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我思うとしても、我あらず。

作者: 平田 実

「我思う故に我あり」と言うデカルトの有名な言葉がある。

これは徹底的に世界の全てを疑っていく中で、他の全てがないとしても今疑っている自分はいるだろうと言うことを表す言葉である。


しかしどうだろう本当に自分はいるのだろうか。

例えば、原っぱでのんびり散歩している人を私たちは想起することができる。

そして、小説や映画、ドラマの登場人物のようにその人のキャラを徹底的に作り込んだとする。

我々は、その人になって考えることができる。

この時我々が想起した人物がデカルトのように世界を徹底的に疑ったとしてもこの人は存在していると言えるだろうか。

ギリギリ言えるのではないだろうか。

その人は我々の頭の中で存在していると言えるだろう。

では、この時我々すら誰かの頭の中で想起された人だとするとどうなるだろうか。

つまり、誰か(A)の頭の中で想起された人(B)の中でさらに人(C)を想起している状態だとしよう。

A => B => C

(想起) (想起)

このような3層ある状態であるとするとCは存在すると言えるだろうか。・・・(1)

これも結局Aがいるため存在すると言えるのではないだろうか。

では、もしもこの場合でCがAを想起していた場合どうなるだろうか。・・・(2)

その場合無限ループに陥るのではないだろうか。

そもそも誰が元となっているのかが分からなければ存在していると言えるのだろうか。

この場合、私には答えがない。

しかし、この時無限ループに陥っていると誰がわかるだろうか。

我々が誰かを想起し、想起された人が私を完璧に想起した。

このことは当人たちには分からないのではないだろうか。

では、誰がわかるのだろうか。

これを外部から観測している何かではないだろうか。

それは必ず存在しているのではないだろうか。


もしもこの世界で、私が親しい友人を想起していて、その人がまた他の誰かを想起している。

これが繰り返されているだけであれば、存在しているのはそれを観測している何かだけではないだろうか?

私には分からない。

他の人の考えを聞かせていただきたい。

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