今日は挨拶を終えても前を向かない。水無月は身体を半分光希に向けたまま、視線をある一点、すなわち彼の手元へ固定していた。
「ど、どうしたの?(なんだろう、数学の問題集しかないんだけどな)」
「あ、いや……そんな範囲、学校で習ったっけ?」
「ああ、いや、その、これはその、俺……僕が勝手にやってて」
「どゆこと?」
「ええっと、もう数学1は大体分かったから、二年生の方を先取りしようかなって」
「え、マジで? ヤバッ!」
「あ、はい(何がヤバいんだろう。俺の顔かな)」
「めっちゃ勉強してんじゃん! えーっと――コーキくんってそんな勉強得意なん?」
「あ、うん(コーキ、じゃなくてミツキなんだけどな)」
「へー頑張ってね!」
「あ、うん(水無月さんは頑張らなくていいのだろうか)」
水無月はそれきり前を向いて、彼女の周りにたまたま席を割り振られたイケイケ男子女子との会話に興じ始めた。ややあってから、教室のいたるところに散らばったクラスメイト達が、わざわざ彼女と話すために席を立ち、彼女の下へと馳せ参じた。
彼女の席は彼と違って、彼女を押し込めるために誂えられたような気がした。
(初めて水無月さんと会話をしてしまった……)
水無月美亜。
県立芦原高校に入学するや否や、その類まれなる美貌と抜群のコミュニケーション能力で学年・性別を問わない人気者へと駆けあがった。今朝教室に入った時のあの光景は、もはや日常と化している。登校中、いろんな生徒に声をかけられていたのを見たこともある。
そんな彼女と会話をすることくらい、造作もないことなのだろう。実際、クラスメイトは彼を除いて全員、連絡先を交換するまでの仲になっていた。
なぜ、光希が彼女と会話すらしてこなかったのかといえば、
それは、彼が極度の人見知りであるからという他ないのだろう。